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ヤモリ男の冒険④

 交渉の結果、鶏冠は格安どころかタダ同然で購入できるようになった。
 意図したわけではないが、初孫の命の恩人となったことが功を奏したらしい。
 これで趣味の面では光明が見出せたものの、生活の面では一向に解決の糸口から見えず、状況打開の好機が訪れない。
 特に金銭面が問題で、さながら砂時計のように時間の経過とともに零れ去っていく所持金と通帳の差引残高を交互に眺め、諦めがちにため息を吐くしかないという虚しい日々を送る拓植。いっそ砂時計をひっくり返し砂金で満たされるような一獲千金のチャンスが湧いてこないものかと妄想に逃避することすらあった。
 しかし、どうしても就職の採用までこぎつけるには至らず、仮に書類審査が通ったとしても、面接で必ず落とされてしまう。
 原因は、拓植の奇行にあった。
 壁に近づけば指先を伸ばして押し付ける。
 夕暮れに小うるさく飛び交う羽虫を見て喉を鳴らす。
 己の身に危険が迫ってはいないかと始終頭を巡らせ辺りを伺う。
 人間の身体でも尻尾が存在を意識して歩くため姿勢が非常に悪い。
 それだけでも十分に問題ではあるが、先日などヤモリの姿から人の姿に戻った直後、四つん這いで自室の床を這い回った時には、さすがに恐怖で全身の血が凍りついた。
 無意識に、ヤモリの本能が人間としての自我を徐々に浸食しているのではないだろうか。
 このままでは、就職どころか人間としての社会復帰すら危うくなるのではないか、という恐怖。
 打開策は無いものかと、ヤモリ変化の指南書を何度も読み返してみたものの、そもそも明確な用途があるわけでもなく、従って使用頻度も一生に何度もあるわけではない術を、趣味として連日のように使い続けている拓植の方が異常なのだ。これを記した人間すら、変化の術にこのような副作用が存在するとは思わなかったかもしれない。
 当分、ヤモリの冒険は控えるべきなのだろう。
 そう思いながらも、今夜は時間がある、今日は久々に雨が降っていないなどと理由を付け、また酒の勢いも手伝ってヤモリに変化する日々が続く。
 そのような曖昧模糊とした日々を繰り返し、大事な蓄えを少しずつすり減らしながら、今日も拓植守はハローワークのあるビルから退出する。
「よお」
 がっくりと肩を落とし意気消沈していた拓植は、声を掛けてきた相手の姿を見て、首を傾げた。
 誰だろう。
 グレーの背広に紺のネクタイ。
 糊の効いたワイシャツに手入れの行き届いた革靴。
 櫛と整髪料で七三に整えた銀髪が好印象を与える、如何にも上品そうな老紳士である。
 ハローワークの担当者ではない。
 不採用通知を寄越した会社の面接官でもない。
 倒産した会社の上司や役員というわけでもない。
 個人的な知り合いに老紳士はいないし、親戚でもない。
「なに、鳩が豆鉄砲くらったような顔してんだよ。俺だよ、俺」
 その笑顔に見覚えがあるような気はするのだが、いつどこで見たのかを思い出せない。
「鶴松だ、鶴松文造だよ」
「えっ、鶴松!」
 思わず拓植は大声をあげてしまった。
 言われてみれば、確かに鶴松だ。
 馬子にも衣裳とは良く言ったものである。即座に思い出せなかったのも、むべなるかな。
 拓植は、競馬場での鶴松しか見たことがない。その時の彼は、焦げ茶色のジャンパーに擦り切れたジーパン。中はよれよれのシャツに吹き曝しの散切り頭であり、眼前の老紳士と同一人物とは、とても思えない。
 これまでは冗談半分で聞き流していたが、この風貌ならば前歴が教師であると吹聴しても、疑うものは現れないだろう。
「どうしたんだよ、その恰好」
「教え子たちの同窓会に招待されたんでなぁ。いくらなんでも、いつもの格好で出席というわけにはいかんだろう」
 いで立ちがそうさせるのだろう。いつもの下卑た笑みとは明らかに違う、朗らかな笑顔を見せる鶴松。
「ところで坊主、由三ンところで上手くやったそうじゃねぇか」
 鶴松の言う由三が日暮老人のことを指していると気付くのに、しばしの時間を要した。あの一家の名前は、主人や息子よりも、嫁いできた育子の方が強く印象に残ってしまったためである。
