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母さんのベッドメイク

「電話くれ」
父からシンプルなメッセージが届いていた。

仕事を終えてそのメッセージに気づいた私が電話を入れると、父はオロオロした声で
「お母さんのあれ、なんだ、ベッド手伝ってくれ」
と言う。

「ベッド?ベッドがどうかしたの?」
「あれさ、ほら、ああ、ベッドメイキング」
天気がいいし、マットレスの天日干しでもしたんだろうか。とりあえず徒歩数分のところにある両親の家へ向かう。

母のベッドはリースで借りている介護用ベッドだ。かつては家族の居間だった8畳にでん、と鎮座している。

「ベッドがどうしたって?」

と声をかけながらふすまを開けると、母はTVの前の畳にいつものように小さく座っていて、その後ろのベッドでボックス型のシーツに半分まで突っ込まれたマットレスが斜めにかしがって(傾いて)いた。

「いや、大水(おおみず)が出てさ、シーツとパッドは洗濯したんだけど、元に戻せなくてさ」

私の後から部屋に入ってきた父がばつが悪そうに言った。

大水って…と一瞬考えてその意味に気づいた瞬間、私は家族としての表情をそっくり引っ込め、ホテルの従業員並みの手際の良さでもってマットレスにパッドを敷き、シーツをかぶせ、ファスナーを閉じた。パッパッパッと毛布をきれいにたたんでその裾をマットレスの下に折り込む。

「はい、完了」

「やー、助かった。お前来てくれれば5分で済むとは思ったんだ」

と父が心底ホッとした様子で笑う。

「こっちのパッドとシーツは洗濯して乾いたやつ?」
「ああ、そういんだ(そうなんだ)」
「じゃあ、押し入れにしまっておくから」
「やー、ありがとう」
「じゃ、用事あるから私もう行くね」

用事なんてなかったんだけれど、そそくさと実家を後にした。

母がおねしょをした。初めての事ではない。父から時々そういう事があると聞いてはいた。でも、母の前でそのことを話題にしたことはなかった。
母は自分がおねしょをしたことを娘の私に知られてどう思ったんだろう。そもそもそのこと自体を理解しているだろうか。おねしょをしたことも、それを私に知られたことも、もう何の感情も呼び起こさないのかもしれない。

プライドが高く、気まぐれで、娘の私に何かというと張り合おうとした母。高校生の時、母と取っ組み合いのケンカになって眼鏡を吹っ飛ばされ、壊されたことを私は今でも忘れていない。私の友人たちに「闘う母娘」とネタにされてきた私たちなのに、母はとっくにリングを降りてしまった。なんという淋しさ。

そしてほぼ完璧に始末をして、つまり汚れたものを洗って干し、防水パッドのおかげで難を逃れたマットレスまで立てかけて干し、それらをほぼ原状回復寸前のところまで処理していながら、そこで思考が止まってしまったらしい父の老いがショックだった。母がリングを降りてもセコンドの父だけは現役ばりに活躍してたんだけどな。

子供しかるな 来た道だもの 年寄り笑うな ゆく道だもの

笑う気なんか起こらない。


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