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料理の東大で学んだこと

大学受験を失敗し、結局選んだ道は、調理師学校。そもそも、食べることが大好きに加えて、今まで経験してきたアルバイトが全て飲食店だったということと、何より、食べ物屋さんで働ければどんな時代になっても食べることだけには困らないだろう。ということをなぜか思ったから。

その頃
「料理の東大」と言っていた辻調理師専門学校は、飛ぶ鳥を落とす勢いの料理学校だったと思います。
大学を落ちてからの、急遽の学校見学も、交通費は学校が持ってくれ(勿論新幹線代もです。凄くないですか)ただで大阪見学もでき、そんな事にも世間知らずな私でしたから、コロッとその気になりました。
だって、初めての大坂は都会でした。
あ~やっぱりでしょう名古屋は大いなる田舎だなぁと感じましたね。
そう!もう、ここしかない!ですよね笑
その頃は、とにかく家を出たかった。
言い出したら聞かない所があることもあるのを重々承知をしている母でしたから、反対はもうされませんでした。父も母が説得する形で。
なので!親の手を煩わす事も嫌だったので、「アルバイト進学」を希望。
入学前には行き先を決めなくてはいけませんでした。
定食屋さんのような中華屋さんと、日本料理を扱うお店でした。中華屋さんはして衛生的にあわないと思い、日本料理屋さんに。
「花垣」という名の、料理屋さんでした。というよりは、面接の時はわからなかったのですが、京都で言うお茶屋さんのような処です。
オーナーの女将さんも、京都で芸者さんをされていたそうで、その下にママと呼ばれる方が二人いて
お店を経営させてました。
そう、女子だけのお店でも、男の人は一人もなく、お料理も出来るところは自分でしますが、ほぼ仕出しのお料理をアレンジすること形でしてたので
料理学校のアルバイトを使うと言うことはとても理に適っていたのです。
そこで私は四人の同級生と一緒に働くことになり、三人と同じアパートに住むことになりました。一人の同級生は多分、可愛くて1番気に入られたのでしょう。小ママの妹さんと彼女だけ一緒に住むことに。
でも、一緒に住むことになった一人は一ヶ月でリタイヤΣ( ̄□ ̄)!これには驚いた。
はじめから来なければいいのに的な!
その後は、新潟から来た同級生と二人で済むことになりました。用意された住まいは、お風呂もないアパートだったので毎日、学校=「花垣」=銭湯というスケジュールで毎日を過ごすことになりました。
「花垣」での仕事も、毎日着物を着て(自分で着れるわけないので、着せて貰って)接客お仕事でした。お料理を運んだり、雑用したり。もう独りのお気に入りの同級生だけは、ホステスさんのようにお客様の隣に座り、お酌をしたりのお仕事。今にして思えば、未成年だぞ?いいのか?おまけに学校と提携してるんだよな?ですよね?

座敷は四部屋ほど有り、人数によって忙しい時は満室もあり。
お客様の層も、
当時は全然自覚がなかったのですけど、一部上場企業の部長クラスから役員の方々も見えていた。
流石、芸者さんをされてただけのことはあるのでしょう。お値段もきっとほどほどのお値段をとり、
若い女の子達に接客して貰いながら食事をするので接待には最適。
ここで働いてなければ、私は今の女将さん職に間違いなくついてなかった笑笑
そうです。ここで私の運命の半分が決まったのです。