「たけ坊なら、俺も会ったことがあるよ。ちょっと目を離すと勝手にどっかに行っちまう腕白で、由三の息子夫婦もえらく手を焼いているらしいな。尤も由三にしてみりゃあ、大変元気な初孫で嬉しい限りだそうだが」
 翌朝に届いた電話によると、やはり拓植の推察通り、猛少年は空の木箱を積み上げて階段を作り、白壁の穴から土蔵の内部に潜り込んだらしい。穴から抜け出そうとした勢いで転げ落ち、幸いにも真下に積み重ねられていた土嚢がクッション代わりになったものの、しばらく目の前が真っ暗になった、つまりは気絶していたらしい。
 目が覚めてから抜け穴に手が届かないことに気づき、いくら大声で助けを呼んでも誰も来てくれず、擦り傷の痛みと空腹で泣き続けているうちに疲れて眠ってしまったらしい。
 もちろん拓植の存在や彼が変化したヤモリについては何一つ知る由もなく、本人は自分の呼びかけに誰かが応えてくれたのだと信じ込んでいるらしい。
 受話器の向こう側の日暮老人は恐縮していた。拓植を追い返した時の態度を反省したらしく、また深夜に訪問した時も拓植が猛を誘拐したのではないかと、胸中秘かに彼を疑っていたらしい。
 そうした態度への謝罪という意味も含まれているのだろう。日暮老人との電話での交渉は、孫救出の礼も兼ねて、地鶏雄の鶏冠五キログラムを今回に限り送料のみ、という形に収まった。
 ただ、猛少年発見までの件は、子供の失踪がどうしても気になったので単独で探し回っていたとしか説明できなかった。白土壁に空いた穴は、大人が潜り抜けるには小さすぎる。内部を確認できなかったのに、何故確信を持っていたのかと問われて、まさかヤモリに変化して潜り込んだとは、とても言えない。
「まあ、瓢箪から駒というやつだよ。お陰で飯のおかずと酒のツマミは鶏冠続きになっているんだけどな」
 しかに丸薬の材料にするとはいえ、個人消費に五キログラムは過分である。
「贅沢な悩みじゃねぇか」
 いつもなら、ここで自分の紹介があったからこそと恩に着せ、集るか借りるかするのが鶴松なのだが、先日のレースで大勝ちしたせいか、はたまた同窓会でかつての教え子たちと再会し思うところがあったのか、老紳士に金をせびるような素振りは見られない。
 しかし。
「五キロもあったんじゃ喰い切れんだろうし、丸薬の材料にするにしても多過ぎるだろう。どれ、処分を手伝ってやろうじゃないか」
 やはり、結局は集るのが鶴松である。
 しかし、この申し出は拓植にとっても渡りに船であった。
 五キロの鶏冠は冷凍庫に入りきらず、そうかといって廃棄するのは失業中の身としては勿体ない限りだと思う。入りきらない分の処分先としては、うってつけである。
「しょうがねぇなあ。分けてやるから、俺のアパートまで一緒に行こう」
「ありがてぇ。カリッカリに焼いて塩を降った鶏冠は、俺の大好物なんだ。それに、これで当分は酒の肴に困らねぇ」
 普段ならともかく、今の鶴松なら連れ立って歩いたところで衆目を気にする必要はない。むしろ自分の方がみすぼらしく見えてしまうのではないかと気後れしながら、拓植は鶴松をアパートに誘うことにした。
「ところで、たけ坊な。あれを見つけ出すのに、ヤモリ変化の術を使っただろう?」
 歩きながら尋ねてきた鶴松に、頷くことで肯定する拓植。
「やっぱりなあ。由三のやつ、そこだけは不思議だって何度も言ってたぜ」
「そうだろうな」
 鶴松は、拓植よりも先にヤモリ変化の指南所を解読し、ヤモリに変化した男である。ただし鶴松の性には合わなかったらしく、一回限りで止めてしまったという。
 拓植守がヤモリに変化できるのを知っているのは、世界広しといえども、この二人だけであろう。どちらかが誰かに言いふらさない限り、伝播することは無いだろうが、そもそも教えられた側がそれを真実として受け入れるかどうかは別問題である。
「そういや、新しい勤め先はまだ見つからないのかい?」
 悪気は無いのだろうが、鶴松が嫌なことを聞いてきた。
「あんたと会ったビルな、あそこにあるのがハローワークだ」
「職安か。仕事が決まっていたら近づきもしないだろうな」
