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上田城銀三十六|匁《もんめ》
三万八千もの大軍を率いる若武者、初陣の日を今かまだかと待ち侘び続け、ついに念願かなった徳川秀忠の細面は、憤怒により朱に染め上げられていた。
石田治部少らが掻き集めた豊臣方の将兵らを敵に回し、まさに天下分け目の大一番となるであろう戦に先立ち、徳川の軍勢は大きく二手に分かれて西進していた。
父、家康が率いる兵三万の本隊は、この翌年に東海道と名付けられることとなる海沿いの街道を進行し、秀忠の分隊は「木曽路」と異名を取る内陸の中山道を抜けて戦場へと赴く手筈になっている。
その道中、信濃国小県郡で波乱が起きた。
俗に上田城と呼ばれている、上田の小城の主、真田昌幸が徳川勢に反旗を翻したのである。
当初、群雲の如くひしひしと押し寄せてくる秀忠軍に対して降伏と助命を求めてきたのは、一時とはいえ徳川家の家臣として仕えていた過去のある昌幸の方だった。
「渡りに船ではございませぬか」
「ここで徒に兵を損なえば、大殿の御不興を買うことになるやもしれませぬぞ」
出立から絶えず秀忠の側に控えていた老将、本多正信がやんわりと、しかし釘を刺すことを忘れず、己が言いたいことを代弁してくれたので、榊原康政は内心で、ほっと安堵の息を吐いた。
齢十三の元服前に初陣を飾って以降、姉川や三方ヶ原、小牧に長久手、そして小田原と、家康の命運を握る戦に参戦しては戦場を駆け回り討ち取った敵将の首は数知れず。
領内外で「徳川四天王」と称されるまでに昇りつめた康政であるが、兵を叱咤し指揮する手腕に長けてはいても、主を宥めすかす弁舌に関しては、とんと自信がない。己より年若く、この場に同席している大久保忠隣にすら劣っているのではないだろうか。
尤も、その老将の進言をふいにしたのが昌幸の二枚舌である。
降伏勧告の使者として遣わされた己が長子、真田信之を介して秀忠に礼を述べた昌幸は、城全体の清掃と、明け渡しに納得しない家臣の説得と粛清の為、一日だけ時間を頂きたいと申し出てきた。
信之つてにこれを受け容れた秀忠であったが、翌日になって城の明け渡しを求め城門まで推参した信之に対して、武装し近習を引き連れた昌幸は、やおら門前で大声を張り上げた。
「初陣の若殿に伝えといてくれや。厠で糞をひりだしとるうちに、やはり一戦も交えずに城を明け渡すのは勿体ないと、つい思うてしもうた……この城を、栄えある初陣の場にするが良かろう、とな」
使者が単騎で城に攻め込むわけにもいかず、すごすごと帰参した信之の口からこの言葉を聞いた秀忠が激怒したのは、前述の通りである。
「陥とすぞ」
「ははっ」
「なりませぬ」
二つの声が、ほぼ同時に上がった。
制止の声は、本多正信。
自然、秀忠の目は反対する正信の顔に向けられた。
「その方の言を聞き入れた結果が、これなのだぞ」
「ここで足止めを受け兵を損なうのは悪手でございます」
己が息子よりもさらに若い御曹司の難詰に、しかし正信は顔色も変えずに言葉を続ける。
「彼の城は、かつて大殿が挑まれても陥とせずに終わった堅城にございます。また仮に陥とせたとて、これから西で石田治部少と戦を行う為の兵をここで徒に費やしたのでは本末転倒ではありませぬか」
城攻めの準備に取り掛かるべく立ち上がろうとしていた忠隣が、血相を変え正信を睨みつけた。
「佐渡守殿は、我らがあの城、上田城を陥とせぬとでも仰りたいのか」
忠隣も、そして康政も、前回の上田城攻めには参加していない。それどころか、秀忠軍の将兵で参戦した者がいるのかどうか、という有り様である。
当時、北条氏直と争っていた家康は、北条家に従っていた昌幸を寝返らせた後に氏直と和睦し、条件として上野国の沼田領を割譲する約束を取り付けた。
しかし、そこは自分が自力で奪い取った土地だと昌幸が強情を張って抵抗。よりにもよって、家康自身の命令で築き上げられた上田の城に立て籠もり、氏直との約束を果たさねばならぬ家康の軍と相対するという、おかしな状況が出来上がってしまった。
徳川勢の兵数は、およそ七千。率いる将の中には忠隣の父、大久保忠世の姿もあった。
敗将、敗兵に戦況を質すのは難しく、康政がどうにか知り得た限りでは、城の城門を破り城内に進入したところで鉄砲による反撃を受け、進軍が滞ったところで支城から急襲してきた真田兵により、挟み撃ちに遭ったらしい。
手痛い打撃を浴びた徳川軍が撤退した後、庇護を求めるかのように昌幸が豊臣家に臣従したのは、その翌年のことである。
「あの時は七千。対して我が軍は三万を超える大軍でござる。包囲し攻め掛かれば、如何なる堅城とて、ひとたまりもあるまい」
「其の大軍は、彼の城を攻め落とすために集められたのではないのだぞ。石田治部少が掻き集めた、未だ豊臣の威光に縋り大殿に刃向かう不埒な輩どもと雌雄決する為のもの。ここで兵と時間を失うより、いっそ無視して行軍した方が良策であろうよ」
まるで火と水のようだ。
二人の様子を眺めていた康政は、そう思った。
父の無念と雪辱を晴らしたいという忠隣の、烈火の如き心情がありありと見て取れる一方、眉一つ動かさず腹の内が全く読めない正信の様は水、いや淀みのある湖沼のようである。
康政の見たところ、まだ若く血気盛んな秀忠は仕方ないとしても、上田城を父の仇と思い込んでいるかのような忠隣の積極性には、足元を掬われかねない一抹の不安がある。そうかといって、冬眠中の蝦蟇の如く全く動じず淡々と語る正信の消極性に同調するのは、武将としての気概が妨げの腕を伸ばす。
やや赤みの失せた秀忠の顔が、康政へと向けられた。
「榊原殿ならば、どちらを選ぶ?」
「一長一短、どちらにも利害がございます」
「ほう」
「攻めれば時と兵とを損ない、無視すれば常に背後を脅かされる。ここは若殿のご決断次第でござろう」
何か、もうひと工夫すれば良い策が浮かび上がりそうな気はするのだが、暗雲の下に居並ぶ諸将の憮然顔を眺めながらでは、試行錯誤もままならない。
「攻めよう」
呟いた秀忠は、両の拳を握り締めながらやおら立ち上がった。その面には強い怒りと決意が、はっきりと浮かび上がっている。
「三日、いや二日のうちに攻め陥とす。皆にそう伝えい」
声を荒げたわけでもなく、しかし強く放言した秀忠を見て、康政は頼もしさよりも言葉では言い表せぬ不安を抱いた。
功に焦っている。
秀忠には戦場で功を挙げねばならぬ、差し迫った理由があった。
秀忠の兄である結城秀康は、九州征伐で初陣を飾り、以後も結城家への養子縁組が決まるまでの間、戦場を駆け巡っては戦功を立てていた。また年若くして切腹した長兄の信康も、長篠や横須賀の戦で軍功を挙げ、未だに生前の武勇を陰で称賛されている。さらには弟の忠吉もまた武勇に優れ、秀忠と同じくこの戦を初陣として江戸を発ったと言われている。
