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ヤモリ男の冒険 ③

 半分にまで短くなった拓植守の舌が元の長さに戻るまで、半月を要した。
 当初は一生このままなのかと悲嘆に暮れていたのだが、日が経つにつれて少しずつではあるが、十分な栄養を得た拓植の舌は元の長さに戻り、またヤモリの尻尾も同じように再生していたらしい。
 肉体面での憂いは払拭されたが、経済面での憂いは未だ解決の見通しが立たない。
 足繁くハローワークに通い続け、待遇と雇用条件が良さそうな会社を見つけ出しては手当たり次第に履歴書を送ってはいるのだが、資金難によりあえなく倒産した会社の元社員という風聞からか、或いはバブル崩壊のあおりを受けて失業した不憫な境遇の元サラリーマンが世間に多過ぎるせいであろうか、アパートの郵便受けに投函されるのは不採用通知ばかりである。
 どうにか面接までこぎつけた会社もあるにはあったが、短いままの舌では思い通りの発声がままならず、流暢なセールストークが必要不可欠とされる営業には不向き、それどころか営業の前歴すら怪しまれるという惨憺たる有様である。
 問題は滑舌だけではない。面接会場では、壁に貼り付き這い回るヤモリの習性が災いし、始終動き易そうな壁や天井を目でキョロキョロと探し求めるため、面接官や他の応募者から奇異な目で見られているのだが、拓植自身はまだその事実には気づいていない。
 己の舌が再生していることを知ってからは、またヤモリの姿で冒険を愉しむようになった拓植であるが、それに合わせるかのように抱える問題も増えた。
 まず、ヤモリの姿での冒険は、春先から冬の入りまでに限られると拓植は予測している。いかに頭の中身が人間のままであろうと、身体は爬虫類。冬が来れば冬眠せざるを得なくなり、その時期に外を歩き回るのは自殺行為に等しい。よって、遅くとも霜柱が立つ頃までには冒険を休止しなければならないだろう。
 それだけに、気温と湿度が高い今のうちに冒険を繰り返したいところではあるが、そこでまた別の問題が発生する。
 ヤモリの変化には、まず秘伝の丸薬を服用し、同じく秘伝の香を焚いて発生する煙で室内を満たしてから、導引によりそれを体内に取り込まなければならないのだが、丸薬と香の精製に必要な材料が、それぞれ一つずつ足りない。
 丸薬に必要なものは、鶏の鶏冠。
 香に必要なものは、イボタ蝋。
 鶏冠は直ぐにイメージが浮かぶものの、イボタ蝋はどういうものか想像がつかない。イボタロウムシの身体から分泌される蝋であるということ、昔は和蝋燭の材料として使われていたということはぐらいであり、どういう色や形をしているのか、現在も存在するものなのかは拓植も知らない。
 どちらも精製に必要であるということは、ヤモリ変化の指南書にしっかりと記されているのだが、その指南書そのものが中世から近世、つまり戦国時代から江戸時代にかけて制作されたものであり、現代の日本では如何にして入手すべきかもわからない。
 詳しい入手ルートを調べながらも、頻繁にヤモリに変化し続けていたせいで、丸薬も香も、あと二回分を残すのみとなった。
 こんな時は、自分のパソコンを持っている隣人の加藤が羨ましい。パソコン通信なら欲しい情報も容易に入手できるだろうなと、部屋の壁越しに妬まし気な視線を送った拓植は、覚悟を決めて最後の手段に打って出ることにした。
 即ち、ヤモリ変化の指南書を譲ってくれた友人、元国語教師を自称する鶴松文造に直接聞いてみるのである。指南書を解読し、そこに記されている通りに丸薬と香とを作り上げ、拓植よりも先にヤモリの姿での冒険を行ったと豪語する鶴松ならば、その入手ルートを知らないはずがない。