「そういうことだ。求人はあるんだが、行けば必ず面接で落とされる」
 その原因がヤモリ変化にあるとは、とても言えない。
「この頃は、夜勤の仕事も悪くないかなと思うようになってきたんだ。ほら、夜勤の生活リズムなら、休日を丸ごとヤモリになっての冒険につぎ込めるからさ。ただ、その類の仕事は未経験だから、俺に務まるのかなって不安はあるんだけどさ」
「そうは言うがな、坊主。やらなければならんことは、ちゃんとやっているんだろう?」
「金がかかること以外は、やっているつもりだよ」
「努力して焦っているなら、それは良い経験だ。努力もせずに焦っている奴は、大概道を踏み外すもんだ」
 同窓会に招待されたことで元教師としての血が騒いだのか、珍しく拓植に対して真っ当なアドバイスを送る鶴松であったが。
「あんたは努力が要らない年になってから道を踏み外したんだろうに」
 普段の付き合いが勝り、あっさり拓植に言い返されても、鶴松が黙ることは無い。
「まあ、まだ若いんだ。何でもできるし、いくらでもやり直しは聞くだろうさ」
 慌てて取り繕うように言う鶴松だが、やり直しがきかなくなった若くない世代の失業者をハローワークで目撃している拓植からすれば、慰めにもならない言葉である。
「ああ、天から札束が降ってこないもんかなぁ」
「降ってくるわけないだろうよ。少しはマトモに考えろ」
「マトモに考えていられなくなるくらい、金が無いんだよ」
「お前、会う度に金がないしか言わなくなったなぁ」
 それはあんたが、会う度に金を借りるか集ってくるからだろう。
 そう言い返そうとした拓植だが、今のお互いの身なりに気づいて言葉を呑み込んだ。他人の視点では、拓植の方が借りる側に見えてしまうだろう。
 天から現金が降ってくる。
 それが起こり得ない事象であることぐらいは、拓植にだってわかる。
 さらに、もし何かの手違いで起こり得たとしても、出どころのわからない紙幣を使うのは危険である。元々ギャンブルぐらいしか趣味を持たず、アパートの自室には換金できそうな品などほとんど残っていないような拓植であっても、その危険性は十分に理解できる。
「まあ、天からは降ってこないだろうが、そこら辺に落ちている可能性は無きにしもあらず、なんだろうな」
「一億円事件かい?」
 もう十年くらい前になるだろうか。川崎市の竹藪から一億円が入ったバッグが発見されるという事件が起こった。拓植自身は他人事として見ていたが拓植の兄が触発され、彼の小間使いとして実家周辺の竹藪という竹藪を歩き回らされた挙句、兄弟で両親にきつく叱られたのは懐かしくも苦々しい思い出である。
「坊主は覚えていないだろうが、あの事件の十年くらい前にも銀座で一億円が見つかってなぁ。そりゃ大騒ぎだったんだよ」
「つまり、誰かが捨てた金があるかもってことか?」
「とっちかってぇと、盗まれた金なんだろうな」
 拓植には、今一つ要領がつかめない。
「ほれ、前日の現金輸送車襲撃事件」
「ああ、あれか」
 バブルが弾け、どこの銀行も資金繰りに苦労しているであろう時期に、追い討ちをかけるかのような事件が起こった。
 規模では中小と呼んで差し支えない某地方銀行の現金輸送車が三人組の強盗に襲われ、中に入っていた現金五千万円を強奪された、という事件である。犯行に及んだ三人組は未だに捕まっておらず、犯行に使われた車も盗難車で、しかも逃走中に乗り捨てられたと言われている。犯人グループは海外へ逃亡したという説と、未だ事件現場周辺に潜んでいるのではないかという説とに分かれ、また犯人グループはとうに解散したと推測する人と、まだ一緒に行動しているだろうと推測する人とに意見が分かれているらしい。
「あの事件で逃走に使われた車が、N町の竹藪近くに乗り捨てられていたもんで、この辺りでもちょっとした騒ぎになったじゃねぇか。覚えてないのかい?」
「そうだっけかなぁ」
 確かに鶴松のいう通り、事件直後は地元のテレビ局やラジオ番組、新聞等で大々的に報道されたことは、おぼろげながらも覚えている。しかし襲撃を受けた警備会社の人間に死者が出なかったこともあり、徐々に忘れ去られているというのが現状だろう。