父、家康の跡目争いにおいて、こと武勇に限っては大きく出遅れた感のある秀忠としては、何が何でも初陣を勝利で飾りたいのであろう。
「先鋒は真田信之、異存はあるまいな」
酷い、という言葉を康政はどうにか喉の奥に呑み込んだ。
ここで父子の殺し合いを行わせることで、昌幸には肉親を手にかけるやもしれぬという絶望を味合わせ、信之に対しては徳川への忠心を試す心積もりなのか。
「お待ちくだされ」
地べたに胡坐を掻いたままの正信が、右手を挙げた。
康政にはそれが、苔生した大岩が自ずから崩れたかのように錯覚した。
まだ何かあるのか、と老将に訝しげな眼差しを向ける忠隣に、正信は初めて目じりを下げて口を開いた。
「ああ、ぬしにゃ用はないわい。はよぅ城攻めの支度をいたせ」
追い払うようにひらひらと手を振ってから、秀忠の方へと向き直った正信の顔は、また元の蝦蟇面に戻っていた。
「どうした佐渡守、まだ反対するのか」
「いえ。城攻めと決まりました以上は、もはや反対はいたしませぬ。しかし古来より城攻めは野戦より難しく、しかも彼の城は難攻不落の堅城でございます。一刻も早く、かつ味方の兵の損耗を抑えるため、城の周辺と内部に探りを入れては如何かと」
「ほう」
また制止に回るのかと顔を顰めていた秀忠が、興味ありげに声を上げる。
「悪くない。だが、その類の技に秀でた伊賀者は、父があらかた連れて行ったし、残りは江戸の警備だ。伊賀者に劣らぬ働きが出来る者が、ここにおるのか?」
「心当たりがございます。ここまでの道程の案内役に一人、上田を郷里としている者がございます。その男であれば役に立つかと」
「使えるのか?」
「古くは甲斐武田の下で働いた、乱破素破の血を引く者にございます。かつて大殿が甲斐の地を手に入れ、某が奉行として諸所を治めていた際に身柄を預かり、いつか手駒として使おうと考えておった者でございます。そ奴ならば、彼の城にも詳しいのではないかと」
「名は」
「四ツ屋の円蔵」
「待ってくだされ」
康政は、初めて己から声を挙げた。
「本多殿。それが本当ならば、何故その男を先の上田城攻めに用いなかったのか、お聞かせ願いたい」
「知れたこと。某が城攻めに関わらなかったからでござる。今しがた申し上げた通り、その頃の某は甲斐で奉行としての実務に追われていた身。城攻めに加わっておらぬのに四ツ屋の円蔵を遣わそうなど、出しゃばった考えは起こらなかったまででござる」
「その男、元は徳川の宿敵、武田の者。裏切りはしないだろうな」
秀忠の訝しげな問いに、正信は被りを振る。
「もはや、かつての主君は世におりませぬ。そして真田は誰にでも尻尾を振りながら、少しでも隙を見せればそこに付け込み、平気で主を裏切る輩。言わば屑の中の屑。武田とは性根が違いまする」
大久保忠隣を早々に追い払ったのは、これを言いたいが為かと、康政は得心した。忠隣が城攻めの支度を始める為にこの場を離れるならば、真田信之は先鋒として、その後に従わなければならない。父を屑呼ばわりされたのでは、信之の忠誠もぐらつく虞がある。
「まあ良かろう。これも策の一つと認めよう」
「在り難き幸せにございます」
深々と一礼してから、顔を挙げた正信は、おぅと声を上げた。
「佐渡守、まだ何か」
「いえ、たった今思いついたのでございますが」
ぼんやりと、まるで他人事のように呟き続ける正信。
「兵を伏せつつ一度城を無視して進軍するよう見せかけ、焦る真田を誘き出し、城を出たところで挟み撃ちにして叩く、という手も悪くなかったかもしれませぬなぁ」
それだ、その手があったかと、無言のまま康政は腿を叩いた。
さてどうしたものかと、上田城城主の真田昌幸は、またしても同じ問いかけを口中で繰り返した。
降伏に見せかけた時間稼ぎと挑発には成功した。
将としての駆け引きを知らぬ秀忠が、この城を攻め落とそうと躍起になっていることだけは、間違いない。
問題は、これからの籠城である。
守兵の数は二千を超える程度。戦が始まると聞いて城内に馳せ参じた周辺の武辺者を掻き集めたところで、数三千に届くか届かぬか。
十倍の兵力には、とても適うまい。一日保てば頑張った方である。
ただし、それは秀忠の軍が上田城攻めだけを目的としていればの話である、と昌幸は付け加えた。
秀忠は戦知らずの若輩者であるが、その側には徳川四天王の一人、榊原康政と冷徹な謀将、本多正信が控えている。一度に多兵を繰り出せば真田軍も最後の一兵まで激しく抵抗し、双方ともに甚大な被害が出ると推測しているであろう。
秀忠軍の目的は豊臣連合軍との一戦であり、上田城攻めは道中のついでにしかならない。榊原康政や本多正信にとっては、上田城の攻略に兵と時間を費やすのは利に乏しく、徒労にしか思えない筈である。ここで兵を繰り出すにしても、総力戦にはならず、まずは兵力を小出しにしながらの腹の探り合いになるだろう。
兵と時間、何れか一方だけでも大幅に割くことができたならば、それでこの大戦における真田昌幸の大役は果たせたようなものである。たとえ己の首級を差し出すことになったとしても、後悔は無い。
軍を指揮するのが家康でも榊原でもなく秀忠という点も、こちらにとっては有利に働く。城攻めどころか戦の経験すら皆無の秀忠では、兵の退き時も下げ時もわからず被害を出し続けることになるだろう。榊原や本多が諫めたところで、逆に意固地になって不毛な突撃を繰り返すのが目に見えている。そして秀忠の目をこちらに釘づけにしている分だけ、彼の分隊は本来の戦場への到着が遅れ、家康は戦力不足に苦しむことになる。
ただし、それは上田城が一日でも長く持ち堪えることが条件である。いくら徳川本体と秀忠軍との合流を遅らせたところで、現状の兵力差が逆転するわけではない。敵の兵力を少しでも削り落とさなければならないのは当然だが、小競り合い程度でこちらの被害の方が上回ってしまっては逆効果になるし、却って城の陥落を早めてしまう恐れもある。
援軍は元から期待できない。北方は家康に臣従した伊達政宗が睨みを利かせているし、西国で豊臣側につきそうな武将は続々と石田の元へ集っているのだ。
守城側の被害を最小限に抑えつつ、そのうえで確実に攻城側の兵力を削ぎ続けるという、昌幸自身ですら虫が良いと思えてしまうような状況を作り上げねばならないのだ。
二の丸、三の丸を囮にして兵を誘き寄せ、こちらの用意した罠に嵌めるという策は、前回の上田城攻めで既に使った。今回も使えないことは無いだろうが、使うとすれば一度きりである。二度目には、誘き出した軍勢を叩いたところで秀忠軍の後続が一斉に押し寄せ、二の丸を突き破り本丸に取りつくことになる。そうなれば上田城の陥落は逃れようがない。
さしあたっての懸念は、何かの間違いで正気に返った秀忠が、軍勢をそのまま西進させる恐れが無いかどうか、である。いくら秀忠が昌幸の挑発に憤ったところで、本多あたりに説き伏せられてしまったのでは、これまでの計は虚しく水泡に帰す。