 鶴松を捉まえることそのものは、比較的容易である。
 レースが行われる日に競馬場へ行き、入場料を払って観客席を歩き回っていれば、一時間と掛からずに鶴松を見つけ出す自信はある。
 ただし問題は、一旦競馬場に入場した拓植が馬券を買わずに済ませる自信が無い、という点である。
 失業するまではレースが行われるたびに競馬場へ突撃し、外れ馬券を辺り一面に撒き散らしていた拓植である。金が無い失業者という立場もあるが、何より失業直前に万馬券を当て百万単位の大金をせしめたという実績が、彼を再び賭博へと誘う新たな後押しになりかねない危険性を孕んでいた。
 当日のレース開始直前まで悩みに悩んだ末、拓植はレース終了間際に競馬場の入り口で待つことにした。
 レースが終了してから鶴松が出てくるまで、どれくらいの時間が掛かるか見当がつかないし、鶴松を見失う可能性も無いわけではなかったが、ただでさえ乏しい貯金をさらにすり減らすよりは遥かにましである。
 通行人に奇異の目を向けられながら待ち続けること数十分。
 どうやら本日は勝利したらしく上機嫌で競馬場から出てきた鶴松の細腕を掴む拓植。
「おぅ、坊主じゃねぇか。どうした?」
 勝者の上機嫌も手伝っているのだろう。拓植が率直に原材料の入手ルートについて尋ねると、いつものように見返りを求めることもなく答える。
「焼き鳥屋で、トサカとかカンムリを頼んだことは無いのかい。あれは食肉として普通に流通しているぜ。まあ業者でもない人間が気付くのも買い付けるのも珍しい話だろうがな。俺の遠縁で、日暮由三って養鶏家がいるんだ。そいつには俺から頼んでおくから、明日か明後日辺りにでも買いに行けばいい」
「イボタ蝋は?」
「大学出ているのに何も知らねぇんだな。イボタ蝋なんて、工具店に行きゃ普通に売られてんだろう。敷居や家具のレールに塗って滑りを良くしたり、碁石やパイプの手入れに使ったりもするぞ」
「漢方薬に使われていることは、古文書なんかに載っていたから知っていたんだけどな」
 知識を披露して誤魔化そうとしたものの、逆に常識を疑われてしまっては元も子もない。
「それより蝋として使われていることに注目しろよ。論語読みの論語知らずっていのうは、お前みたいな奴のことを指すんだぞ」
 若干用法を間違えているような気がしないでもないが、拓植はそれを口には出さず、養鶏場の場所を聞き簡単な紹介状を書いてもらってから、鶴松に礼を言って別れた。
 失業してから、拓植は乏しい蓄えから費用を捻出し自転車を購入した。ギア変速すら付いていない安物だが、電車代やバス代といった交通費が大幅に節約できるという目論見からである。
 養鶏場は、拓植の住む町から電車で北上、さらにバスに乗り換える必要がある。無理をすれば自転車でも行けなくはないだろうが、ここは交通機関を利用した方が無難だろうと拓植は判断した。

 翌日。
 田舎の豪農というものは、大概広大な土地を所有している。
 都会であれば高層マンションの五棟や十棟は建てられそうな平野の中心に、ぽつんと自宅が存在し、その周辺には自家栽培の畑や物置代わりの古臭い蔵、収穫物を出荷するための作業場などが配置されているものである。
 拓植の実家も、そのような農家の一世帯であるのだが、その拓植ですら日暮老人のささやかな自慢話には驚かされた。
 自宅の背後に聳え立つ山々すら彼の所有物であり、養鶏場は多岐にわたる事業の一環に過ぎないと語る日暮老人は、しかし自慢話をしながらも、我が心ここに在らずといった様相を隠し切れずにいた。
「ご購入は、別に今日でなくとも構いませんじゃろう」
「後日こちらから電話するので、今日のところはお引き取り願えませんかのう」
 まるで追い返すかのような老人の言い草に、拓植は腹を立てるよりも先に疑問を抱いた。
