聖アンデレ(1-B):聖フィリポ
聖フィリポのプロフィール
生没年は分かりません。
12使徒の中では常に5番目に書かれている、初期からのイエスの弟子です。
出身は、ベツサイダ(Bethsaida)というガリラヤ地方の町です。聖アンデレやペテロと同じ出身地ですね(ヨハネ福音書1:44)。そして、聖フィリポ(現代読みでいうフィリップ)という名前は、「アンデレ」という名前と同様、典型的なギリシア的な名前の一つです。祝祭日は5月3日で、一般に、帽子屋とケーキ職人の守護聖人とされています。
イエスとの出会いは印象的です。ガリラヤに向かうイエスは、聖フィリポに会い「付いてきなさい」と言います。感銘を受けた聖フィリポはナタナエルに会って「お前も来いよ。自分で見てみろ」と誘い、イエスのもとに連れて行きます(ヨハネ福音書1:43~47)。共感が、速いスピードで人の輪を広げていく様子がよく描かれています。
イエスの教団の中では、主に総務的なことがらを、聖アンデレとともに担当していたと思われます。
イエスが亡くなった後は(時代は分かりませんが)、聖フィリポは、ペテロたちと決別し、サマリア地域のカイサリア(カエサリア・マリティマ(海辺のカイサリア))に移住します。
カエサリア・マリティマ(海辺のカイサリア)は、いまは廃墟ですが、ローマ帝国時代は、ユダヤ属州の首都(ローマ総督と軍隊の駐屯地)として栄えました。パレスチナでは数少ない良港をもち、ユダヤ人・ギリシア人など他民族が混住して住んでいました。
この町で弟子を育成し、4人の娘と暮らしました(使徒行伝8:5~13)。西暦49年頃には、第3次伝道旅行中のパウロも聖フィリポ邸に滞在しています(使徒行伝21:8~9)。
功績としては、サマリアとエチオピアへの伝道が挙げられます(使徒行伝8:26~39)。サマリアでの一番弟子はシモン(シモン・マグス)といい、グノーシス主義の開祖となりました。エチオピア伝道の弟子たちは、後にコプト教徒と言われるようになりました。
聖フィリポは87歳で、2人の娘とともに殉教したと言われています。処刑・埋葬されたのは、トルコ(小アジア)のヒエラポリスです。世界遺産のヒエラポリス・パムッカレのある場所です。ローマ帝国時代は温泉保養地として栄えたところです。
4世紀から5世紀にかけて活躍した神学者ヒェロニムスは、カイサリアで聖フィリポの墓参りをしたとありますので、ヒエラポリスからカイサリアに遺骨などが移送されたりしたのかも知れません。
聖フィリポの人数
実は、聖書には2種類の聖フィリポが出てきます。12使徒のひとりでアンデレの下で総務的な仕事に従事した人物と、使徒行伝にあるギリシア語を話す7人のユダヤ人の弟子で、教団の総務・庶務の一部を務めた「助祭」(または輔祭)として知られる人物です(使徒行伝21:8)。
300年頃にエウセビオスがまとめた『教会史』や、コプト教会、そして教父テルトゥリアヌスなど、初期のキリスト教では、この2種類のフィリポは同一人物として語られています。しかし、キリスト教の教義が確立してくるとともに、2種類のフィリポは別の人物と説明されるようになりました。(例えば13世紀にウォラギネが記した『黄金伝説』では、別人説が取られています。)ここでは、初期の関係者同様、同一人物であったことを前提とします。
では、なぜ、フィリポを2人にしたのでしょうか? フィリポが1人では、何か困ることでもあるのでしょうか?
別途検討しますが、聖フィリポとペテロが仲違いしたことを隠蔽したかったからだと思います。「12弟子が一枚岩であり、その中でもペテロが一番高い地位にあった」というストーリーにするために、12弟子が分裂したという事実を聖書から排除し、その作業の中で、「使徒である聖フィリポはペテロの仲間で、別人の助祭フィリポがペテロと喧嘩したのだ」という構成にしたものと推察されます。
助祭の謎
助祭というのは、もともとは、ギリシア語を使う信者(特に寡婦など)に対し、食物の配給を行うために任命された職です(使徒行伝6:1)。このことを示す使徒行伝の第6章を全文読んでみましょう。後の議論のため、章節を付しておきます。
この文章、実に不可解です。宣教・布教よりも教団内部の食事の手配や庶務的なことを重点的に司るメンバーとして7人の助祭を選んだのに、そのメンバーが直ちに布教に出て活躍しています。不自然ではないでしょうか。これを整合的に考えるとするならば、7人の助祭が選ばれたシーン(6節まで)と、ステファノが熱心に布教したために捉えられてしまう場面(8節以降)との間には、時期的な違い(タイムラグ)があったと思われます。
では、助祭が選定されたのはいつなのでしょうか? 当然、イエスが生きていた頃ではないでしょうか。食料調達と配給での課題は、イエスの時代から認識されていたからです (マルコ福音書8:1~21など)。
そうしますと、助祭の7人は、イエス教団の総務・庶務的なことがらを司っていたメンバーですので、CFOの聖アンデレとの連携も深かったはずです。聖フィリポは聖アンデレとステファノとの調整をつけながら、イエスのそばに仕え、現場を取り仕切っていたことでしょう。