さてどうしたものかと、また同じ言葉を繰り返し乍ら、武者走りと呼ばれる通路を、供も小姓も付けずに所在なくうろうろと歩き回っていた昌幸は、ひたりと足を止めた。
眼前の、開け放たれた格子窓から飛び込んできたものがある。
昌幸にとって、いやこの時代に生きる者にとっては見慣れたものだけに、かえってそれが窓から飛び込んできた意味がわからない。
宴の席で用いられる素焼きの皿、かわらけ。
昌幸は、上下逆さまで伏せたままのかわらけを拾い上げた。縁が内側に湾曲していることを除けば特に目立ったところも欠けたところも無いかわらけは、そのまま皿として使えそうである。
上田城に忍び込んだ曲者が、自分を狙って投げつけたのか。
湾曲した縁を指先で撫でてから、その考えは棄て去った。
仮に頭に命中したところで精々瘤が出来る程度。とても命にかかわるような傷をつけるほどの凶器ではない。
何より、昌幸に当てることを狙ったような動きではなかった。
「誰じゃ」
いつでも身をかわせるように身構えながら、昌幸は格子窓から外を覗き見る。
いた。
格子窓の外に聳え立つ、櫓の屋根瓦に見える人影。
柿渋色の上衣に忍び袴。
老いを見せつつも精悍さを失わない顔つきに、そこだけ生糸のように白い茶筅髷が異様に目立つ男。
曲者は、かわらけを持つ右手を胸の辺りで水平に振った。
咄嗟に身を翻し、格子窓の左隣の壁に背を付け隠れた昌幸の目の前で、やはり上下逆さまのまま男の手を離れたかわらけは、ゆっくりと宙を泳ぐように飛び、緩やかに格子窓の内側へと躍り込み、宛ら湖面に舞い降りる水鳥の如く優雅に「着地」した。
腕を胸の辺りで水平に振り、昌幸は件のかわらけを投げ放った。
昌幸の手を離れたかわらけは弓矢にも劣らぬ勢いで大広間の空を薙ぎ、今しがた入室したばかりの次男の顔面に迫る。
真田源二郎信繁は、両手で上下から挟むようにそのかわらけを受け止めた。
「違うのだ」
先に口を開いたのは、昌幸だった。
「この信繁を狙ったのではない、と申されるか?」
「そうではない。飛び方が違うのだ」
己が息子を狙ったことは否定しないのか。
信繁は、苦笑しながら大広間の中央へと歩を進め、胡坐を掻いた。
父、昌幸をこの程度のことで責めていたのでは、若くして声が涸れてしまう。
昌幸は、物事の有利不利を即座に見抜き迅速に行動するという点では並外れており、それが敵味方関わらず周囲を感嘆させ、また震え上がらせてもいるのだが、同時に周辺と前後の状況を考えずに行動してしまうという悪癖を併せ持つ。
小さなことでは今のかわらけ投げ、大きなことでは前回と今回の籠城戦である。
徳川の分隊を上田城で足止めしようと思いついたまでは良かったのだが、そこから三万八千を相手に三千に満たぬ守兵で如何に抗戦するかについては、碌に考えていなかったらしい。精々が、降伏してからの手のひら返しで一日保たせる程度だ。
押し迫る大軍相手にどう抗するかについては、徳川勢の出方を探りながら臨機応変に動くしかない。こちらから下手に兵を繰り出したところで、圧倒的な兵数の差に蹴散らされるだけである。
父を真似るようにかわらけを逆さに持ち、腕を水平に振った信繁だが、勿論かわらけはその指から離れない。
「飛び方、とは」
「速さというか、動きが違う。曲者が投げた時は、もっと緩やかに飛んで、ふわりと床に落ちたのじゃ。俺も、お前の足元に落ちるように投げてみたつもりではあるのだが」
「つまり、これは曲者が投げてきたというかわらけでございますか」
食器としての大きさならば間違いなく「皿」なのだが、奇妙なことにその縁は内側に湾曲している。
昌幸は、手元に置かれていたもう一枚のかわらけを手に取り、その表面を指の腹で撫で上げる。
「これで、俺を殺せると思うか」
「思えませぬなぁ」
これで死んだら末代までの恥である。
「殺すつもりなら、弓矢か手裏剣の方がまだ望みがありますな。寧ろ毒を盛るか、人を刺せる女を送るべきでしょう」
人払いを済ませた父子だから出来る会話である。
「俺もそう思う。だから、曲者の目的は俺の命ではなく、こいつを投げ込むことにあったのではないか、と踏んでいるのだ」
「それは一体、どういうことで」
「つまりな」
昌幸は、手にしたかわらけの片面を信繁の前に突き出した。
「見えるか」
表面には、拙い金釘文字が刻まれていた。
『攻城』
『先鋒信之』
『戸石城』
「これは」
「鵜呑みにすれば、向こうは信之を先鋒として、まずは戸石城を攻めるということじゃろう」
戸石城。
嘗て真田一族が築城してから武田勢に奪い取られ、村上義清の手に渡り、両者が対立してからは武田勢を悩ませたと伝えられる城である。
昌幸の父、つまり信繁の祖父に当たる真田幸隆は当時、武田家の家臣として仕えていたのだが、戸石城の攻略を命じられてからわずか一日で奪還を成した功により、真田家は戸石城を含めた旧領を与えられ御家再興。
武田家滅亡後も堅城として信州にその名を轟かせ、前回の上田城攻めでも支城としての役割を果たして真田の勝利に貢献している。
「なさいますか、鵜呑みに」
「誰がするかい」
苦々しげに吐き捨ててから、昌幸はにやりと笑う。
「そう言いたいところだが、お前の持っているそいつをひっくり返してみぃ」
言われた通りにひっくり返した信繁の目に、同じような金釘文字が映る。
『一枚銀三十六匁』
『房山麓南面松前』
房山といえば、上田城の北方に聳える山だ。麓の南面に生える松の古木にも、信繁は見覚えがあった。
「図々しくも、銀を求めてきよったわい。俺らは明日にでも討ち死にせん、というところまで追い詰められているというのになぁ」
「ああ」
虚言ならば、それを信じ込んで騙された真田軍は、明日にも城を枕に全員討死。僥倖にも生き残ったとしても、騙されたと知った身で房山に銀を置きに行く筈が無いし、そもそも銀も人手も残っているか怪しい。
曲者は、密告の代償に銀を求めることで、逆説的にこの情報が本物であると仄めかしているのだ。
「なるほど、しかし本物であるかどうかは」
「信之が先鋒というのは正しいかもしれぬ。いや、そうするだろうな」
顔を上げた信繁の前で、父はかわらけの表面を爪で弾いた。
「本多あたりが考えそうなことではあるし、そうでなくとも戦を知らぬ秀忠ならば思いつく手だろうさ」
「兄と、一戦交えるのでございますか」
信繁は、拳を握り締めながらまた俯いた。
豊臣と徳川、何れが勝ち残ったとしても真田の血が絶えることがないよう、共に納得して袂を別った兄弟である。覚悟はしていたつもりであった信繁の脳裏に、信之と嫂の小松殿の仲睦まじい姿が浮かび上がった。
父子の情より「真田家」が生き延びる道を選んだ父だ。たとえ眼前の敵が信之であろうと信繁であろうと、容赦なく斬りかかるのは間違いない。