 それでなくとも、拓植にとっては記憶に薄い事件である。
 当時は会社が倒産した直後で、襲撃事件について関心を持つ余裕など微塵もあろう筈がなく、今でさえ鶴松に言われてようやく思い出した程度の印象しかない。
「たった三人で現金輸送車を襲って、よく成功したもんだ」
「そこは、犯人が賢かったってことなんだろうよ。まずT字路で、方向転換に失敗した初心者ドライバーを装って現金輸送車の前に飛び出し、強引に停車させる。現金輸送車が前に進めなくなったところでしばらく放置して、苛立った現金輸送車の警備員が、車から降りてこちらに近づいてくるのを待ちながら変装する。車を早くどかすようにという苦情を運転席の男が聞き流しているうちに、助手席と後部座席にいた仲間が飛び出して、二人掛かりで警備員を押さえつけ、刃物を押し当てて人質に取り、運転席にいる警備員に車から降りて現金を詰め込んだキャビンを開けるよう脅迫する。脅迫に従った警備員と、人質に取った警備員の双方をスタンガンで気絶させ、キャビンから運び出した金庫をそのまま後部座席に押し込んでから逃走したんだとよ」
「詳しいじゃないか」
「新聞に載っていたじゃねぇか。読まなかったのか?」
「失業してから、新聞も止めたんだ」
 もし購買し続けていたとしても、目を通していたのは求人欄だけだっただろう。
「それで、犯行に使われていた盗難車はN町で見つかったものの、中に残っていたのは空になった金庫だけだったんだとよ。おまけに盗難車が乗り捨てられていた場所には、犯行の数時間前から別の車が停まっているところが目撃されているんだ。警察の見立てじゃ、犯人は逃走用の車を二台用意して、犯行に使われたものとは別の車で本格的な逃走を行ったのだろう、だとさ」
「へぇ」
 改めて聞いてみると、犯人側の作戦勝ちといった印象が強い。
「盗まれた五千万円は、まだ見つかっていないんだよな」
「見つかっていないな。金庫を奪われた場合に備えて用意しておいたGPSは、金庫そのものが対象だったらしい。中身を抜かれて放置されたんじゃ役に立たんわな。まあ乗り捨てられた車を発見できただけでも、昭和時代に較べれば相当な手柄なんだろうけどよ」
 鶴松の話を聞き終えた拓植の胸中には、二つの感情が渦巻いていた。
 上手くやってのけたものだ――という犯人側への称賛と、もし逃走した犯人たちが動き出すとすれば、ほとぼりが冷めた今頃ではないだろうかという、漠然とした根拠のない不安。
 しかし、それ以上に。
「N町の、竹藪かぁ」
 拓植は、まだヤモリの姿になった自分が足を踏み入れていない冒険の舞台が近所に残っていることを知った。

 N町の竹藪は、完全に盲点だった。
 もし鶴松が現金輸送車襲撃事件の話に関連して、逃走車が乗り捨てられていたのがN町であると言わなければ、そのまま記憶から抜け落ちていただろう。
 以前の拓植ならば、襲撃犯や五千万円の方に関心を持っていただろうが、今の彼にとって何よりも興味をそそられたのは、私有地であろう竹藪の存在だった。
 フェンスと有刺鉄線により公道から完全に遮断されている竹藪は、これまでならば取り立てて気にするようなものではない無価値な場所だったのだが、今ならば宝の山に匹敵するほどの冒険の舞台になるだろう。
 善は急げと言うべきか、その日の晩にはヤモリに変化してアパートから飛び出した拓植は、N町の竹藪に設置されたフェンスの隙間をするりと潜り抜けた。頑丈なフェンスや鋭利な有刺鉄線が存在するということは、天敵の一種である犬や猫の侵入を妨げるという利点も持ち合わせている。
 ようやく顔を出した更待月が時折流れる雲に隠れ、その都度生い茂る笹の葉の間隙を縫うように差し込んでは消滅する光明の切り替わりが、人ならぬ身に変じた拓植の心を柔らかに抱擁するが、それでも胸中に僅かばかりの物足りなさを感じずにはいられない。何事か起こるたびに先日訪れた山中の雄大な自然と比較し、どうしてもそこにスケールの違いを痛感してしまう。あの広大で溢れ出さんばかりの生命の息吹を感じ取ってしまった後では、未開の冒険の場ですら、まるで枯れ井戸の底を這い回っているかのような狭さを感じずにはいられないのだ。