そのイエスが殺された後、新しく教団を牽引したヘブライオイたちに対し、イエスの教えと違う(イエスの教えを歪めようとしている)として反発したへレニストのメンバーたちが、独立して7人組と呼ばれた、というのが当面の合理的な解釈であろうと思われます。
念のため付言しますが、7人組に対するのは12弟子ではなく、ペテロや義人ヤコブのような正統派ユダヤ人でもあるキリスト教徒(ヘブライオイ)でしょう。つまり、聖アンデレのようなギリシア系の人物たちは、イエスの死後、早々にペテロのグループとは一線を画した(イエス教団が分裂した)ものと思われます。
ペテロとの対立
ヘレニスタイとヘブライストの対立は、ある意味で、聖フィリポとペテロとの対立でもありました。例えば、20世紀に発掘された古文書であるナグ・ハマディ文書の中にも、次のような興味深い文書が含まれています。
ペテロとフィリポの2つのグループが互いに離れて活動していたことをよく示しています。カイサリアには、イエスの死後、聖フィリポや聖トマスがいましたので、これがペテロとは対立するヘレニスタイのグループを形成していたものと考えてよいでしょう。
ちなみに、ペテロと聖フィリポとの対立については、聖書(使徒行伝)の不自然な記載の中からも読み取ることは可能です。
聖フィリポがサマリア(カイサリア)でシモンに福音を与えた後、しばらくしてペテロとヨハネがサマリアを訪れ、聖フィリポが洗礼を授けたシモンに会い「聖フィリポの洗礼では聖霊が下っていない」と言いがかりをつけ、聖フィリポやその弟子の行為を貶めて回っています(使徒行伝8:14~25)。
他方で、同様の状態にあるはずのエチオピア宣教については、なにも対応していません。しかし、霊が聖フィリポを助け、エチオピアの高官への洗礼(ひいてはエチオピア宣教)が成功したかのように書かれています(使徒行伝8:29、8:39~40)。
同じ人物(聖フィリポ)が、各地で同じように福音を伝え、宣教しているのに、なぜサマリア人シモンなどへの洗礼(使徒行伝8:13)では聖霊が下りていないことになり、エチオピアの高官への洗礼(使徒行伝8:36~39)では聖霊が下りたことになるのでしょうか。サマリアにおいて、聖フィリポの洗礼で聖霊が下っていないなら、その直後におかれているエチオピア高官への洗礼でも聖霊は下っていないはずで、これは矛盾ではないでしょうか。
もちろん、聖フィリポが徐々に成長して、聖霊を下す力を身に着けたのだ、という解釈もあり得るでしょう。しかし、実態は異なっていたようです。
2世紀に活躍した教父ユスティノスや教父エレナイオスは、サマリア人シモンを徹底的に誹謗・非難しています。シモン派からグノーシス思想が生まれ、異端の教えを拡散させたというのです(ユスティノス『第一弁明』26:2、エレナイオス『異端駁論』1:23:1~4)。ここから、ペテロやヨハネは、(使徒行伝の記載とは異なり)サマリアの人々に対して、彼らの聖霊を授けも、彼らの教えに帰依させることも、できていなかったと分かります。
聖書に遺された内容が事実と異なる以上、エチオピアで聖霊が降り、サマリアで聖霊が降りていないという伝承は、聖霊側の事情ではなく、文書を取りまとめた人間側の事情によってつくられたと考えるべきでしょう。
ヘレニスタイは、神との交信には神殿(という建物)は不要というスタンスでしたので、福音を伝えるのに場所を選ぶことはありませんでした。他方、ヘブライオイは、エルサレムの神殿を中心に考えていることから、サマリアまではまだ対抗しに行けたけれども、遠いエチオピアまでは出向くことができなかったと考えるのが自然ではないかと思います。しかし、ヘブライオイとしても、詩編の「預言の成就」という手柄は獲得したかった。そのため、エチオピア伝道についてのみ聖フィリポの霊力を認め、伝道の成果だけを自分たちの手柄としても取り込むことにしたのでしょう。
その一環として、聖フィリポとその仲間たち(ヘレニスタイ)の集まるカイサリアでの布教については、聖書にはあえて記載しなかったのでしょう。当時、政治経済の中心地だったカイサリアでのキリスト教の活動に関して聖書内に記録がほとんど残されていないこと自体、カイサリアにいたメンバーについて記載したくない(記録を残したくない)という編纂にかかわった人々の意思が働いたものと推察されます。それだけ激しい対立だったことが見て取れます。
贖罪思想の発案者として
聖フィリポの功績としては、宣教の外にも、イエスの死を、「神に対し、人類が、イエスを犠牲をささげた行為」と捉えたことが挙げられるでしょう。
これが、聖パウロに至り「イエスの十字架上での死は、(アダムとイブによって始まった)すべての人間のもつ原罪をあがなうためだった」「イエスの死は、原罪に対する贖罪のための犠牲の意味があった」旨を説く贖罪思想へと発展していきます。
その意味で、聖フィリポは、イエスと聖パウロをつないだ人物であり、キリスト教の成立にあたって重要な役割を果たした人物と言えるでしょう。(なお、聖フィリポから生まれた別の流れであるグノーシス主義や、イエス教団についての伝承については、追って検討しましょう。)