「源二郎」
「はっ」
名を呼ばれ、俯いたまま返事する信繁。
「俺はな」
「はい」
「信之に、戸石城を呉れてやろうと思う」
昌幸の口から出た予想外の言葉に、顔を上げた信繁は信じられないものを見るような目で父の顔を凝視した。
「えっ」
「負けを望むのではないぞ」
渋面を作ってから、咳払い一つする昌幸。
「考えてもみぃ。信之ならば、慣れ親しんだ戸石城の弱い部分も十分に知り尽くしておる。そんなところに兵を溜めて応戦したところで、数の差で押し切られるに決まっておるわい。それよりかは、他の場所に兵を集めて耐え凌いだ方が、幾らかましじゃ」
「しかし、兄……いや信之が、そのまま兵をこちらへと進めるのではございませんかな」
「なぁに、所詮は小城相手の小手調べ。支城一つを落としただけで満足し、明日の城攻めは早々に切り上げになるだろうさ」
確かに、一兵も損なわず一日が過ぎるのであれば、時間稼ぎとしては十分である。
支城一つを失うのが、それに見合った損失であるかどうかまでは断言できないが。
「それに、信之が無傷で城を陥としたのであれば、即ち信之が先鋒で大手柄を立てたことになる。すると、どうなる」
「父上と小松殿が喜ぶ」
「阿呆、そうではない」
即座に否定した父に、微かな狼狽の色が見えたのは、果たして信繁の気のせいだろうか。
「よく考えろ。敵将の身内でしかも新参者が、いきなり華々しい大手柄を立てたのだ。他の奴ら、特に古参の将はどう思う」
「良くは思わない、でしょうな」
「そうよ、それよ」
昌幸が、如何にも悪巧者らしい笑みを浮かべる。
「嫉妬とやっかみは、猜疑と功名心の焦りを生み出す。必ずや他の武将共が、信之に負けてなるか遅れてたまるかとばかりに、城攻めに名乗りを上げるじゃろう」
「成程」
今回の籠城戦と、その直前まで秀忠をたばかっていたように、偶に突飛な行動を取る昌幸は、その行動の根拠についての説明を省いたり、或いは巧く説明できなかったりすることがある。その意を汲み取り皆に説明することが、兄の信之や家臣の横谷左近らの仕事であったのだが、今は二人共この場にはいない。敵陣の兄はともかく、左近がこの場に居なかったのは不思議と思っていたのだが、これほど思い切った策を信繁に打ち明けるつもりであったのならば、仕方が無いのかもしれない。
「戸石城と引き換えに信之を下がらせて、代わりに出てくるのは上田城を全く知らぬ、功に焦った三河の芋侍というわけですな」
「おうよ。それに、信之の手柄を喜ばないのは、あの若殿も同じだろうさ。信之だけが手柄を立て続けたんじゃ、この上田城攻めは徳川秀忠の戦に非ず、真田信之の戦だったと世間に広まっちまう。そいつは初陣の若殿にゃ堪えられまい」
「あわよくば秀忠自ら先陣を切るかもしれず、そこでひと泡吹かせてしまえば」
徳川の将と兵には、後世まで語り継がれる程の大きな傷が付く。
自然と笑み零れた信繁の顔が、一つの懸念によりまた引き締まる。
「まあ、曲者の密告が本物であれば、の話でございますが」
「少なくとも、明日の先鋒が信繁であることだけは信じてええじゃろう。向こうには、そうするだけの利がある。問題は、その翌日からじゃ。信之の代わりが誰になり何処を攻めるのか、そこまではまだ読めぬ。それだけに、偽情報を掴まされてしまっては取り返しがつかぬ」
「捕えてしまえばよろしゅうござる」
大広間中に響き渡った大音声に、額突き合わせていた真田父子は一斉に顔を上げた。
見やれば大広間の一角に仁王立ちする巨大な影。
「なんじゃ、そこもとは」
「どなたか」
礼儀に差異のある父子の誰何に、影は一礼してから己の容貌を燈明の下に曝け出した。
六尺余りの巨躯に鋒鋩たる髭を生やし、奇麗に剃り上げた月代に天井まで届きそうな大振りの茶筅髷。達磨の如くぎょろぎょろした厳つい目玉を大きく見開き、着物の上からでもわかる隆々とした筋肉をいからせながら、真田の武将二人を前にして膝もつかず、男はまた髭の中から大音量を響かせた。
「身共の名は、御嶽堂信龍。芸州に生まれ己が道を武に見定めんとする者にござる」
「ああ、御嶽堂殿か」
巨漢の厳つい顔を仰ぎ見て、信繁は安堵した。
昌幸の呼び出される少し前、傲慢卑劣な徳川勢と一戦交えるとの報を何処からか聞きつけ、義によって馳せ参じたと自称する、武辺者の一人である。
戦場で敵の首級を挙げればそのまま軍功武功となり、討ち取った相手が有名であればあるほど世間に名が広まった時代である。勢力争いに敗れ主家を失った牢人や、腕っぷしだけが自慢の破落戸が、上田城にもそれなりに集まっていた。
彼らは、優勢な軍より劣勢の軍を選ぶ。不利な方が助っ人の素性を過度に詮索せず、また多勢を相手にすれば己の勇名も広く知れ渡る。元々が無名に等しい雇われ者なのだから、本当に命が危うい時に黙って逃げ出したところで、追う者も指突きつける者もいない。
しかも暗に助力の代償として食や金銭を求められるのだから、守将にとっては疫病神のような存在ではあるのだが、こちらが劣勢ではなりふり構っていられないというのが、悲しいところである。
「御嶽堂殿。表には儂の供の者が居た筈だが」
「入るな入るなと小うるさいので黙らせた」
信繁は頭を抱えた。この様子では、秘かに警護を命じていた忍びも倒されたに違いない。
「身共より、密告した曲者の方が問題でござろう」
己に問題があると自覚しているのだから、なおのこと質が悪い。
「身共は、その男は徳川が用意した罠であると思う」
「何故」
「身共がそう思うからでござる。卑劣な徳川の古狸であれば、それぐらいの罠は用意して当然でござろう」
話にならない。三万八千を指揮しているのは家康ではなく息子の秀忠であるということすら、この武辺者は知らないのだ。
退場を伝えようとした信繁より先に、昌幸が口を開いた。
「源二郎。この御仁は、相当お遣りになるのか」
「大太刀の鞘に、何人かの首をぶら提げて参上いたしました。聞いたところでは、この辺りを根城に暴れ回っていた山賊だそうです」
「そうか」
昌幸は、不意に掴んでいたかわらけを投げつけた。
信繁の頬を撫でたかわらけは、しかし信龍の身体に届く寸前で、彼が腰から引き抜いた差料により左右に両断され、音立てて床に落ちる。
「主を前に差料を抜くとは感心せんな」
「このご時世、ましてや戦場に身を置く武辺者でござれば愛刀手放し難く、また白刃を風雪に晒すのも日常茶飯事。多少の失礼は御寛恕願いたい」
差料を朱塗りの鞘に納めつつ苦笑したつもりなのだろうが、顔の下半分を覆う髭のせいで、その表情まではわからない。
「真田昌幸殿。失礼を承知で願い申し上げる。その房山の麓の松とやら、誰かに命じて案内してはくれぬだろうか」
「それは構わんが、訪れて如何なさるおつもりじゃ」
「知れたこと。徳川の罠をば引っ捕らえて、洗いざらい吐かせて御覧に入れよう」