 この竹藪も調べ尽くし、次の仕事が決まらないのであれば、故郷の田舎に戻って農業の手伝いをしながら静かに暮らした方が幸せなのかもしれない、と拓植は思案した。田舎ならば、一生を掛けても冒険し尽くせないほどの広大な土地が、山と田畑が存在するのだ。
 都会か田舎かで揺れ動く拓植の心情は、雲間から差し込まれた月明かりにより現実に引き戻された。
 今の自分は、小さく非力なヤモリなのだ。将来などと途方もないことに気を取られていては、たちまち捕食者の餌食である。
 将来について考えるのは、人の姿に戻ってからにしよう。
 決断したヤモリの拓植は、これまで通りに若い青竹の幹をスルスルと這い登る。古い竹に比べて柔らかくも滑りやすい青竹は、捕食者から逃れるためのアドバンテージを得やすいと拓植は考えている。その滑りやすい青竹に手足の吸盤で貼り付きながら、細い枝先へと移動する。
 ある程度先に進みながら距離を測り、ぱっと跳躍して近くの竹の枝にしがみつく。人間の視点からすればほんの十数センチ程度の跳躍だが、ヤモリにとっては命懸けである。それでも地上に身を晒しながらかさかさと這い回っているよりは安全で、なおかつ拓植の冒険心が満たされる移動法である。
 フェンス越しでは絶対に目が届かないであろう、竹藪の奥へと進むことしばし。
 突き当たりの崖、土壁の前にポツンと建てられた、物置小屋らしきプレハブの建物。
 こんな場所に人が訪れるのか。
 少しばかり意外に思いながらも、竹の枝伝いにプレハブ小屋に近づく拓植。
 波打つ軽量形鋼の壁は、錆こそ浮いているものの腐食は見当たらず、侵入に適した穴は見当たらない。しかし入り口らしき引き戸に嵌められた窓ガラスの一部が割れており、丁度大人の握り拳一つ分くらいは入りそうな穴が出来上がっていた。
 地を這い回る動物にとっては高さがあり、さりとて空を飛ぶ生き物が突入するには小さかろうと思われる穴だが、引き戸であろうが窓ガラスであろうが手足の吸盤で貼り付き移動できるヤモリにとっては、たいした障害ではない。容易に小屋の内部へと潜入したヤモリの拓植は、穴のすぐ傍に引き戸の掛け金、クレセント錠が設置されていることに気づいた。
 この位置なら、穴から手を入れるだけで掛け金に届くだろうな。
 そう思いながら掛け金を見た拓植は、クレセント錠が掛けられていることに「おや」と疑問を抱いた。
 小屋の内部に誰かが居なければ、内側から鍵を掛けることはできない。
 恐らくは竹の伐採と、筍の採取に使う道具を放り込んでいる物置小屋なのだろう。小屋の中は狭く、照明らしき装置はあるものの、ヤモリの小さく非力な身体では、点灯スイッチが動かせない。
 周囲を警戒しているうちに、次第に暗闇に目が慣れてくる。
 小屋内部の片隅に堆く積み上げられている影は、猛少年の墜落を受け止めた土嚢と同じものだろうか。
 そう思い込み近づいたヤモリの眼前で、それまで雲隠れしていた更待月が夜空に姿を現し、ぱっと影の正体を照らし出す。
 その正体を知った拓植は、慌てて壁から天井に移動した。
 こいつには、今まで何度も苦しめられている。
 人間だ。
 子供がヤモリに興味を持って捕まえたがるのは、まあ仕方ない。
 成人した大人であれば、たかがヤモリ如きに興味を持たず無視するものであろうが、それは素面であるという前提が条件になる。酔っ払って見境の無くなった大人は、ある意味では子供よりも厄介な存在になる。
 とにかく行動が読めず、壁を這うヤモリを追って何十メートルも駆けた者もいれば、持っていたビール缶を投げつけてきた者もいる。もちろんヤモリの存在に気づかない、気づいたとしても相手にしない人間が大半だが、もし人間に見つかった場合は、とにかく相手の手が届かない位置まで逃げ延びることが第一となる。
 今回も、それまでの経験から咄嗟に天井へと非難した拓植は、小屋の片隅に蹲っていた人間の動向を伺っているうちに、おやと疑問を抱いた。
 今の時季にはそぐわない厚着、しかも帽子にサングラスといういで立ちではあるが、猛少年のように寝息を立てているわけでもなく、ただ蹲っているだけで動きも気配も感じられない。何より、こんな夜中にこんなプレハブ小屋で、一人でいること自体が怪しい。