 日暮老人の態度には、拓植との交渉を早々に切り上げたいという焦りの色がありありと見て取れる。しかしそれは拓植本人に対する悪感情というよりは、何か別の事象に対して行動しなければならぬという、自らへの強迫観念に基づいたものであるようにも見える。
 養鶏場の鶏に何か問題が生じたのか。
 それとも日暮家そのものに何かしら、のっぴきならない問題が起こったのか。
 警察でも私立探偵でもない、一介の失業者でしかない拓植守にそれを追求する権利など有ろうはずもなく、仕方なしに一礼して日暮家から立ち去る。
 これから数日、日暮老人からの連絡を待つべきか。それとも独自の鶏冠入手ルートを確保すべきかと悩みながら、バス停へと続く林道を歩いていた拓植は、はたと足を止めた。
 何処からか、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
 間を置かず林道の向こう側からやってきたのは、赤ん坊を連れた夫婦らしき男女一組。
 男性の年頃は拓植と同じくらいであろう。鶏卵のような丸顔に眼鏡を掛け、整髪料できっちりと整えた短髪には誠実さを感じさせる。夫人も恐らくは同世代なのだろうが、その胸に抱く赤ん坊が泣き止まぬのをあやすのに手を焼いており、うつむき加減の顔は拓植の位置からは良く見えない。
「あのぅ、すいません」
 駆け寄ってきた男が、拓植に向かって頭をぺこりと下げた。
「この辺りで、青のポロシャツに半ズボンの男の子を見かけませんでしたか?」
「男の子?」
「ええ。年は四つなんですが」
 迷子か。
 見かけていないと正直に答えた拓植に礼を言ってから、振り返った男はどうにか泣き止んだ赤ん坊をあやし続けている女に声を掛けた。
「どうしよう。他に探していない場所はあったかな」
「貴方の実家じゃないの。私より良く知っている貴方が思いつかないんじゃ、私にだって思いつかないわよ」
 ややヒステリックに言い返す女の顔に、拓植は奇妙な違和感を覚えた。
 見覚えがあるような、無いような顔である。ブラウン管越しに眺めていた女優やアイドルを彷彿とさせる、という表現ではさすがに褒め過ぎであり、そうかといって会社の同僚や営業先のお得意様、ましてや夜の繁華街で見知った顔というわけでもない。
 誰だろう、と心の中でしきりに首を傾げる拓植の背中に、まるで火事を知られるかのような大音声が浴びせかけられた。
「いたかぁ!」
 振り返った拓植の視界に飛び込んできたのは、先程の狼狽ぶりが信じられないほどの勢いでこちらへと駆けてくる日暮老人の姿。
 その日暮老人は、拓植の前ではたと足を止めた。
「なんじゃい、あんたまだおったのか」
 酷い言い草である。
「僕が呼び止めたんだよ、父さん。何処かで猛を見ていないか、尋ねていたんだ」
 男の一言で、拓植は状況の半分ほどを把握した。
 まず、眼鏡の鵜ノ子頭は日暮老人の息子であり、猛というのは彼の息子、つまり老人の孫の名前であるらしいということ。
 次に、その猛少年がこの辺りで行方不明になっているらしいということ。
 最後に、日暮老人が拓植を追い払ったのは、いなくなった猛少年の捜索を邪魔されたくなかったが故、ということ。
 やはり、拓植自身には何も落ち度は無かったのである。
「それより父さん。この人と知り合いなら、猛を何処かで見なかったか、既に聞いたってことだよね?」
 拓植には、聞かれた覚えは無い。
 動転していたと素直に答え辛いのか、返答に詰まった老人は、救いを求めるかのように息子の嫁に声を掛けた。
「育子さんや。猛が行きたがっていた場所とか、聞いたことないかね?」
 血は争えないのか、質問の内容が息子とほぼ同じである。
 しかし、拓植の意識は質問の内容に向けられてはいなかった。