籠城戦の初日は、秀忠率いる徳川勢の勝利で終わった。
秀忠軍の先鋒として戸石城に突撃したのは、前回の上田城攻めで父に従い、その戸石城から徳川勢を挟撃した真田信之その人であった。
袂を分かつまでは信之の下で働いていた者もいたのだろう。その頃の武勇を懼れたのか、戦陣を駆ける馬上に彼の姿を認めた真田兵は、忽ち城内に逃げ戻り、徳川の先兵が城門を突き破って侵入した戸石城内には、将どころか雑兵一人の影すら留め置かぬ、もぬけの殻となっていた。
この完勝と真田勢の臆病ぶりに気を良くした秀忠と忠隣は、引き続き兵を進めようとしたが、それに「待った」をかける手が、味方陣営から幾本も挙がった。
「これより先は身共にお任せくだされ」
「平八郎殿の入り婿だけに任せてはいられませぬ」
「見苦しい真田の内輪揉めを眺めているだけとあっては三河侍の名折れにござる」
拙いことになった。
顔には出さないものの、榊原康政は狼狽した。
初戦の勝利に酔いしれた彼らが望んでいるのは、もはや家康軍との合流ではなく、この上田城攻めで信之以上の大手柄を立てることだけだ。
若い頃の戦で膝に傷を負っている本多正信は、今宵はその古傷が痛むからという理由で評議に顔を出さない。
「真田昌幸の首級、石田の青瓢箪と奴の手下どもを震え上がらせる手土産としては、十分でございましょう」
両の眼をぎらぎらと輝かせながら放言した忠隣の前で、満足げに頷く秀忠。両者もまた、明日の本城攻めで先鋒を切望したのだが、それはさすがに自重すべきと康政や諸将に引き止められたばかりである。
斯く思う康政も、二人を押し止める立場でなければ、挙手する側に回っていたことだろう。それだけ信之の勝利は見事であり、三河侍の負けじ魂を奮い立たせるものであった。
しかし、一度この場の異様な熱気から身を引いて鳥瞰してみると、何か敵の策に嵌りかけているような気がしてならない。
先鋒を真田信之にして父子を戦わせようという非情な采配に、誰も異を唱えなかったことに疑問を持った康政は、昨夜のうちに正信にその真意を問い質したところ、逆に珍しいものを見るかのような顔をされた。
「戸石城の全てを知り尽くした者に、戸石城の攻略を任せたまででござろう」
言外に己の失慮を指摘され、その場は恥じ入って退出した康政であるが、その人選が最良の結果を出したにもかかわらず、明日はその信之を後方に下げることで、これ以上の手柄を立てさせないよう動いているようにすら思える。
敵の城内と地の利を知る者を下げ、功名心に逸る者ばかりになってしまった城攻めを止める者は、もはや陣内には居なくなってしまったのではないか。
篝火の絶えぬ徳川の陣を抜け出した四ツ屋の円蔵は、昨日と同様に上田城へと山道を駆け、戦中密かに石垣を登り堀を越え、櫓の屋根瓦を踏みながら、かわらけを城内めがけて投げつけた。
昨日とは違い夜間であるが雲は少なく、月明かりの下であれば、かわらけの円盤を格子窓の内側に投げ込むなど、彼にとっては造作も無いことである。
『策、苅田』
『牧野康成』
投げ込む円盤は、この一枚で十分だろう。聡い真田昌幸ならば、即座にその内容から次の一手を打つであろうと聞いている。
踵を返した四ツ屋の円蔵の後を、一つの小さな影が追っていたことに気づかなかったのは、まさに彼の不覚と言えよう。
猿助は真田武将が一人、横谷幸重の配下である。
また齢十にも満たぬ彼は、主に従い上田城の防衛に馳せ参じていたが、城主である真田昌幸から直々に命じられ、密告者がかわらけを投げたという櫓の陰に潜み、城を脱出した彼の後を追った。
全国に散らばり情報収集に明け暮れていた仲間の忍びたちと別行動を取っていたのは、山野を駆け木々に隠れる隠密の腕は他に劣らぬ彼が、年若く未熟に見られがちな身体つきをしており、世間では軽んじられ諜報には不向きであると判断されたからであろう。
密告者を追って房山まで駆け続けた猿助は、近くの藪に己が身を投じた。
報酬の銀三十六匁が用意された、古松の前である。
目立つように置かれた漆器の蓋を開けた密告者は片膝をつき、中から取り出した石州丁銀を、柿渋色の上着の中へと放り込んだ。
「おい」
立ち上がり、その場を立ち去ろうとした密告者を呼び止める大音響。
「貴様、徳川の忍びであろう」
藪の中から声の主を見仰いだ猿助は、己が声を失った。
梅重の羽織に鈍色の山袴。松の古木にも劣らぬ巨躯の背に風神か雷神らしきものを描いた旗指物を差しているのが、如何にも仰々しい。
その旗指物と重ね合わせるように背負っているのは、三尺を裕に超えようという丈の大太刀を収めた朱塗りの鞘。
鬼が着飾って現れたかと怯む猿助であったが、その両手に大弓を構え、矢をつがえているところを見て、この人が話に聞いた御嶽堂信龍なのだなと理解した。
鬼が弓を引く話など、聞いたことがない。
密告者が跳び退いたのと、信龍の指が矢筈から離れたのは、ほぼ同時だった。
矢は密告者の身体に突き刺さることなく、それまで彼が立っていた場所を虚しく横切るだけに終わったが、その時すでに大弓を打ち捨てた信龍は背中に手を回し、あと一歩踏み込めば大太刀の切っ先が届かんという間合いにまで詰め寄っていた。
「答えよ。貴様、徳川の手の者であろう」
「そうだとしたら、どうする」
密告者が初めて発した声は、意外にも信龍に負けず劣らずの、大きく響き渡る澄んだ音色をしていた。
「決まっておろう。真田昌幸殿の前で、徳川の軍の何をどこまで知っておるのか、洗い浚い吐いてもらう」
「なんじゃ、真田の手の者か」
何時斬られるかもわからぬ状況で、豪胆にも密告者は恍けた面構えになる。
「儂ゃてっきり、銀の盗み取りに来た山賊かと思うたわい」
猿助は、藪の中でぷっと吹き出した。
髭だらけの厳つい顔をした信龍では、山賊と間違われてとしても詮無い話である。
猿助の任務は、密告者と信龍双方の監視であり、たとえ信龍が此処で斃れたとしても彼は手を出さず、最後まで両者の動向を見届けるよう言いつけられていた。隠密の技術に長けてはいるが、情報の収集こそが己の務めであり、何より腕っぷしも気も弱い猿助にとっては、ありがたい任務である。
「貴様如き木っ端であろうと、面と向かって名乗らぬは信義に反する」
言いながら信龍は大きく目を見開き、五指を伸ばした左手を、ずんと前に突き出した。
「我が名は五宝流の開祖、御嶽堂信龍である」
信龍が大見得を切る間に、密告者は懐から小さな円盤を取り出していた。
上田城で投げ込んだかわらけより、ひと回り小さいそれは、彼の手を離れるや否や猛烈な勢いで信龍の喉笛を狙うが、忽ち左右に両断される。
「名乗りの最中に手を出すとは、とんだ無作法者よ」
鞘から引き抜いた大太刀の刀身が、月光を浴びてぎらりと輝く。
「木っ端とはいえ、これも戦だ。其方も名乗られい」
「そうだな」
