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小説『ゲンコツの疼き』

「せっかく運動した後なのに、豚骨ラーメンを食べると効果がなくなりますよね、どうっすかね、、、でも、ビールも行っちゃいますか、、、すみません、ビール一本お願いします!」

少し遅れて来た勇樹が、矢島の隣の席に腰かけると、すぐに注文を出した。二人はジムに近いラーメン屋で待ち合わせをして、いつしか一緒に食事をして帰るのが習慣になっていた。

「矢島さん、聞いてくださいよ、うちの会社の上司はひどいんすよ。数字を出せないんだったら、代わりはいくらでもいるってほざくんすよ。こっちは必死で頑張ってるのに。頭にきて、あやうくぶん殴りそうになりました」

勇樹は大手保険会社の支店に勤めていた。コロナで客との対面営業が減り、成績が伸び悩んでいた。

「そうか、近頃はどこも世知辛いよな。プレッシャーも大変だね。でも、今は辛抱のときだよ」

「そうっすかね、そろそろ真剣に転職を考えようかな」

「まあ、その気持ちはわかるけど、早まらない方がいいよ。感情的になって上司に捨てゼリフだけは絶対に吐くなよ。相手は挑発してんだから」

「なるほど、、、そうかも、もしかして、矢島さんも、昔、職場で何かありました?」

矢島は定年間近に、前の会社を辞めた。職場で勤務態度を注意され、ついかっとなり、他の社員がいる前で上司を罵倒した。残業で疲労が溜まっていたことは言い訳にならなかった。自分で責任を取り辞表を出した。そして、東京を離れ、今は地方都市に住み、知り合いの会社の管理部門を任されていた。

矢島は自分の失敗談を話しながら、勇樹を諭した。

「まあな、嫌な奴はどこにもいるんだよ。自分からキレたら負けだよ。しばらくは我慢だね」

ジムに通い始めた矢島は、知り合って3か月も経っていなかったが、勇樹とは気が合い、屈託のない会話ができた。

矢島は理不尽なことが嫌いな男だった。地位や力を利用して、威張る人間を信用しなかった。

「ところで、勇樹の子供の頃は、喧嘩とかあったのかな?悪ガキだとか、乱暴な先生とかいた?」

勇樹にビールを注ぎながら、矢島は話題を変えた。

「そうっすね、僕たちはゆとり世代って言われているじゃないっすか。あまり喧嘩もなかったし、先生もちょっと甘かったっすね。矢島さんはどうだったんすか?」

矢島は自分の子供時分のことを話し始めた。

矢島が育った地方の町は柄が悪かった。路上で子供がつかみ合いの喧嘩をする光景は珍しくなく、中学生や高校生の中には不良がいて、大人数での喧嘩の噂はすぐに町中に広まった。目が合った、癪に障る、それだけで、通りでパンチが飛び交う時代だった。

勇樹は矢島が語る話を興味津々に聞いていた。

「矢島さんの子供の頃はすごい時代っすね。ワルがたくさんいたんすね。学校の先生はどうっすか、生徒を殴ったりする教師もいたんすか?」

「いたね、よく聞いてくれた。小学校4年生の頃の話だけど、前の席にいた女の子が背中を鉛筆で突かれたと先生に告げ口をしたんだ。それで、隣の席の男の子と一緒に職員室に呼ばれ、言い訳をする機会もなく、教師からビンタを2、3発食らったことがあったよ。ビンタはそのときが初めての経験で、本当にぶっ飛ばされそうな衝撃を感じたな。事前に歯を食いしばれと言われて、平手がコンクリートの分厚い壁みたいに顔面にぶち当たった感じよ。しばらく、頭もぼーっとなって、無言で職員室から出て、自分の席に戻ったかな。子供心に人を恨むというような感情を持ったのはあの時が初めてだね。嫌な気分だった。誰にも釈明できず、悔しかったのを覚えている」

「そうっすか、そんなことがあったんすね。同窓会に呼ばれたら、その先生はつるし上げですね」

「いやもう、とっくにお亡くなりになったよ。若い頃は兵隊に入っていたと聞いたかな。学校ではいつも片手に竹刀を持って歩いてたよ。軍隊式の教師のビンタは当たり前、生徒は問答無用、という世界が昔はあったんだよな」

「そうなんっすね、何か軍隊調なんて、コミックの世界の話でしか知らないな」

矢島は小学生の頃、別の教師にも殴られる経験をした。サッカーの試合中、足の悪い同級生の走り方をマネしたと誤解され、教師からコートの外に連れ出され、いきなりビンタを浴びた。一方的に悪者扱いされ、教師への不信感だけが募ったのを記憶していた。

矢島はそのことも勇樹に話した。

「そうなんっすね。乱暴な先生が小学校の時に二人もいたんすね。僕は先生はないけど、一度、中学生になって親から殴られたことがあったすよ。友達と喧嘩をして相手に怪我をさせたと疑われて。学校に呼ばれて帰ってきた親からいきなり平手打ちを一発食らっちゃって。言い分は聞いてくれなかったっすね。父親に対して少し冷めた感情を初めて持ったかな。その後はもちろん、仲良くはしてますよ、、、でも、たまに会っても、あまり腹を割って相談とかはしませんね」