 意を決し、相手が急に起き上がってもすぐには危害を加えることはできないであろう位置から、そろりそろりと蹲る人間に近づくヤモリの拓植。
 どうやら、蹲っているのは男性らしい。しがみつくかのように革のボストンバッグを抱えたまま壁にもたれ、手足を折り曲げているが、その肌に暖かみは感じられず、拓植はようやくそこで男が死んでいることに気がついた。
 ヤモリの眼でぱっと見たところ、身体にも床にも血は流れておらず、致命的な外傷も特には見当たらないが、帽子を取ったり服を脱がせたりすれば、あるいはそれらしいものが見つかるかもしれない。
 しかし、それを実行に移すには、ヤモリの身体はあまりにも非力である。
 肩から手首へと死因の有無を目で探っていた拓植は、硬くなっているであろう男の指先が、抱えていたボストンバッグのファスナーを少しだけ開けたところで止まっていることに気づいた。
 まさかと思いながら、死体の存在を忘れたかのようにボストンバッグに近づく拓植。
 僅かに開かれた隙間から顔を覗かせていたのは、見覚えのある福沢諭吉の肖像が刷られた紙幣の束。
 札束。
 同じものが、このボストンバッグに詰め込まれているとでもいうのか。この死んだ男が、現金輸送車襲撃犯の一味だとでもいうのか。
 しばし混乱してから拓植が下した結論は、とにかく一刻も早く人間の姿に戻り、警察に知らせねばならぬという、ごく当たり前のものだった。
 割れたガラスの穴から抜け出し、プレハブ小屋から竹藪の出口と言うべきフェンスの外へと向かって駆け出した拓植であるが、通報という人間らしい判断をした影響だろうか、竹伝いに移動することを完全に失念していた。
 再び雲間から差し込まれた月光が、焦る拓植に己の今の姿を認識させる。
 それがヤモリ、いや野生動物の本能とも呼ぶべき直感を刺激したのかもしれない。
 とっさに身を翻したヤモリが、数秒後には駆け抜けようとしていた茂みの前で、巨大な頭が上下の顎を打ち鳴らしていた。
 手近な青竹に這い登りながら、ヤモリの拓植は襲撃者の正体を看破する。
 アオダイショウかシマヘビか。
 長さ一メートルに届きそうな巨体をずるずると引きずる、蛇の姿。
 それはヤモリが這い登っている青竹に巻き付き、その先端が二股に分かれた真っ赤な舌をシュルシュル出し入れしながら、螺旋を描くかのような動きで這い登ってくる。
 蛇には足が生えていないのだから、竹を登ってくるのはおかしいだろうと胸中で意見しつつ、そういえば田舎の兄が最初に飼い始めた蛇は、木に絡みついていたところを捕まえたのだと自慢げに語っていたことを思い出す拓植。
 直後に、逃走先を間違えたと拓植は後悔した。辺りに飛び移れそうな枝は無い。一番近い枝でも距離は五十メートル近くあり、届かなければ真っ逆さまに墜落である。
 一か八かで、飛んでみるか。
 覚悟を決めて前進したヤモリの拓植に、さらなる不幸が襲い掛かった。
 何かの病気だろうか、飛び移るために貼り付いていた竹の枝が、半ばあたりまで進むと、突如としてだらりと垂れ下がった。
 枝にしがみついたヤモリの身体も、当然ながらそれに合わせて下へと望まぬ移動を開始する。
 その視線が、這い登ってきた蛇の視線と交叉した。蛇もまた、得物が竹の枝にしがみついたまま降りてくるとは思っておらず、虚を突かれたようである。
 動いたのは拓植の意思なのか、それともヤモリとしての本能なのか。
 刹那に枝から跳んだヤモリが貼り付いたのは、青竹の幹でも枝でもなく、ヤモリを喰らうことで飢えを満たさんと追い迫ってきた、蛇の脳天であった。
 頭部に掛かる重みと眼前に垂れ下がる尻尾から、得物の居場所に気づいたのだろう。頭部に貼り付いたヤモリを振り落とすべく、メトロノームのように上半身を振り回す蛇。
 ヤモリの拓植も、そうはさせじと吸盤で貼り付き、のみならず四肢に力を込めて蛇の頭を締め付ける。
 必死にもがく蛇が、一旦動きを止めてから、ぐるりと上半身を捻って上下を逆さまにした。
 何か仕掛けてくると察したヤモリは次の動作に映る準備をする。
