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小説『大誓願まで』*『 恩讐の彼方に』のリメイク

「三郎!そこは危ないぞ、よく杖で確かめて歩きなさい」
「和尚、へっちゃらだよ!」返事が終わらないうちに、三郎は縁側から足を踏み外し仰向けになって下に落ちた。
「それ見たことか、おい、大丈夫か?」和尚が腰を上げ慌てて駆け寄った。
「へへぇ、いてぇ」危うく礎石に頭をぶつけそうになった三郎は、坊主頭を撫でながらべそをかいた。

三郎は六才。江戸の浅草で生まれた。三才の時に両親を亡くしてから、上野の禅寺、善生庵に預けられていた。

駿河の三島にある流澤寺の禅師、白陰は江戸に来る時は善正庵を定宿にしていた。白陰の名はすでに臨済宗中興の祖として全国に知れ渡っていた。白陰は寺で合間を見つけて筆を取り、達磨や布袋の絵を描いた。仏の教えを親しみやすい禅画にして人々に伝えるためだ。

ある時、善正庵の境内で、腕白たちのいじめに遭う三郎の姿が白陰の目に留まった。

「お前の父様は家来に妾を取られた挙句、殺された、情けないのう」、「そして、母様はそれを苦にして自害なさった」、「それでお前は目も見えなくなり、侍の家が取り潰しじゃ」、「早く仇を取ってくるのじゃ、その了介という家来を探してこい、それが親への供養じゃ」

何度かこうした光景を目にした白陰は、善正庵の住職に事情を聞いた。腕白の話は本当だった。三郎が三歳の時に父親は殺害された。その場に居合わせた三郎は、乳母によって現場から引き離されたが、その日から、三郎の目が見えなくなったということだった。

話を聞き、不憫に思った白陰は寺で三郎の話し相手になっていた。この日も慌て者の三郎と本堂の縁側に座りながら、白陰は話し出した。

「三郎や、お前はいつもいじめられて悔しくはないのか?」白陰は問うた。
「和尚さん、それは悔しいよ、でも小さい時に起きたことはあまり記憶にないんじゃ。いつかは仕返しをしたいけど、どうすればよいかのう」三郎は逆に白陰に尋ねた。
「そうか、分かった、相手にせんことじゃ、今のようにな、やがて、奴らも気にしなくなる、それまでは辛抱することじゃな」
「それで、お前は父親の仇を討ちたいとは思わんのか」白陰は聞いた。
「それが、和尚さん、わしにはよう分からん、仇討ちというのはした方がよいのかの」
「そうか、三郎や、お釈迦さんの教えでこんな言葉がある『昔、遠くの地にて人知れず為したる悪業といえども、それ故にとて安心すべからずいつか自ら報いあらん』と。お前の父親を殺害した男は遠くへ逃げたかも知れんが、いずれ報いが来る、だからお前はただ自分の人生を歩んだらよい、分かったか」
「うん、分かった。和尚さん、もし、仇討ちをしたくなったら相談するよ、それより、早く絵を描こう、そっちの方が面白いよ」
「お、そうか、そうじゃのう、ちょっと硯の水を汲んで来てくれんか」

こうした会話をしながら白陰は、絵を描く時の手伝いを三郎にさせた。呑み込みが早い三郎に白陰は目をかけ、三郎と会うことが江戸に来る楽しみの一つにもなっていた。

「おい、三郎、今度の達磨の出来はどうだ、お前の意見を言いなさい」白陰は傍にいて熱心に筆を追う三郎に話しかけた。三郎は全く目が見えないわけではない。ただ、視界がぼんやりとして目の前に霞がかかったような状態でしか物が見えなかった。
「和尚さん、達磨さんの姿がはっきりと見えん。もっと、わしにも見えるように描いてもらえんやろか」三郎は答えた。
「そうか、よし分かった、これでどうじゃ」
白陰は達磨の衣に思い切って朱色を入れ太い線で輪郭をなぞった。
「どうじゃ、お前にも達磨がよう目に入るだろう」白陰は聞いた。
「和尚さん、姿はよく見えるようになったけど、顔がよく見えん、どんな顔をしとるのじゃろか?」三郎が再び白陰に尋ねた。
「うん、そうか、まだ、お前には顔がよく見えんのじゃのう、よし、これでどうだ」
白陰は再び筆を入れ達磨の目をギョロリと際立たせた。
「どうだ、これで見えるだろう、お前さんにも達磨の顔が」
「和尚さん、よく見えます。この達磨さん、大きな目で自分を見ているようじゃ、怖いのう」
「ハハァ、それで良い、この達磨を見て、人が自分の心にハッと気づくためにわしは絵を描いとるのじゃ、よう気づいたのう」

