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銀ブラと原宿の呪縛

わたしの祖父は愛知の田舎の出で、幼い頃に丁稚奉公で東京に出てきた。

貧しかったその祖父は心臓が弱く、戦地を赴くことなく終戦を迎え、丁稚奉公先に戻ったのち自宅に黒塗りの車が毎朝迎えに来るような地位まで上り詰めた人だ。

わたしの記憶の祖父は、15時くらいには北側にある薄暗い台所の横のテーブルに1人座って晩酌を始める。そのあと、こたつに移り水戸黄門を観ながら泣く。どこでどうしたら水戸黄門で泣けるのか理解に苦しみながら、電気七輪で祖父が焼いたみりん干しを横で頬張っていた。

わたしは小学生の途中で引越し、二世帯住宅でほぼ毎日顔を合わせていた祖父母と少し疎遠になった。たまに1人で新幹線に乗り祖父母に会いに行った。

あるとき祖父が嬉しそうに言った。

今日は銀ブラしよう。美味しいお寿司屋さんでお腹いっぱいお寿司を食べよう。

わたしはひと呼吸おいて返した。

えぇ、銀ブラなんていやだ、原宿行きたい!

混雑する竹下通りの店々に入っては出てを繰り返し、15時にはファンシーな喫茶店でパフェを食べて帰った。わたしは満足だった。

それから何年かして自分でタクシーを呼んで向かった先の病院で祖父は亡くなった。享年77歳。奇しくもわたしの誕生日だった。

祖父が亡くなりわたしは突如、銀ブラに誘われた日のことを思い出し、恐ろしいほどの後悔の念にかられた。

なぜあの時、祖父が孫娘を喜ばせようと考えてくれた銀ブラプランに乗らなかったのか。なんでお寿司を一緒に食べなかったのか。なんで晩酌どきの15時にパフェを食べたいとせがんだのか。

それは呪いのように、悪夢のように祖父の死後わたしを苦しめ続けた。

祖父生誕100年の年にわたしは息子を出産した。

息子が産まれ、成長とともに話すようになり、意思表示をして、希望を口するようになった。
息子の希望を叶えると、味わったことのない幸せを感じることができた。

子育てに忙殺されているある日、原宿での祖父の笑顔がふと脳裏に浮かんだ。

そうだった。

あの日原宿で祖父はずっとニコニコしていた。ニヤニヤといってもいいような笑顔だった。
慣れない混雑した竹下通りを歩いて、ファンシーな喫茶店でたたいして美味しくもないパフェを食べながらもずっと微笑んでいた。

その笑顔の底には、孫娘の希望を叶える祖父としての喜びがあったに違いない。

銀ブラじゃなくても良かったんだ。
原宿でも良かったんだ。
おじいちゃんありがとう。

四半世紀の月日の末に、わたしは銀ブラと原宿の呪縛から解放されたのだった。

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