 蛇は大きく身を屈め、次の瞬間には反動をつけて上半身を反らし、頭部に貼り付いたヤモリの身体を太く頑丈な青竹の幹に叩き付けんとする。
 そのタイミングに合わせ宙に飛んだヤモリの拓植は、空中で身を捻りながら青竹の幹に貼り付いた。
 勢いが止まらなかったのか、叩きつけるべき対象を失った蛇は、自分で自分の脳天を叩きつける破目になった。
 その一撃が効いたのだろう。
 解けたロープさながらに青竹の幹からずり落ちた蛇は、大きく開いた口からだらりと舌を垂らしたまま仰向けに突っ伏した。
 恐らくは気絶しているのだろう。
 大急ぎで青竹から這い降りたヤモリの拓植は別の竹に這い登り、今度こそ竹の枝から枝へと慎重に飛び移りつつ、竹藪と公道の境界線となるフェンスを潜り抜けたが、そのままアパートに向かおうとしたところで足を止めた。
 辺りに人の気配は無いのに、どこからか視線を感じる。
 まさかという恐怖が拓植を襲いながらも、すぐに払拭された。
 猛救出の頃から幽霊の存在を気に掛けていた拓植であるが、今回も人気のない場所で「そういうもの」を見つけてしまうのではないかという不安がある反面、人間の幽霊を見るのは、見た人が人間だからであって、ヤモリに変化した自分が見るとしたら、それはヤモリの幽霊でなければならないという珍妙な理論を、己の中で振りかざすようになった。
 今回もその屁理屈で、少なくとも幽霊の類ではないだろうし、子供か酔っ払いでもない限りはヤモリに興味を持つ人間はおるまいと自身を説き伏せ、ヤモリの拓植はアパートに向かって駆け出した。

アパートの自室で人間の姿に戻った拓植は、急いで警察に通報しようと受話器を取った。
 次いでボタンを押そうとしたところで、動きが止まる。
 拓植の脳内では、巨大な天秤ばかりが設置されていた。
 片方の皿には「通報」と記された巨大な分銅が置かれ、天秤はそちらに大きく傾いている。もう片方の皿には、今まさに「五千万円」と記された分銅が置かれようとしていた。
 もし拓植が通報して警察があのプレハブ小屋に入ったら、恐らく五千万円が入っているであろうボストンバッグも、回収されてしまうだろう。
 文字通り追い詰められつつある拓植にとって、五千万円の現金は非常に魅力的である。
 警察に通報したのでは、名もなき一般人の善意だけ、自己満足だけで終わってしまうし、そうかといって名乗り出るわけにもいかない。名乗り出れば、どうやって竹藪に侵入したのか、プレハブ小屋に入ったのかまで説明しなければならないし、まさかヤモリに変化しましたと正直に語ったところで、信じてもらえるとは到底思えない。
 それに上手い言い訳を思いついたところで、不法侵入という違法行為を犯したことに変わりはない。
 それに対して、五千万円という大金は、今の拓植にとって理性やモラルを突き崩しかねない程の甘美な輝きを放っている。まさに黄金と墓石だ。
 五千万円もあれば、暮らしに困ることはない。
 今まで通りに家賃を払い続けていられる。
 いや、それどころか駐車場付きの高級マンションに引っ越すことも夢ではないし、就職してからその金を頭金にローンを組むことでマンションを購入するのも不可能ではない。
 いっそ、その金を資本に起業するか、田舎に帰って土地を買い、農業に勤しむという道もある。
 肉親や知人には宝くじを当てたと触れ回れば良い。幾らでもごまかしは効く。
 これからは大金を元手に大きく躍進できた者だけが勝ち残る時代なのだと己に言い聞かせる拓植の天秤は、異様なまでに膨れ上がった五千万円という分銅の重さにより、着服という違法行為に大きく傾いた。
 通報は、五千万円入りのボストンバッグを回収してからでも遅くはない。
 愛用のリュックサックにペンチと糸鋸、軍手に懐中電灯、回収用の黒のごみ袋を次々と投げ込んだ拓植は、今度は人間の姿で竹藪へ向かった。
 竹藪前のフェンスに到着し、周囲に誰もいないことを確認してから、ペンチの奥にある切れ刃でフェンスの金網を切断した拓植は、点灯した懐中電灯を片手に竹藪の奥へと侵入を開始する。
 プレハブ小屋への方角と距離は、ヤモリに変化した時点で把握している。
 それが間違っていなかったことは、拓植が然したるトラブルもアクシデントもなくプレハブ小屋を発見したことで証明された。