江戸で絵筆が進んだ白隠は、やがて、三郎を三島に引き取り育てることにした。三郎は駿河は富士山が近くに見えると知り喜んだ。

三島の流澤寺で、白陰は何百人もの弟子を抱えていた。三郎は進んで手伝いをし、厳しい修行に励む雲水の間ですぐに人気者になった。そして、上野で腕白にいじめられていたことは次第に忘れ素直な子に成長していった。

そんなある日、豊前中津藩の武士が参勤交代の帰りに流澤寺に立ち寄った。藩主の菩提寺を創建した僧の肖像画を白陰に依頼に来たのがその理由だ。そして、慈照寺という菩提寺の跡取りを一人送って欲しいと懇願した。白陰はその場で西国の客の願いを聞き入れた。

やがて、肖像画は完成し、後継者として送る弟子も決まった。中津に送る弟子の名は鄭州と言った。まだ二十代の若い禅僧は流澤寺で一緒に修行をした絵師の池大賀と仲が良かった。鄭州が西国に赴任すると聞き、池は夫婦で自分たちも豊前まで見送ると言って引かなかった。

そして、池はその旅に三郎を連れて行くことを思いついた。というのも、池は流澤寺で絵を描くときはいつも三郎を頼りにしていた。そして、池が水墨画を描くたびに、三郎はいつか自分も海を渡り、水墨画に描かれた世界を実際に見てみたいと言っていたことを覚えていたからだ。

一行が、豊前の中津へと出発する前、池は白陰に対座して「実はお願いしたいことがござる」と話を持ち出した。「三郎を豊前に連れて行きたい。昔、水墨画の世界がこの国にもある、それが豊前にある耶馬渓という所だと、三郎に話をしたもんじゃから、自分も絶対について行くとせがまれてのう」池は申し訳なさそうに白陰の反応を伺った。

「そうか、一度、三郎には絵の手伝いの褒美をせにゃならんと思うておった。よし、お主らと同行するなら安心じゃ、まだ子どもだからよく世話をしてくれの」白陰は承諾し、三郎の豊前行きは決まった。

豊前へは一か月もかかる長い道中だったが、一行は無事旅を終え豊前中津の慈照寺に着いた。

池は親友の鄭州と連れだって中津の城下町や耶馬渓へと繋がる山国川という名の川の土手をよく散歩した。池はとりわけ耶馬渓が気に入っていた。耶馬渓の地は、城下町から五里ほど離れた山間にあったが、池が写生に行くときには必ず三郎が供をした。

ある時、耶馬渓の古刹、羅漢寺で写生の手伝いをしていた三郎は、境内で遊んでいた市太という村の子どもと親しくなった。市太は三郎を連れ出して近くの川や山で遊んだ。東国から来た三郎の話しぶりが面白く、市太は自分より少し年下の三郎を弟のように可愛がった。

中津での滞在が予定より長くなり「三郎や、残念だが、そろそろ駿河に戻らにゃいかん、いいかな」と池が三郎に話を持ち出した。
するとすぐに三郎は「いやじゃ、わしはここに留まる、耶馬渓や友達も好きじゃ、ここに残してくれ」と哀願した。三郎の意思は固く、ほどなく池は降参した。三郎の年齢は八歳を過ぎようとしていた。

市太から三郎が慈照寺に残ったという話を聞き、耶馬渓の羅漢寺の尼僧、照覚が尋ねてきた。照覚は鄭州から三郎の生い立ちを聞きながら、ある因縁を感じたがその時はそれを黙っていた。

「良かったら、私が三郎の面倒を見るから、しばらく預からせてくれませんか」照覚は住職に申し出た。城下町で仲間がいない三郎のことを気遣ってのことだった。

険しい岸壁に立つ羅漢寺は室町時代から耶馬渓の地に根を下ろし、村の人の崇敬を集めていた。三郎にとって山寺での作務は起伏があり大変だったが、市太と遊べることが楽しみだった。