 育子。
 同じ名前を声には出さず何度も繰り返しているうちに、拓植はあっと声を上げた。
「なんじゃい!」
「迷子ですか!」
「今頃気づいたんか!」
 呆れる日暮親子に照れ笑いを返しながら、ああそうかと心の中で膝を打つ拓植。
 山尾育子。
 拓植にとって、三年間の高校生活を同じクラスで過ごしたクラスメイトであり、行為を抱いてはいたものの、結局一度も声を掛けることすら無く、悲恋以前の状態で終わってしまった想い人であった。
 確かに、目の前の彼女のボリュームのある茶髪を艶やかな黒のポニーテイルに変えたならば、すぐに学生時代の山尾育子を想起していたであろう。
「浩一、溜め池や用水路は見てきたんじゃろうな?」
「勿論だよ。猛が一人で歩き回っているとしたら、あの二か所が何処よりも危険だからね。それより、家の中にはいなかったの?」
「おったら、ちゃんと知らせておるわい。おらんから焦っとるんじゃろうが」
 もっともなことを言ってから、老人は首を傾げた。
「猛はお前と違って、元気の塊みたいな子じゃからのう。儂が呼べば尻尾を振ってすっ飛んでくるじゃろうに、いくら家じゅう探し回って呼びかけても返事が返ってこん」
「父さん。そんな犬みたいに」
「あの」
 父子の会話に育子がおずおずと割って入った。
「裏の山に入ったということは」
「そりゃあ、無いな。こいつとあんたが猛を連れて来る日は、必ず山に通じる裏門の戸は閉めて、閂を掛けてある。猛の身の丈ではまだ閂に手が届かんし、婆さんも閂を外した覚えは無いと言っておる。何より、ここに来る前に裏門を見て来たんじゃが、閂は確り掛かったままだったわい」
「では、裏庭は」
「それを今から手分けして探そうと言いに来たんじゃよ」
「わかった。父さん、育子、戻ろう」
「あの」
 一斉に頷き自宅へ戻ろうとする日暮一家を呼び止めた拓植は、気まずい空気にもめげずに言葉を続ける。
「何か、お手伝いできることは」
 返答は、「ないわい」という老人の怒声と夫婦のすまなそうな会釈であった。

 拓植にとって、残り少ない鶏冠を入手できなかったことより、消えてしまった男の子と、濃紅色を彷彿とさせる育子の思いつめたような憂い顔の方が、心残りになってしまった。
 アパートに到着したのは夕暮れ刻だが、バスや電車の車内で拓植が思い悩んでいたのは、鶏冠購入の別ルートでもイボタ蝋の購入に関することでもなく、日暮姓となった山尾育子のことばかりであった。
 自分が高校時代のクラスメイト、拓植守であることを育子は果たして気づいたであろうかと己に問いかけ、やや間を置いてから、そんなことは有り得ないと否定する。
 根拠は、当時の彼女と自分との距離感である。
 高嶺の花という表現は大袈裟に過ぎるとしても、他の女子と比較すれば少女らしい魅力に溢れ輝いていた山尾育子が、良くも悪くも目立たず、そうかといって特に孤立していたわけでもない、平々凡々であるが故に印象が薄かったであろう拓植守の面影を記憶の一片に留めているとは到底考えられないし、仮に何かの手違いで気づいたとしても、所詮は単なる元クラスメイトという認識だけで終わってしまうだろう。
 彼女も進学するという話を聞いていた。大学か短大を卒業してすぐか、或いは在学中に結婚したのだろう。彼女の夫とは正真正銘の初対面だが、拓植が抱いた印象は、真面目さと誠実さ以外に取り柄がなさそうな凡庸とした男性、という程度である。
 あんな男のどこが良いのかと不愉快になりながら、しかし直後に己の現状を顧みて、まあそんな男と結婚したからこそ幸せな家庭を築いているのだろう――と取り繕うように納得する拓植は、非常に惨めである。
 アパートの自室に戻った拓植が、ヤモリ変化の丸薬と香を詰め込んだリュックサックを背負い自転車に跨るまで、五分と掛からなかった。
