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きよしこのよる

 何気なく左腕の手首を見て、真衣子はため息をついた。これで今日2度目だ。何度見てもそこに時計はない。ちら、と部屋の奥の小物入れに視線を投げかけてから、振り切るように目を伏せる。
 改めて手元のチケットを見直した。身支度まで整えておきながら、この後に及んでまだ迷っている。
「来てくださいよ、先生。ほんと構えなくていいので」
 冬だというのに日に焼けて健康的な、神河の屈託のない笑顔が頭に浮かんだ。チケットには、煌めくクリスマスツリーと、ろうそくと十字架のイラスト。
 真衣子はしばらくチケットを見つめた後、迷いを断ち切るように少し頭を振ると、立ち上がってストールを巻き、家を出た。

 クリスマスソングがかかる店の前で、サンタの衣装を身につけたコンビニの店員がケーキを売り込んでいる。4時を過ぎた街を夕暮れが包み始めていた。
 今日売り切れなかったらケーキどうなるのかしら。
 真衣子はぼんやり考えながら駅に向かって歩く。コンビニのケーキは案外に美味しかったな、などと思い出しかけて、無理矢理その思い出を頭の隅に押しやった。
 駅に着こうかという時に、スマートフォンがコートのポケットの中で鳴り出した。どきりとする。恐る恐る取り出すと、実家の母親の名前が表示されていた。ホッとして通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、まいちゃん?」
「うん。どうしたの」
「お正月こっちに帰ってくるとかいなって思って電話したと」
 母の地元言葉が耳に懐かしく響く。
「うーん、たぶん当直あるから難しいかな」
「そうなの? またずいぶん忙しかねえ。体壊さんごとね。あんたそろそろこっちに戻ってこんね? お医者さんなんやし、どこでも仕事できるっちゃないと?」
「うん、……もう少しかな」
「そっちでお付き合いしとる人と結婚すると? それやったら戻らん気かもしれんけど……」
 ずきり、と胸が痛んだ。
「……ううん。もう別れたから」
「えっ……あら、そうやったん。ごめん。そしたらなおのこと早よ戻ってこんね。まあそんな急には無理やろけど。ぼちぼち考えてみたら? あらっ、そういえば今日はお休み?」
 真衣子は相変わらずの母のマイペースさに苦笑した。普段なら勤務中である時間に電話をかけてきておいて、このタイミングでそれはない。
「仕事中やったら電話出られんやろ」
 思わず郷里の言葉で返す。
「あっ、それもそうやね」
 母の屈託のない、あはは、という笑い声が耳元で響いた。
「今は外? お友達とかとパーティでもやると?」
「そんなもんかな」
「よかねえ、楽しんで。休み取れそうな時に帰ってきいよ」
「うん。また連絡する」
 スマートフォンを耳から離す。明るい母の声の余韻が、胸の中に暖かな空気を満たしていった。しばらくその感覚を名残惜しむようにスマホの角をなんとなくなぞっていると、ふと、鼻先をよく知った男物の香水の匂いが掠めて、思わず顔を上げた。素早く駅前の雑踏に目を走らせるが、和也の姿はなかった。落ち着かない気分でスマートフォンをポケットに入れると、緩んだ顔を再びこわばらせて改札に向かって歩き出す。
 未練があるのか、と言われれば、ない、と即答できる。でも、2年も付き合っていると事あるごとにふと思い出してしまう。何ひとつ思い出すな、という方が無理な相談だった。
「あんな男」
 人波の中をホームに向かいながら、わざと小声で呟く。
 そう、あんな男。
 電車に乗り込むとドア横に立ち、窓の外に目を向けた。ずいぶん暗くなってきた。空にはどんよりとした黒い雲が広がってきている。雲の隙間からまだかろうじてのぞく夕焼けが、変な赤さだ。昼のニュースで言っていたように、夜は雪になってもおかしくなさそうだった。
 寒いの、オレ好き。雪とかキレーだし。
 和也の声が頭の中に響く。真衣子は、目を閉じると心の中の和也を奥底に押し込めた。