三郎が絵が好きなことは変わらなかった。白陰や池から学んだ画法を受け継ぎ、見事な水墨画を描いた。その絵を照覚は大事にし、額に入れ本堂に飾った。

羅漢寺で生活をし始めて、三郎は、禅介という僧が青の村にある川に面した絶壁をノミで穿ち道を作ろうとしているという話を聞いた。

「禅介さんはなぜ大変なことを始めたのじゃろか、元々は江戸から来ちょる人と聞いたがのう」三郎は覚えたての方言を使いながら照覚に尋ねた。

「そう、詳しいことは知らんが江戸にいた時に大罪を犯した人と聞いちょる。遠い所まで逃げようと思って豊前まで来たらしいんよ。そのうち青の村人が困っているという話を聞いて、一生かけて自分の罪を贖うために岩壁をくりぬき道を通すと大誓願を立てたんちゃ。というのも、岩の絶壁の上には鎖を伝って渡る道があるんやけど、足を滑らして下の川に人が落ちての、毎年何人も死人が出ちょるのよ。槌を振り始めて、もう4-5年はなるかの」

「そうなんね、大誓願を立てるちゅうのは立派なことなんやね」話を聞いて何やら三郎は感心した風だった。

それからしばらくして、三郎は照覚に「わしにも大誓願があるから聞いちょくれ。耶馬渓の柿坂から城下町の三口まで、山国川の両岸に彼岸花を咲かせたいと思うがどうかの」と言う。

山国川は水量が多く氾濫することが度々あった。照覚はいくら花を植えたところですぐに流されてしまう、やめた方が良いと答えたが三郎は納得しなかった。

「分かった、何年かかるか分からんけど、誓願を立てるということはいいことじゃ。だが、なぜ彼岸花を咲かすかの」照覚は三郎に聞いた。

「わしは無念な気持ちで亡くなった両親を彼岸花を咲かせて弔いたいんじゃ」と三郎は続けた。照覚は三郎から親への思いを聞いたのは初めてだった。

「わしは寺に来てから教えを学んだ、もう仇討ちはしないと決めたんじゃ、わしは寺の子でいい、ただ、親の霊だけは慰めたいんじゃ」
「そうか、分かった、寺の作務は今まで通り、手加減はせんよ。それでも良ければやってみなさい」照覚は笑みを返した。

それから三郎の行動は早かった。市太に相談し、すぐに五人の仲間ができた。こうして難行が始まった。三郎は十歳になっていた。

子どもたちが山国川の岸に彼岸花を植えるという話を聞いて、大人たちは誰も相手にしなかった。それでも一年が経ち、秋に花が咲くと周りが驚いた。しかし、村の人の中には彼岸花は縁起が悪いと、根っこから引き抜く人が出てきた。また、花の球根を食べた犬が死に、気味が悪いと反対にも遭った。そのため、最初の二年間はあまり花の帯は伸びなかった。

それでも、親を弔うために、仇討ちではなく、花を植えることを選んだ健気な三郎の噂は豊前中に広がった。とりわけ、城下町の三口に近い湯屋に住む人たちが熱心に手伝いに来た。湯屋は山国川で井堰を作るときに犠牲となった母子の霊を慰める花傘鉾の祭りで有名な土地だった。

そうして、三年、四年がたち、道半ばまで進んだ時に、中津藩の殿様にも噂が耳に入り、藩からも応援の手が出るようになった。

ついに、始めてから七年の歳月を経て、全長が五里に及ぶ彼岸花の帯が川の両岸に伸びた。すでに五人の子どもたちはたくましい青年に変わっていた。そして、その頃には三郎の視力は完全に回復するまでになっていた。

やがて、全国から山国川の彼岸花を見に人が訪れるようになった。耶馬渓は秋の彼岸花と池大賀が水墨画を描いた景勝地として有名になった。

ある時、市太は三郎に聞いたことがある。どうして、彼岸花を山国川に沿って咲かせることを思いついたのかと。「それはね、羅漢寺の岩山に座って下を見ていたら、ふと、白陰和尚が描いた朱色の達磨の絵を思い出したんよ。わしも空からはっきり見えるように川に沿って大地に朱色の線を入れたい、もしかして、天国の両親が江戸から来て、山国川を伝って耶馬渓まで会いに来てくれるかも知れん、その目印にと思うてな」と三郎は答えた。

青の村では、禅介の槌音が続いていた。禅介は三郎たちの偉業を聞き背筋を伸ばした。三郎が自分が殺めた主人の子であるとは思いもつかなかった。それから二十年かけて道は貫通した。そして、村の人がそれを青の洞門と名付けた。

二人の因縁を知っていたのは羅漢寺の尼僧、照覚だけだった。しかし、照覚は誰にもそのことを話さなかった。尼僧は川の土手から洞窟や彼岸花を眺めながら、罪や不幸を克服して力強く生きる衆生のすばらしさを嬉しく思った。

(2022年12月15日 脱稿)
*菊池寛著『恩讐の彼方に』(1919年)のリメイク


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