勇樹はそう言って、グラスに残ったビールを飲み干した。

「そうか、言葉の暴力も傷つくけど、体に浴びた暴力の方がダメージが大きいよな。幸い、俺はなかったけど、もし、親から手を出されたら、子どもにはショックだよな。味方であるはずの父親が急に別人に見えたりするよな」

矢島は勇樹がもっと話を続けるのではと待っていたが、父親の話はそれで終わった。

「まあ、ラーメンは後にして、ギョーザでも注文しようか、すみません、ビールもう一本、お願いします!」

「いいっすね!」勇樹が相槌を打った。

「矢島さんは、自分から人を傷つけたり、殴ったりしたことはないんすか?」

矢島がちょうど、その話を切り出そうとした時に勇樹が尋ねた。

「そうなんだよ、今、そのことも言おうと思ってたんだよ。何も自分は子供の頃、被害者だったということを言いたかったんじゃないんだよ。自分は加害者でもあったんだよな」

「ええ、矢島さん、何か悪いことをしたんすか?」

矢島は、小学校低学年の頃、いつも一緒に遊んでいた友達の一人を拳で殴ったことを話し始めた。

「実はね、小さい頃の話で、そこまで大げさに考えなくていいと思うかも知れないけど、一度だけ、友達の顔面をパンチで殴ったことがあるわけよ。あまり人に話をしたことはないけど、あれは俺の人生の恥だと思っている。幼稚園ぐらいまでは子供同士でじゃれ合ってたくさん喧嘩をしたけど、小学生になって、相手が言うことをきかない、盾をつく、生意気だ、みたいな気持ちで、拳を握って相手の顔を殴ったのはあれが初めてで最後じゃないかな」

「あら、そんなことがあったんすか、子供でも相手は痛かったでしょうね」

「そうだね、痛いのと悔しさで顔を真っ赤に紅潮させてたよ。子供同士の喧嘩だから対等だけど、俺の方が少し腕力もあって、相手は抵抗しないと分かって手を挙げたと思うよ。友達は、避けるわけでもなく、じっと俺の顔を見ていて、そんなことをして許されるのか、というような表情をしてた。拳を振り上げた瞬間、俺もまずい!とは思ったけど、どこかで、力を見せつけたいというのがあったのかな、そのままパンチを相手の顔面に入れたわけ。相手は目に涙を一杯浮かべたけど泣かなかった。殴り返しもしなかった。でも、相当悔しい様子が表情で分かったよ」

「そうなんすね、よく子供の頃のことをそこまで覚えているんすね。何か、ずっと心の中の疼きになっていたんすかね」

「そうなんだよ、殴られるより、殴った方が後味が悪いんだよな。自分が力で相手をねじ伏せたことが卑怯な気がして。ずっとどこかで尾を引いてるよね」

「それで、その後、その子とは仲直りしたんすか?」

勇樹が身を乗り出して聞き始めた。

「その子とは高校卒業までずっと同じ学校で、家も近かったけど、その時のことは一度も話に出たことはないな。俺も謝っていない。一緒にいる時は何度もあったけど、よそよそしい関係が続いたかな」

「そうっすか、その人はそのことを覚えているんすかね。一度、聞いてみたいっすね」

「そういえば、高校の同窓会で、卒業後、一度だけ会ったことがあるんだよ。酒も入ってたけど、その時も差しさわりのない話をして終わったかな」

「いつか話せるチャンスがあるといっすね」

「そうだね、ちゃんと謝る機会を逸しているよな。向こうがそんな話を聞きたいかどうかは別だけど」

矢島は自分の話が少し長くなり気を取り戻した。

「なんか、勇樹の上司の話から始まってかなり脱線したな、すまん。つまらん子供の頃の話を聞かせちゃって」

「いえいえ、そんなことないっすよ。気持ちはわかりますよ。僕も力のある奴が弱い相手を痛めつけるというのは嫌いなんすよ。今のロシアとウクライナも同じじゃないっすか。ロシアがウクライナをいきなりぶん殴ったわけでしょう。絶対にウクライナは引き下がらないと思いますよ」

「そうだよな、ウクライナ人は殴られたことを、ずっと忘れないだろうな」

2本目のビールもすでに空になっていた。

「そろそろ、ラーメンにしますか?」勇樹が聞き、矢島は相槌を打った。

「すみません、げんこつラーメン2丁、お願いします!」

あっという間に、二人はラーメンを平らげ、店を出た。

「矢島さん、今日は色々と話ができ嬉しかったです。明日から仕事も頑張ります!」

「そうだね、今日は話が長くなってごめん。また、来週だね、気を付けて帰ってね」

「承知しました!来週のボクシング、また、ジムでお会いするのを楽しみにしています!」

二人は夜の街にそれぞれの方向へ消えて行った。

(2022年9月30日 脱稿)

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