 数駅先の改札を出て、チケットの裏に記載されている地図を頼りに進むと、小さいけれど思いのほか立派な教会が現れた。門扉には伝統的なガス灯のデザインの電灯があり、柔らかい光を投げかけている。
 まだ早すぎたらしく、門扉の前にはクリスマスミサと、新年ミサの紹介看板がポツンと置いてあるだけで、受付らしき机には誰もいなかった。机には無造作に菓子缶が置かれていた。離れたところから教会の中を伺うと、運営なのか教会の人なのか、数人がバタバタと教会の中を行ったり来たりしている。
 まだのようだし、どこかでお茶でもしてこようか、と身を翻しかけたところで、
「あっ、西崎先生!」
 と、真衣子を呼び止める声がした。振り返ると神河が大きな白い箱を抱えて笑っている。
「来てくれたんですねー」
 そう言いながら近づいてきた。まだ小学生くらいの男の子が、からかうような口調で神河の後ろから声をかける。
「あれ、にーちゃん、彼女いたの?」
「ちげーよ、うちの病院の先生だよ」
「なあんだー。相変わらずモテねーの!」
 いひひ、と笑いつつも、こんにちは、あ、もうこんばんはか! と元気よく言って教会にかけて行く。
「すっかりませやがって……。すいません」
 神河は申し訳なさそうに言った。真衣子はくすりと笑う。モテないのではない。神河は勤め先のリハビリテーションセンターの理学療法士で、爽やかな笑顔と丁寧な指導のため、そりゃあもうモテモテなのだ。好意を寄せてくれる層の大半は主に還暦以上の女性で、少し、いや、かなり年齢が高めではあるが。ただ、看護師達にもそれなりに人気があることくらいは、噂話に疎い真衣子でも知っていた。
「こちらもちょっと早すぎたみたいで。すみません」
「大丈夫ですよ! あの、寒いし、なんなら中でお待ちになったらどうです? ホットジンジャーティーとかも今準備してるんですよ」
「あ、でも、まだ準備されてる途中みたいだし、ご迷惑になると申し訳ないので」
「そんなことないです。中にいる人、冬休みだから暇で遊びに来た子供が大半ですし」
 神河はまた笑った。リハビリテーションセンターの前を通りかかるたびに、明るい声で励ます神河の声が響いていたのをふと思い出した。
 この人は、いつも笑ってるな。
 真衣子は眩しいような気持ちで少し目を細めた。
「どうします?」
「あ、じゃあ、お邪魔にならないところに、居させていただこうかな」
 遠慮がちに申し出た真衣子に、
「はい、ぜひ! こちらにどうぞどうぞ!」
 と、元気よく言うと、神河は教会の中へと招いた。真衣子は並んで歩きながら、おずおずと尋ねる。
「神河さんは、あの、毎年これを?」
「ええ、僕んち、完全なる仏教徒なんですけどね。歌は、中学んときに誘われてからずっとやってて。まあ、ここ数年は仕事でどうしても遅れるときもあるんですけど、ほら、先生と違って僕は当直とかないですし。基本的にはリハ室閉まったら帰れちゃうんで、よっぽどなんかなければ、だいたい毎年きてます。まあ今日は、たまたま水曜で午後休みだったんで準備まで手伝えてますけど」
「そうですか」
「先生は、ゆっくり休めました? 日曜の夜から2日連続で当直だったんでしょう? 昨日は続けて日勤もあったし」
 真衣子は少し笑った。
「ええ、12時間くらい寝ました」
 そりゃ良かった。と神河が破顔した。教会の入り口をくぐりかけたところで、後ろから大柄の男性が神河に向かって声をかけた。
「おーい、健ー」
 神河は振り返った。
「はーい」
「お前、そろそろ着替えないと。リハーサル始まるぞ」
 もうそんな時間か、と慌てた調子で言うと、神河は近くの女性に声をかけた。
「すみません、このかた、お客さんなんですけど、どこか座っていただいて欲しいので、案内をお願いしてもいいです?」
 ええ、と初老の品の良い女性が微笑んだ。
「先生すみません、僕これで」
 真衣子は慌ててきいた。
「神河さんは、どちらで歌われるんですか?」
 神河はにっこり笑うと、空の方を指差した。
「楽しんでくださいね!」
 神河は白い箱を抱えたまま、そう言うと教会を再び出て走って行った。