 そろそろ、近所の空き地や林も冒険し尽くしたところである。
 日暮家の周辺は、本格的な森の探検にはもってこいの場所だろう。
 猛少年の捜索はついでに行えば良いのだ、と拓植は自分に言い聞かせる。
 目的地への便は存在するが一時間に一本程度、バスに至っては最終便が往路になってしまう。肉体的にはかなり負担を要することになるのであろうが、ここは時間に縛られない自転車を利用した方が賢明だろう。
 ロードマップを片手に幹線沿いの道路を探し出して北上。目的地の駅から夜の上り坂を手押しで上り、急なカーブを猛スピードで追い抜く車を罵倒しながら、ひたすら自転車をこぎ続けた拓植が辿り着いたのは、昼間は意気揚々と降り立ったバスの停留所。
 近くには休憩所を兼ねたプレハブ小屋が建てられており、ヤモリへの変化はその中で行うつもりである。
 アパートの自室以外の場所でヤモリに変化するのは初の試みになるが、問題は変化中に無力化した抜け殻、人間時の肉体の保管場所だった。
 ヤモリの小さな体で長距離を移動したのでは、夜が明けてしまう。
 朝日が昇れば術が解けてしまうわけではないが、昼間のヤモリの移動は目立ち、大空を自由に飛び交う鳥類の餌食になりやすい。夜に移動するのは、梟やミミズク以外の鳥を避けるためでもある。
 それだけに、探索場所から遠くない場所で変化を行う必要があるのだが、それは同時に仮死状態の本体を往来に放置することになる。その光景を第三者に目撃され、ただ寝ているだけだと誤解されるのならばまだ僥倖で、意識が無いことを気づかれ救急車でも呼ばれようものなら一大事。ヤモリの姿から人の姿に戻ろうとしても、本体は見知らぬ病院に担ぎ込まれ、その病院の場所を探し当てることすらままならず、ヤモリのまま一生を終えることにもなりかねない。
 そうかといって、人目を避けられそうな場所で本体を風雨に晒すわけにもいかない。
 車があれば車内で比較的容易に変化できるのだろうが、運転席で伸びている姿を誰かに発見されでもしたら、病院に担ぎ込まれる顛末は変わらないだろう。
 今回は自転車をプレハブ小屋の裏に隠し、外から覗いただけでは見つかりにくい死角を確保してから、身を屈めて薬を使うことにした。これだけ手を尽くしても、始発に乗るため早々にバス停を訪れた住民に発見されやしまいかと危惧しているのだから、よほど条件が揃っていない限りは外での変化はできないな、と拓植は自分自身を諭すように呟いてから、丸薬を嚥下した。

 強めの風が吹き、木々の枝葉が唄いながら震えるように揺れるたびに、僅かに生じた隙間から差し込む月光のラインが美しく、また荘厳でもある。
 小暮老人の家へと赴く道中にある青々とした田園地帯に、溜め池なのか水溜まりなのかの区別もつかない、穴にたまった水。堆く積み上げられた樹皮や木片が、幼き日々を過ごした実家の風景を思い起こさせる。
 若い方の日暮夫婦と邂逅した林道から、日暮邸までの近道となるはずの森の中に侵入する。杉や松、他にも種類の判別がつかない木々が生い茂り、方々に伸びた枝葉が星々の瞬きを遮る。これでは、仮に昼間であろうと、人間が灯り無しで歩き回るのは難しい。迷い込んだのが小さな子供なら尚更だろう。
 初めて屋外で変化するという不安もあり、また田舎特有の光源の少ない夜景に呑まれ気勢を削がれた拓植の胸中に、もしや幽霊でも出るのではないかという子供じみた恐怖が突き刺さるが、しかしそれは直ぐに拭い取られた。
 幽霊が実在するか否かの問題ではない。今の自分は傍から見ればただのヤモリであり、幽霊を目撃したからとて呪われたり祟られたりする恐れは、どこにも無いのだ。