信龍が円盤を叩き切った隙をつき、大きく後方へ跳び退いた密告者の身体は、大太刀の間合いから三間ばかり離れていた。
「四ツ屋の円蔵」
「ぱっとしないのう」
「よぉ言うわい」
密告者、四ツ屋の円蔵が口の端を吊り上げた。
「何が五宝流か、御嶽堂信龍か。儂ゃ四ツ屋の出身じゃからこう名乗っておるが、さしずめお主は御嶽堂の出身といったところか。あの辺りに武辺者どころか修験者が居るという噂など、聞いたこともないわい。大方、畑仕事が嫌で逃げ出した百姓か猟師の出であろう」
「なんだと」
「それに信龍という名も怪しい。そう言えば甲州で三河兵に討ち取られた将の中に、一条信龍という名があったと聞いておる。その強さに肖って名乗っておるだけではないのかな」
見る間に信龍の顔が赤黒く染まったのは、名を愚弄されたのが理由というわけではないからだろう。
「怒ったか、図星か。そらっ」
円蔵が、左右それぞれの手に掴んだ円盤を同時に放ったが、どちらも大太刀の一閃で一度に叩き切られる。
「そんな皿、いくら投げたところで無駄じゃ」
頭に血が上った程度では、剣の腕は鈍らないものらしい。
「なあ、四ツ屋の円蔵とやら。いちいち徳川の情報を流して寄越すくらいなら、いっそ徳川を見限って真田に与しては如何かな」
傲慢な信龍にしては殊勝な勧誘だと、猿助は舌を巻いたが、四ツ屋の円蔵は相変わらず口の端を吊り上げたままである。
「まさか。上田城など、腰を据えて掛かれば累卵の如き小城ではないか。儂はちょっとした小遣い稼ぎの代わりに、僅かながらにでも真田の命脈が伸びる術を教えてやっているに過ぎん。分の悪い方に乗り換えるほど愚かではないわい」
「ならば仕方がない。貴様の身柄と引き換えに、足軽大将の座を貰い受けるまでよ」
「儂の身柄一つで足軽大将か、法外な値を付けられたもんじゃわい。嵩が四ツ屋の田舎者だというのに」
自嘲するように仏頂面で呟いた円蔵は、おぅ、と声を上げた。
「田舎と言えば、御嶽堂を荒らしまわっていた山賊が、最近はとんと姿を見せなくなったと聞いたな。山賊どもに荷を奪われた行商人の話では、そいつらの中に、粗野な山賊には不似合いな、朱塗りの大太刀を背負った輩がおったそうな。お主、心当たりはないかえ」
あっ、と危うく喉から飛び出そうになった声を呑み込んだ猿助。
信龍は手土産として、御嶽堂の山賊共の首級を献上している。
御嶽堂信龍の正体は、仲間を裏切り全員惨殺した山賊なのか。
「知っていたのか」
信龍は、両手で大太刀を構え直す。
今までとは違い、明らかに生け捕るための手加減した構えではない。
「それでは仕方ない、生かしておけば俺の害になる」
猿助には、月明かりの影となった円蔵が、微かに笑ったように見えた。
「殺してみせよ、殺せるものなら」
両者が動いたのは、ほぼ同時と言えよう。
十字を切るように、右手を振り上げ左手を水平に振った円蔵。
右手から離れた円盤は、縦に回転しながら真っ直ぐ信龍の眉間に迫るも、大太刀がそれを叩き割る。
一拍遅れ、左手から放たれた円盤が大きく弧を描きながら信龍の右こめかみを狙うも、寸前で信龍は身を屈めてあっけなく円盤を躱した。
「死ねっ」
無手の円蔵に迫る、大太刀の切っ先。
刹那――
低い呻き声を上げた信龍の身体は前へとつんのめリ、うつ伏せのまま地に倒れ伏す。
彼の項から零れ落ち、羽織を汚したのは、それまで円蔵が何度も投げていた物よりさらに小さい、墨塗りの円盤。
猿助は、忍びとしての訓練を受けた時に、同じ箇所に手刀を落とされ悶絶した過去を思い出した。あの一撃は息が詰まる。
これが本命だったということか。
軌道の異なる二枚の円盤を、片手で同時に投げつけたのか。
正面に飛んだ一投目と、湾曲しながらこめかみを狙った二投目は。
いや信龍と対峙してから、その軌道が彼の視界に収まるように投げていた円盤は。
全て、この死角からの一撃のための布石だったということか。
「死ぬのは、お前さんの方じゃったな」
呆気にとられる猿助を尻目に、腰に差した鎧通しを引き抜いた四ツ屋の円蔵は、悶絶する信龍の頭を左手で押さえつけ、鋭い先端を彼の盆の窪に打ち込んだ。
一昨日は憤怒のあまり赤黒く染まっていた秀忠の顔が、今は冬さなかの積雪の如き蒼白に変じていた。
秀忠とて、戦場の策を知らぬ阿呆ではない。
戸石城から撤退した兵が、上田城の城門で待ち伏せているかもしれぬという三河将、牧野康成の言を聞き入れ、逆に此方から真田兵を引き出す策を講じた。
伏兵による奇襲を警戒しながら、城兵への挑発と兵糧の徴収を兼ねて、上田城周辺の稲穂の刈り取りを始めた秀忠軍に、籠城戦に必要不可欠な兵糧を奪われてはならじと、堪らず城門から飛び出してきた真田兵を、牧野率いる騎馬部隊が迎え撃ったまでは良かったが、そこから先で瑕疵が生じた。
横合いからの敵援軍に危機を察したのか、転進し城内へと逃げ戻る真田の騎馬部隊を、牧野隊は追撃したのである。
牧野隊の任務は、あくまでも刈田部隊の護衛と真田兵の迎撃である。何処から伏兵が現れても応戦できるよう機動力を重視しているものの、城攻めが出来るような大軍でもなければ、攻城兵器を持ち合わせているわけでもない。ましてや騎馬部隊のみで城攻めに向かうなど、無謀以外の何ものでもない。
「牧野隊を退かせろ、早くっ」
真田兵が現れたという報告を聞き、本陣から戦場を静観していた大久保忠隣が怒声を上げたが、時既に遅しと判断した榊原康政は、秀忠から顔を背け嘆息した。
康政の読みが的中し、城内へと突入した五十騎近い牧野騎馬隊のうち生還した者は、牧野康成と彼の嫡子の忠成、そして騎馬隊を指揮していた奉行の贄掃部を含めた僅か数騎ばかり。
先日の完勝を塗り替えるような惨敗である。
昨夜の評議で決定したのは、寡兵の真田兵を誘き出して消耗させるという策だけである。勢いに乗じて城へ突撃すべし、などという意見は、何処からも出てはいない。
しかも、単騎駆けに等しい無謀な突入である。
牧野隊の独断による暴走であることは、誰の目から見ても明らかだ。
城門が閉じる前に歩兵を突入させるには、あまりにも距離が開き過ぎているし、そもそも突入する部隊も突入の順番も決まっていない。辿り着く前に城門が閉じ、矢狭間や鉄砲狭間から放たれる飛び道具、そして混乱した部隊に突入すべく現れる伏兵で、秀忠軍が痛撃を受けることになるだろう。
「殿、敵は勢いに乗じて本陣を襲って来るやもしれませぬ。撤退の準備を」
「それには及びませぬ」
呆然自失の秀忠を揺り起こすかのように縋り、撤退を渇望する忠隣を、康政は声で制した。
浮き足立ってはならない。
堪えどころは、ここだろう。
「榊原殿、なんと申されるか」
「被害を受けたのは牧野隊のみ。他の諸将部隊は、何時でも敵の奇襲に応じて動けるよう、警戒を怠っておりませぬ。寧ろ此処で撤退するようでは、逆に味方を動揺させ、真田相手に隙を見せるようなものでござる。牧野隊の全滅など、我が軍には痛痒にもならぬ。まずは敵味方の双方にそう思わせることが第一でござる」
