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映画『新聞記者』(2019)を、韓国映画を吹替で見ている。と自己暗示をかけながら見た天才こと俺

もともと邦画をあまり見ないのは共感性羞恥がキっツイからですが、はずみで再生ボタンを押してしまったんですよ。でね、よっぽど別の作品に逃げようかと思ったのですが、開始15分でよしこれは韓国映画だ、俺はいま吹替で見ている。ということにして、ちゃんと見ました。天才的な発明だとその瞬間も思ったし、いまも思っています(似たような理由で邦画を見ることができない方、ご自由にこのメソッドお使いください)。
以下、本作への感想の推移を申し上げます。

(1) 韓国映画の吹替だと思えば本田翼そんなみんなが言うほど悪くないよ
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(2) ただこれ韓国映画なら、わざわざ現実と離れたプロットを用意する必要ないよね
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(3) もっと問題なのは「映画と現実のリンク」を役者でない人たちに頼っているところ。いかがなものか
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(4) あーどう考えても(3)はフィクションの作り手の覚悟としてありえないレベルでダメだな
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(5) 韓国のポリティカル・サスペンス映画であんなエクスキューズを用意することは無いよね。だってフィクションという仕様に対する冒涜だもの。現実のほうが物語より「上」だと思ってるからああいうインサートが在り得る

……という具合に、(3)で挙げた点ポイントがすべてを上書きしてしまい、どんどん悪口が出てくるので誰か俺を止めて。

落ち着いて、ためしに(3)を除いて評価すればどうなるか、を考えてみます。
んー。韓国映画でこういう現実社会をテーマとして扱う場合、作品の原点は「事実ほど強いものはない」なんですよね。
悪い奴がいて、因果応報のことわりが発動されない理不尽があって、翻弄される主人公がいる。
物語の成立のさせ方は、そう考えるとまさに韓国映画と同じです。それがなぜ、この作品には「強度」を感じられないのか。
……作り手が観客の理解力を最後のところで信じ切れていないから、じゃないでしょうか。だから(3)的ボーナスポイントを投入してしまう。もっと松坂桃李の、シム・ウンギョンの演技が持つ力を信じればよかったのに(蛇足でしかないことを書いておきますけど、彼らの演技は称賛に値するものでした)。

観客を信じきることができなかったせいで「この映画はフィクションだけど、現実の日本社会とリンクしているんですよ」という、言わずもがなの注釈を加えるべく、不要なシーンが用意された。
それもせめて音声だけにするとか、1回だけにするとか、そういう節度を見せればまだしも(中略)ああした要素が作品に重要だと製作サイドが考えた事実は曲げられません。
ということはね、(3)を除いて考えるのは作品評として、やっちゃダメってことで、(3)は作品の眼目とすら言える。
……なるほど(独り合点)。

以上の感想を持つに至った際、私の念頭にあった韓国映画群をご参考までに置いておきます。ポリティカルではないまでも、ソーシャルではある作品群を、製作年順に10本。

こうして並べると韓国映画だって一足飛びに優れた作品を生産できるようになったわけでなく、行きつ戻りつの歴史なことがわかります。
だからまあ、邦画もここから試行錯誤を繰り返していけばいいんじゃないですかね。そんな結論で、いかがでしょう。

photo: IMDb

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