 むしろ恐怖は実在の生き物、捕食者にあると気を取り直すと、闇の中に息づく動物たちの鳴き声や枝葉を揺らす音、恐らくは今宵もヤモリと変わらぬサイズの小動物を襲っているのであろう梟や蛇を絶えず警戒し、木を這い上り落ち葉に身を隠しながら移動していたヤモリの拓植が、へし折れた朽ち木に近づいたその時だった。
「つかれた」
「でも、お腹いっぱい」
 二匹の蝙蝠が、会話を交わしながらヤモリの頭上を通り過ぎる。
 サイズはヤモリとほぼ同じくらいだろうか。お互いに餌とするには大き過ぎるし、二匹とも餌となる羽虫をたらふく喰って満腹しているようなので、襲われる恐れはないだろう。
 二匹の蝙蝠は、ヤモリの存在に気づかないのか、はたまた存在を無視しているのか、ひらひらと夜空を舞いながら大木の洞に潜り込む。
 大木に這い登り洞に近づいたヤモリに耳に、蝙蝠たちの会話が聞こえてきた。
「人間の作った巣があるよね」
「あるね」
「あれの、小さい方の巣の中から、人間の子供の泣き声が聞こえてきたよ」
「親の声は?」
「聞こえなかったよ。人間とは薄情な生き物だね。泣いている自分の子供を、ほったらかしにするんだから」
 人間が作った巣。家。
 そうだとすれば、小さい方の巣とは何か。
 ヤモリの拓植は、蝙蝠たちの表現と己の持つ知識とを擦り合わせ、一つの結論に達した。
 それは、拓植の実家にも建てられていた土蔵ではあるまいか。
 少なくとも、家屋の裏手に回れば何かしら手掛かりがあるかもしれぬと、大木から降りたヤモリは這い進む足を速めた。
 その甲斐あってか、ヤモリの拓植は思っていたよりも早く日暮家の土蔵を見つけ出した。昼間に老人が語っていた裏門からそう離れていない場所に建っており、瓦葺きの屋根と下部を覆うなまこ壁が時代を感じさせる。
 もう少し近づいてみようと歩を進めたヤモリの眼前で、カサリという音と共に草叢が大きく揺れ動いた。
 星明りの照明に合わせるかのように草叢から飛び出したのは、巨大な赤土の山。
 いや、山ではない。
 剥き出しの赤土を己が身に取り込んだかのような、巨大なヒキガエルが、ヤモリの眼前に鎮座していた。
 ヒキガエルは相撲の立ち合いさながらに、曲げた左右の前肢でしっかりと己のでっぷりとした巨体を支え、いつでも飛び掛かれる構えを崩そうとしない。
 言うまでもなく、ヒキガエルはヤモリの捕食者である。
 その食欲は飽くことを知らず、己より小さな生き物であれば同族であろうと見境なく襲い掛かり、その腹に収めようとする。
 子供の頃、ヒキガエルは長い舌で獲物を捕らえるが、その直前に身を大きく前へと乗り出す習性があることを田舎の兄から教えられ、また兄が飼育していたヒキガエルに餌を与える時にも何度か目撃していた拓植は、下手に逃げ出そうとはせず、ただその瞬間だけをじっと伺い続ける。
 ヒキガエルが半身を起こし、ずいと前に乗り出す。
 間髪入れず、ヒキガエルの懐に飛び込むヤモリの拓植。
 どうやら、身を乗り出した刹那にヒキガエルの口から飛び出した舌は、ヤモリの背後を横切ろうとしたコオロギを絡め捕らえたらしい。
 ぱくりと閉じられたヒキガエルの口の端から、脱出を試みようと足掻くコオロギの後肢が見えたものの、ヒキガエルが大きく頬を動かすと、無残にもまるで押し込まれるかのように口の中へと消えてしまった。
 可哀想だという感情も、食物連鎖の一環に過ぎぬという客観的な解釈も湧かないし、湧いたとしてもそれに気を取られている余裕は微塵も存在しない。
 ヒキガエルは、一撃で複数の得物をその舌で捕らえることが可能だと言われている。
 拓植だけがその一撃を逃れることができたのか、それとも最初から獲物はコオロギだけと決めていたヒキガエルの視界から、ヤモリが除外されていただけなのか。