「それで良いのだな」
漸く赤みを取り戻した秀忠が、康政を凝視する。
「某が首級を賭しても宜しゅうござる」
「此処で読みが外れようものなら、三万八千は総崩れ。俺は真田の追撃から逃れるのに手一杯じゃ。康政殿の首級を貰う暇などありゃせんわい」
諌言の為に己が命を投げ出そうという配下の言動に、堪らず秀忠が浮かべた自嘲の笑みは、図らずも若き頃の家康が撤退の度に浮かべた笑みそのものであった。
「まずは、兵を動揺させぬことだ」
『迎撃』
『静観』
その四文字が彫られたかわらけを懐に、徳川の陣を抜け出そうとしていた四ツ屋の円蔵に、本多正信からの呼び出しが掛かった。
呼び出されたのは、本陣から数里離れた場所に建てられた、木祠の前である。
「おう、来たか」
左右に篝火を焚き、床几に腰を据えた正信は、距離を置いて額づき、白髪茶筅の先端を傾けた円蔵を、皺枯れ声で出迎えた。
「真田の兵が、牧野隊を返り討ちにしたそうな」
知っている。
御嶽堂信龍を自称する山賊の成れの果てを仕留めてから、寝倉で休息し戦場に赴いた円蔵は、その時の戦況を遠巻きに眺めていた。
牧野隊は、呆れるほどあっさり罠に引っ掛かってくれた。
大方、計画通りに反転して城内に誘い込もうとする囮部隊の後ろ姿を見て、己が部隊の勇猛な姿に震え上がったのだ、などと勘違いしたに違いない。
「真田らしい巧妙な、そして見事な策であったと、儂は思う」
その切欠を作ったのは自分なのだ。
真田が牧野隊を打ち破ったのも、真田昌幸が無傷で戸石城を陥としたのも、自分が齎した秀忠軍の機密があったからこそなのだと、円蔵は誇らしい気分になった。
「殿に無断で城内に突入し、大事な騎兵をば無駄死にさせた牧野康成と息子の忠成、それに部下の贄掃部らは、その責を問われておる。まあ、いずれ腹を切ることになるであろう」
気の毒と言えば気の毒な話だが、腹を切るのも戦場で討ち取られるのも、死は死である。
武士でもない円蔵が憐憫の目を向けるのは、彼等にとっても失礼な話なのだろう。
「それにしても、見事な策じゃわい。あくまでも、城攻めには不向きな騎馬部隊だけを狙って誘い込んでおる」
面を上げよと言われ、平伏したまま顔を上げた円蔵。
正信は、何かに見惚れたかのように恍惚と夜空を見上げている。
「思い返せば、先日の戸石城攻めも見事であった。信之殿の到来を予期してでもいない限り、一兵も損なわぬ撤退など、至難の業であろうに」
そう、まるで。
「どちらも、我々の手の内を知っていたかのように」
来たか。
我知らず滲み出た汗の珠が、つっと円蔵の肌を塗れ伝う。
正信の蝦蟇面が、此方を向いた。
「何か、知らぬか」
「存じ上げませぬ」
「儂が、大殿へのご報告の為に書き記しておいた軍事機密の書簡、よもや覗き見たわけではあるまいな」
「滅相も無い。そのようなもの、初めて聞き及び申した」
嘘である。
その書簡が存在することは、以前から聞いていた。
「左様か。しかし、内通者は何処かに隠れておると、儂は睨んでおる。そこで、お前に頼みたいことがあるので、此処へ呼んだのだ」
「頼みたいこと」
疑わしき者を見張れ、ということか。
おあつらえ向きな話である。万が一の時には、その男に裏切りの全てを押し付けてしまえば、円蔵自身の身は安泰となる。
「しかし、上田城はまだ健在でございます。其方の探りは」
「明日一日ぐらいは、殿も慎んでおられるであろう。それに、この際じゃから、儂は兵を退いて西進するよう申し上げるつもりじゃ。これ以上、あの小城に手を焼いて、時間を割くわけにはいかぬ」
「それならば、内通者を見つけ出さなくとも良いのでは?」
「そうはいかぬ。西進した先でぶつかるのも、真田と同じ豊臣勢なのだ。これ以上、獅子身中の虫を放ったままにしておいては、どのような被害が出るか、わかったようなものではない。今此処で、片を付けておかねばならん」
木曽路の案内役として雇われた円蔵は、木曾街道を秀忠軍が通過するのを見届けた後は、四ツ屋に戻って元の生活に戻るよう、言いつけられている。
密告で得た銀は、郷里に戻ってから派手に使うつもりである。
「近こう寄れ」
「はっ」
膝を浮かせ、前へと歩を進めた四ツ屋の円蔵。
その先に続いているはずの地面が忽然と消え、彼の視界が暗転した。
直後に全身を襲う、鈍い衝撃。
頭上に輝く星明りで、漸く円蔵は己の陥った罠を悟った。
落とし穴か。
愕然とする彼の耳に飛び込んできたのは、大勢の兵卒の足音と正信の哄笑。
「裏切り者め、書簡に残ったかわらけの粉に気づかぬと思うておったか」
しまったと、円蔵は狼狽の声を上げた。
あの場でかわらけに文字を刻んだのは、迂闊であったか。
弁解の声は、穴の中に次々と突き立てられた槍の穂先により、くぐもった悲鳴に変わった。
「それにしても、あの時は私も冷や汗をかいたものですぞ」
秀忠が隠居する父、家康から征夷大将軍の座を譲り受けた慶長十年。
年寄という重役に就いた正信の屋敷に、彼の嫡男であり家康の寵臣でもある本多正純が訪れ、二人は座敷でだらりと酒を酌み交わしていた。
「あの時とは、何時の話だ」
「決まっておりましょう」
実父と面している時でさえ、正純の声と態度には、どこか相手を見下した感が滲み出る。
「関ヶ原で、殿と父上が遅参した時でございます」
嫌なことを言い出したと、正信は舌打ちしてから盃を呷った。
「行軍中に上田城などという小城に気を取られ、軍を止め兵を繰り出した挙句、徒に時と兵を失い将は逃亡、しかも本戦に間に合わなかったと報告を受けた時には、どうなることかと思いました」
「嘘を吐け」
無様な遅参だった。
牧野隊が返り討ちに遭ってから、一日様子を見ていた秀忠軍に、早々に上洛するようにという旨を使者から伝えられたのが、その翌日の軍議中である。
慌てて軍をまとめ、比較的近くに築かれた葛尾城を護る森忠政に見張りを任せて西進したものの、関ヶ原での開戦には間に合わず。しかも休息を取らぬ強行軍で疲れ果て、即戦力になりそうにもない兵卒と軍馬を見た家康は、驚き呆れ怒りを通り越し、秀忠に対面も許さぬまま下がらせた。
おまけに、原因の一端を担うべき牧野康成は逐電した。
当時、家康の側近として参戦していた正純は、即座に家康の前へ進み出て、こう上申したと言われている。
「若殿が上田城に目を向け手間取り、この場に遅参いたしましたる責任は、全て若殿を補佐すべき側近、わけても我が父正信にございます。何卒父を処罰し、若殿と御面会なさいますよう、お願い申し上げます」
関ヶ原で石田三成率いる豊臣勢に勝利した後、家康からその話を打ち明けられた正信は、肝を冷やした。
確かに、目先の勝利と功名心に逸る秀忠を抑えられなかった責任は、正信にもある。