 真衣子があっけにとられていると、先ほどの女性からどうぞ、と声をかけられる。
 真衣子は軽く頭を下げた。
「すみません、早く押しかけてしまって」
「いいえ、こちらも準備が遅れているの。でもまあ、ここにいらっしゃるのは近隣の方ばかりだから、勝手知ったるって感じでどんどん入って来ちゃうし、受付なんて飾りなんですよ」
 そうですか、と言いかけた真衣子は、足を踏み入れた教会の中を見て、口を開けたまま固まった。外から覗いた時には見えなかった美しいステンドグラスが正面に大きくあり、死んだキリストを悼むマリアがかたどられていた。前に置かれた燭台の灯りを反射して、キラキラと輝いている。教会内の柱にはクリスマスの赤と緑の葉を模した飾りがそこここにつけられていた。あちらこちらでキャンドルがゆらゆらと光を揺らめかせている。
「……綺麗ですね」
 ため息のようなささやき声でそう言う真衣子に、女性はにこやかに言った。
「子供達がね、結構頑張って飾るのよ。ここにこれ置こう、やっぱりあっちにしよう、って、ロウソクとかもね」
「危なくないんですか」
「ふふ、良く見て」
 そう言って、女性は手に持っていた同じかたちのキャンドルを差し出した。真衣子が怪訝な顔で近づくと、それはキャンドルの形のLEDライトだった。女性がつけてみせると、ちらちらと炎が揺れて見えるような仕掛けになっていて、遠目には本物と見分けがつかない。
「いいものがあるんですね」
「教会も寄付だけで成り立ってるから、あんまり潤沢なわけじゃないんですけれどね。でもせっかくの催しで、子供が怪我したらつまらないでしょう? 乾燥する季節だから、火事も怖いし……。でもこれまでのロウソクは使い捨てだし、長い目で見れば、と思って。でも、換えてみたら取り替える手間がなくって、大人にとっても、良いものだったわね」
 そう言って女性はくすくすと笑った。
「それは、そうですね」
 真衣子も頬を緩ませた。
「ミサは初めて?」
「ええ。これまで縁がなくて」
「ただ座って、お話と音楽を楽しめばいいのよ。キリスト教式の初詣ってところかしら」
「そうなんですか」
「ミサに来られる方、半分くらいしかキリスト教の方はいらっしゃらないのよ。それでもいいのよ。みんなで無事に新年を迎える幸せを分かち合うの」
 そういって女性は微笑み、LEDライトを消すと、真衣子に手渡した。
「ここに座ってらして。ミサが始まったらこれをつけてくださいね。お茶が飲みたかったら右手奥の控え室の方に行けば、振る舞いのお茶がありますから」
「ありがとうございます」
 真衣子は会釈して席に座った。女性も会釈して、離れていく。
 教会内には、まだ人がまばらだ。確かに、子供がいくつかのグループに分かれて、飾り付けを手伝ったり、邪魔したり、キャンドル型のLEDライトをつけてみたり消してみたりしている。ただぶらぶらしているだけの子もいれば、仲の良い子たちとしゃべったり、携帯ゲーム機で遊んだりしている子など、さまざまだ。
 大人はみな忙しそうに行ったり来たりしていた。真衣子はここにいるのが不思議な気分で、立ち歩く人たちを見ていた。思い思いに好きなことをしてる子供達は、楽しそうな顔をしている。仕事柄仕方がないが、具合の悪い子を見る機会が多いので、ホッとした気持ちだった。
 真衣子は、本当に子供が好きなんだね。
 和也の声が頭に響いた。
 真衣子はぎゅっと目を閉じる。別にそういうわけじゃない。小児科医を選んだ時は、確かにそうだったかもしれない。今は少し自信がなかった。
 単純に、私は自分の子供が欲しかったのかもしれない。子供が、というよりも、家庭が。