 舌を伸ばす寸前に身を乗り出すのであれば、そのタイミングを逃さずヒキガエルの懐に潜り込めば、舌が届くであろう範囲から逃れることができるのではないかという拓植の判断は間違ってはいなかったのだろう。ただし、そこからヒキガエルの追撃を逃れる方法について何も考えていなかったのは、完全に失策だった。
 周囲に身を隠せそうな場所は草叢しか存在せず、しかもそれはヒキガエルの背後である。
 ヒキガエルの顎の下で身をすくめながら、拓植は己の短絡な判断を後悔し、なぜヤモリには自切以外の防御手段が無いのかと悲嘆した。
 今この場でヤモリの尻尾が切れたとしても、ヒキガエルは尻尾と本体を一緒くたにして捕らえ、一度に呑み込んでしまうだろう。ましてや本体から切れてのたうち回る尻尾を見たヒキガエルが、猫のように驚き跳び上がるような知能を持ち合わせているとは考えにくい。
 蛇が持っているような毒牙は無理としてもドクガエルやドクガ、ドクチョウのような毒と警戒色ぐらいは持っていても良さそうなものではないか、と今更のようにヤモリの身体への不満を零す拓植。
 獲物を呑み喰らう捕食者と、その死角に潜り込み逃げ出す隙を伺う被捕食者。
 静寂を破ったのは前者であった。
 突如として、ヤモリを腹の下に轢き潰さんばかりの勢いで前肢を動かし前方へ進もうとするヒキガエル。
 その突撃を咄嗟にかわしたヤモリの拓植は、ヒキガエルの次の動向を見定めんと振り向き、あっと声を上げた。
 ヤモリとヒキガエルの対決に生じた隙を逃さず密かに接近していたヤマカガシが、背後の草叢からヒキガエルに襲い掛かり、その後肢に喰らいついていたらしい。
 後牙に毒を持つヤマカガシの顎からどうにか逃れんと、先程自分が呑み込んだコオロギを真似るかのように必死で手足をばたつかせるヒキガエルに、もはや眼前のヤモリを狙う余裕などあるはずもなく、またヒキガエルを呑み込まんとするヤマカガシも、ヒキガエルよりはるかに小さいヤモリ如きに気を取られている場合ではないのだろう。
 ヤモリの拓植は、気づかぬうちに戦いの場から弾き出されていた。
(因果応報とは、このことか)
 久々に目に掛かる、しかしヤモリの視点からでは「おぞましい」としか表現のしようがない蛇の捕食シーンに絶句しながらも、ヤモリの拓植は草叢を慌ただしく駆け抜けると、土蔵のなまこ壁に貼り付き、そのまま上部の白土壁へと移動する。
 ここならば蛇もカエルも襲ってはこないだろうと、まずは動揺を鎮め、壁伝いに土蔵の裏手に回る。
 「あっ」と拓植の上げた声は、「ジッ」というヤモリの鳴き声に変わった。
 裏手の土壁に、子供なら潜れそうな大きな穴が開いていた。
 はっと勘づいた拓植が下へと頭を向けると、そこには裏手の壁と作の間に積み重ねられた大量の木箱。恐らくは収穫物の運搬に用いられているのであろうそれらの木箱は、無造作に打ち捨てられているのではなく、まるで階段のように整然と積み上げられていた。
 よもやと思いながら、それでも蝙蝠たちの会話を否定できるような根拠を持ち合わせているわけでもない拓植は、ヤモリの姿のままでするりと穴から土蔵の内部に潜り込む。
 穴の向こう側は暗闇の空間になっており、壁伝いに這い降りた先には泥の詰まった土嚢が積み重なっていた。もしこの内部に猛少年がいるとすれば、恐らくはこの上に落下したのだろう。
 そして拓植は、その推理が間違っていなかったことを確信した。
 泣いている。
 次第に暗闇に慣れてきたヤモリの両眼が、土蔵の片隅で、小さな体を丸めるように蹲ったまますすり泣く男児の姿を発見した。
 ブルーのポロシャツに半ズボン。
 まさに、父親の浩一が拓植に尋ねてきた際に語っていた、猛少年の服装そのままである。
 どうやら右の肘と膝をすりむいているようだが、派手な出血はしておらず、見た限りではそれ以上の外傷は無いようである。