しかし、正純が主君親子の和解の為の身代わりとして実父の首を差し出そうと画策していたとは、俄かには信じられない話だった。
何より恐ろしかったのは、当の正純本人にその真偽を問い質したところ、事も無げに認めてしまったことだ。
「ああでも言わない限り、大殿は若殿をお許しにならなかったでしょうからな」
実父を敢えて非難し刑罰に処さんという厳しい態度を家康に見せることで、彼に冷静さを取り戻させ、同時に肉親の情を呼び起こさせるという腹積もりだったのだろう。
それが逆効果になる可能性を、まるで考えていない。
否。
それすら考慮のうえで行動していたのならば、其方の方が余程恐ろしい。
「その申し出で儂が腹を切っていたら、お前はどうするつもりだったのじゃ」
憮然とする父に、息子は事も無げに返す。
「そうなれば、そうなった迄のこと。大殿の決定には逆らえませぬ」
正信は、また盃を呷った。
不遜である。これで才も有るのだから手に負えない。
老齢の正信が隠居し、世の政から身を引くのはそう遠くない将来のことになるだろうが、そこから先は正純が本多家を担うことになるのだ。
傲慢不遜な皮肉屋が身の施し方を知らぬようでは、待っているのは破滅のみである。
「そこはまあ、父上もお咎めを受けることなくご健在なのですから、万事無事で良かったではありませぬか」
当の本人を前に平然と言い放つのだから、堪ったものではない。
これなら正信を侮蔑しているという榊原康政や本多忠勝と酒を酌み交わし、面と向かって罵倒された方が、まだ身の置き処が有る。
「それに、あの上田城攻めで父上の宿願も無事に達成されたことですし」
「何のことか」
「お惚けなさるな」
正純は、蝦蟇を呑み込まんとする蝮の如き両眼で、父を凝視する。
「上田城攻めを止められなかった父上が、若殿に協力を申し出たのは、真の目的があってのことでございましょう」
そこまで断言してから、正純は空になった正信の盃に酒を注ぐ。
もはや、親子水入らずの呑み合いではない。
「聞こうか」
呟き、肴の鯣に手を伸ばす正信。
「某が知る限り、分隊を率いることになった若殿、いや秀忠様は、血気盛んに戦場を駆け巡り、獅子奮迅の働きを見せることを誓っておられました。しかし関ヶ原遅参の一件以来、常に意気消沈しながら政務に就くという有り様。今ここで新たな戦が起こり、もう一押しの失態があろうものなら、世にも珍しい戦嫌いの征夷大将軍が誕生する事にもなりかねません」
「戦好きの将軍よりは、余程良い」
「正しく、仰る通り」
酔いのせいか、口舌熱を帯びてきた正純の顔を、汗の珠が伝い落ちる。
「そういう将軍に変えたのは貴方だ、父上。功名心に逸り自ら突出しかねず、周りを顧みない秀忠様に、堪えがたい挫折の味を骨の髄まで味あわせ、敗北と屈辱により慎重さと謙虚さを同時に学ばせようというのが、貴方の魂胆だったのではありませんか」
「馬鹿を申せ」
それまで噛んでいた鯣が、正信の口から吐き出された。
「若殿が率いた兵は三万八千、本隊よりも多かったのだぞ。むざむざ行軍を遅らせ本隊を窮地に陥らせるような真似を、この儂が」
「その三万八千が戦場に間に合わなくとも、石田豊臣率いる軍との兵力差は、五分と五分。たとえ劣勢になろうとも、大殿お得意の時間稼ぎをしている間に分隊が到着すれば、十分に巻き返せようという算段があったのでございましょう。それよりも将来、大殿の後を継いで征夷大将軍となるべき秀忠様に、軽率さと勇名を求めようとする心の不毛さを理解させ、神州を後々まで統治できる人物になっていただく必要があり、その為の荒療治だったのではございませんか」
「語るのう。しかし儂は、大殿の後継者に誰が相応しいかを尋ねられた際、秀忠様の兄にあたる結城秀康様を支持しておるのだが」
「関ヶ原の後のことでございましょう。しかしあれは、秀康様が選ばれぬことを承知したうえでの支持ではありませぬか。某には、その時点で大殿はご決断されていたように思えます。貴方は、自分が秀康様を支持することで、ただ独り秀忠様を支持していた大久保忠隣殿に華を持たせ、秀忠様の覚えを良くしたのではありませんかな」
「何故儂が、其の様な真似を」
「貴方が若く困窮していた頃、彼の父である忠世殿から何かと援助を受けていた、と聞き及んだことがございます。その恩と、貴方の思惑を絡めた上田城攻めでの失態に対する、ある種の償いではございませんか」
「語るのう」
「まだあります。貴方は秀忠様から、四ツ屋の円蔵なる忍びを使うことの認可を得た。貴方の部下に質したところ、その男は我が軍の情報を何度も真田勢に密告していたことが暴かれ、粛清されたそうですな。貴方は、彼がそうするよう仕組んでいたのではありませんかな」
「有り得ぬ、奴は儂の書簡を盗み読みしておったのだぞ」
「円蔵が読み取れるよう、わざと書簡を片付けておかなかったのではございませぬか。策や先鋒が書き記された書簡を、そう何度も都合よく置き去りにするのは、不自然ではありませんかな」
答える代わりに、正信はまた鯣を噛み始める。
「貴方の計画は、四ツ屋の円蔵を裏切り者として粛清したところで完成したのでございましょう」
己の憶測を居丈高に宣言した正純は、正信が否定の言葉を口にするより先に
「否」
と言葉を続けた。
「それだけではありませぬ。秀忠様の遅参に機嫌を損なわれた大殿が、誰ひとりとして処断なさらなかったのは、こうなることを予め御存知であったからではありますまいか。即ち、大殿も貴方の真意と計画を察しておられたか、若しくは兵の命を引き換えとした秀忠様の矯正を思いついたのは、他ならぬ――」
肴を盛りつけていたかわらけが跳ね上がり、ぱっと鯣が辺りに飛び散った。
「正純よ」
かわらけをひっくり返した正信が、何事も無かったかのように平然と呟く。
「喋りすぎじゃ」
肯定でも否定でもない言葉に、我が意を得たりと言わんばかりの笑みを浮かべる正純。
片膝を抑えながら、ふらふらと立ち上がった正信は、息子に背を向けた。
「父上、何方へ」
「酔いが回ったので寝る。其の方も、もう帰れ」
「はい」
目的を果たしたからか、張りの良い我が子の声を聞き、正信は大きな溜め息を吐いた。
(真田の貉親父めが。悔しいが、戦と倅の出来は儂の負けじゃわい)
父子が立ち去った座敷に残された酒器と、飛び散った鯣。
ひっくり返ったかわらけには、金釘文字が記されていた。
『西進』
『葛尾城、森忠政』
才気ばかりが先走る本多正純が、豊臣家滅亡後に父と同じく年寄の座にまで昇りつめ、周囲の嫉妬と反感を気にもせず、また「賜る領地は三万石迄」という父の遺言を無視し、十五万石の加増を受けて増長した挙句、謀反と秀忠暗殺の嫌疑を掛けられて失脚と改易の憂き目を見たのは、大恩ある家康と父正信が相次いで病没してからのことである。
(了)
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