 引き戸の割れたガラスに、軍手を嵌めた片手を突っ込み、内側のクレセント錠を半回転させる。先客も同じ手で侵入したのかと考えた拓植は、すぐにその推理を自ら否定した。内側から鍵を掛けるには、誰かが中に入っていなければならない。つまり最初から鍵は掛かっておらず、ガラスが割れていたのは単なる偶然だったことになる。
 小屋の照明を点けてから、死んでいる男に近づく。
 サングラスを掛けていてくれて助かったと、拓植は死者に感謝した。
 拓植守は、他人の死に顔をわざわざ覗き見る度胸など持ち合わせてはいない。
 男の服装は、黒の革ジャンにバギーパンツ。年の頃は拓植と同じかやや上と言ったところだろう。必要以上に動かさないよう細心の注意を払いながら外傷を探ってみたものの、やはり死因になりそうなものは見当たらない。
 死体の両腕からボストンバッグをもぎ取った拓植は、プレハブ小屋を出るなりボストンバッグのファスナーを下ろした。
 予想通り、中にぎっしりと詰まっていたのは大量の札束。
 一つを手に取り、中身が正真正銘の一万円札であることを確かめてから、その枚数を数え始める。
 アパートに戻ってからでも出来るであろう行為を、欲望に逸りその場で始めてしまった浅慮が、拓植守の運命を決定づけた。
 小屋の照明を消すことも忘れ、札束を数えるために屈んでいた拓植の後頭部を爆発的な衝撃が襲い、直後に視界が暗転した。

 うつ伏せに倒れた拓植の後頭部を、さらに何度もハンマーで殴りつけた。
 陥没した後頭部から夥しい良の血を流し痙攣する拓植に蘇生の余地が無いことを確認してから、無言のままボストンバッグに札束を詰め込む。
 友人とはいえ、状況が状況である。容赦も手加減も必要ない。
鶴松文造は、現金輸送車を襲撃した三人組の一人である。
 役割は運転手。教師時代は県境にある高校まで自家用車で通勤しており、またN町付近と襲撃地点の土地勘があったことにより、現金輸送を請け負っている警備会社に勤めている知人から強奪計画を持ち掛けられた。
 資金繰りに困っているという零細企業の若社長を仲間に引き込み、現金輸送車を襲って金を奪うところまでは、計画通りに事が運んだ。
 しかし、奪取した金庫から現金をボストンバッグに移し終えた若社長が、車を乗り換える隙を見逃さず、ボストンバッグを抱えて逃げ出したのだ。
 犯行に使用した車を残した場所で、これから逃走に使用する車を放ったらかしにするわけにもいかず、とりあえず逃走用の車で県外までの脱出には成功した鶴松と相棒だが、ここで二人の意見が分かれた。
 金を持って逃げた若社長は車の免許を持っていないのだから、まだN町周辺に潜んでいるはずだと主張する鶴松に対し、あの男には人目を避けて自宅に戻ってくるだけの度胸と行動力があると主張する相棒。
 二者択一の選択は、お互い一歩も譲らず、結局はそれぞれが自分の主張を基に裏切り者を追うことで落ち着いた。
 元々この襲撃計画により大金を得る前提で浪費していた鶴松が、拓植にヤモリ変化の指南書を売りつけたのは、仲間の裏切りにより金銭に窮したからであって、最初から彼を利用するつもりは微塵も無かった。
 しかし拓植が日暮由三の孫である猛の救出にひと役買い、また冒険心も盛んであると知り、自らが起こした現金輸送車襲撃事件の話を振ってみたのである。裏切り者追跡の進捗について相棒と情報交換を行った帰りに拓植と遭遇し、同窓会に招待されたと嘘を吐きながら、鶏冠を分けてもらうという名目で拓植のアパートを突き止め、それから競馬場にて愛用している双眼鏡でずっとアパートを見張っていたのだ。
 微動だにしなくなった拓植の身体をプレハブ小屋に押し込め、裏切り者の死因が病死あるいは衰弱死であると判断した鶴松は、照明のスイッチを消し引き戸を閉めてから、五千万円入りのボストンバッグを抱え上げた。
 目撃者は、青竹を這い登るヤモリだけである。

                                  (了)


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