 目鼻立ちは、どちらかと言えば母親似であるが、眼鏡を外した父親の顔を並べてみれば、逆に似ているところが多くなるかもしれない。
 すぐにでも助け出してやりたいところだが、ヤモリの身体ではどうにもならず、せめて励ましの声援を送ってやろうとしても、これまたヤモリの鳴き声にしかならない。
 入り込んだ穴から抜け出したヤモリが、拓植の肉体に戻ろうと駆け抜けた復路には、あの恐ろしいヤマカガシも、恐らくはその腹の中に収められたのであろうヒキガエルも、姿を見せることは無かった。

「すいません、ごめんください!」
 大声で何度も呼びかけながら、人間に戻った拓植が日暮邸の引き戸を何度も強く叩いたのは、日付も変わった夜半過ぎのことであった。
「あれ、あんた」
 寝ているところを叩き起こされたせいだろう。いかにも不機嫌そうに引き戸を開けた日暮老人は、拓植の顔を見て頓狂な声を上げた。
「どうも、夜分にお騒がせしまして」
 軽く会釈してから、拓植は真剣な面持ちで言葉を続ける。
「お孫さんの居場所がわかりましたよ!」
「なんじゃと?」
「裏の、土蔵の中です」
「まさか!」
「父さん」
 戸を叩いているのが猛かもしれぬと、淡い期待を抱いていたのかもしれない。
 息子夫婦と老人の細君らしい、幼子を抱いた老婆もぞろぞろと玄関口に姿を現した。
「皆で庭中を探し回った時に、土蔵には居なかったかと聞いたじゃないか。あの時、はっきりと居るわけがないって言ったよね?」
「そうじゃ、おるわけがない!」
 老人は、両手の指を突き合わせながら反論した。
「土蔵の扉には鍵が掛かっておるんじゃ。あのでっかい錠前を外さずに入れるわけが無かろう。儂は、ちゃんと錠前が掛かっているところを見ておる!」
 指で作り上げた空間は、どうやら四角い錠前を意味しているらしい。
「土蔵の裏の壁に、大きな穴が開いているでしょう。猛君は、その穴から中に入って、出られなくなったんです」
「無茶を言うな、小僧。あの穴には、儂でも手が届かんので修繕できずにおるんじゃ。猛の身長ではジャンプしても届くわけが無いわい」
「土蔵の近くに空の木箱をいくつも置いていたでしょう。あれを積み重ねて、即席の階段を作ったんです。土蔵の裏をごらんなさい、まだそのままの状態で残っていますから」
 ひゃっ、と老人がまた声を上げた。
「あ、あんたどうしてそこまで知っておるんじゃ!」
「失礼を承知で申し上げますが、あなた方と別れてから、行方不明になったという猛君の安否が気になって、今の今まで探し回っていたんですよ」
「父さん、今はこの人のことより猛が先だ」
「そうですよ」
 細君も息子の意見に賛同し、二人に続くかのように育子も意見する。
「あの、とにかく土蔵に行ってみましょう」
「そうとも。父さん、錠前の鍵は?」
「おう、持って来るからちょっと待っとれ」
「懐中電灯も人数分持ってきてくださいよ。土蔵の中は暗いですから」
「だから、どうしてあんたがそれを知っておるんじゃ」
「僕の実家にもあるんですよ、土蔵が。小さい頃、悪戯してはよく閉じ込められたものです」
「僕もです」
 日暮浩一が、初めて相好を崩した。
 間もなく、日暮一家と拓植は土蔵の扉の前に集まった。
 由三老人が錠前を外してから、主人、息子、孫娘を抱いた息子の嫁、主人の細君の順に土蔵の中へと次々に突入するのを見届けてから、一人残った拓植はその場を離れてバス停へと向かった。
 プレハブの停留所で夜明かしする破目になってしまったが、それはそれで仕方ないと諦めながら。


                             (続)

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