「やだあ、あの人と結婚するんじゃなかったの? アラサーじゃん、可哀想」
 女の声が響く。和也の声が答える。
「えー俺若いしまだ結婚なんかしないよー。でも、ほら、お金持ってるじゃん、医者だからさ。欲しいものいろいろ買ってもらえるし」
「その時計も買ってもらったんでしょう? あの人、ブランドなんて興味なさそうなのに。お揃いとか高そー」
 くすくす、ふふふ、とくぐもった笑い声。
「俺が趣味よくしてやってんの。どうせ忙しくて使わないで貯め込んでるだけだしさ。髪型も俺がやらなかったらダサ子さんだし、ギブアンドテイクなの!」
「えーじゃあ今度私のキーホルダーも買ってもらってよ。プラダの」
「いーよ、じゃあ、いっそあいつと結婚してずっとこうやってカナに回すのもありかな」
 きゃはは、と同意するようなひときわ明るい声。
 夜勤の後の日勤を終えて帰宅した自室からそんな会話が聞こえてきた時、疲れのせいで幻聴が聞こえたのかと思ったくらいだった。
 寝室の扉を開けると、和也と知らない女がハッとしてこちらを見た。服はかろうじて着ていたが、ああ、そういうことか、と理解した。
 一刻も早く眠りたかったので、言い訳をする二人の荷物と服と靴を、マンションの廊下に次々と放り出した。和也のキーホルダーからは自分の部屋の鍵を抜くのも忘れなかった。ついでに二人の財布は階下に誰もいないことを確かめてから3階のベランダの外に投げ落とし、二人がワーワー言いながら出ていったところで鍵を閉めた。
 電話線を引っこ抜き、携帯電話の電源を切り、シャワーを浴びてから、ベッドでは気持ち悪くて寝る気になれなかったので、客用の布団を台所の床に敷いて寝た。

 そこからずっと、悪い夢の中にいるようだった。和也からひっきりなしにかかってくる電話とメールが鬱陶しくなって携帯を解約し、新しいスマートフォンに変えた。ベッドもソファも椅子もテーブルも、見知らぬ女が使っていたかと思うと何もかも気持ち悪くなって、家具屋に行って適当に新しいのを選び、これまでのものは全て引き取ってもらった。念のために鍵も付け替えた。
 皮肉にも和也の言うとおり、ブランドにも何にも興味がなく、忙しくてデートすら間遠だったことで使えるお金はそれなりにあった。一応調べてみたけれど、通帳とかは特に動かされてなかったし、預金類に手をつけられていた形跡はなかった。そこまでひどい男じゃなかった、と思いかけて、むしろそこまでだったらあっさり嫌いになれたかもしれないとも思った。
 疲れているのに眠れなかった。どんなに長い時間新しいベッドに潜り込んでいても、寝たと思ったら覚めて、うとうとと悪夢と現実の間をさまよい、長い長い夜を過ごした。不思議と涙は出なかった。

 早く、忘れたい。はやく、わすれたい。

 始まりますよ。
 そう、優しい声で揺り起こされた。気が付いたら教会内にはもう人がびっしりと座っていて、あちらこちらでざわめき話す声が高い天井にこだましていた。知らず、うとうとしていたらしい。恥ずかしくなって小さい声で礼を言うと、小さな子供を抱き、隣にもう一人子供を連れた女性が
「お疲れなのかなって、思ったんですけど。せっかくなので、ね」
 と遠慮がちに笑った。子供の目がこちらを向いている。
「ロウソク、つけないの? どうぞ?」
 真衣子の持っているLEDライトが気になるようだった。真衣子は、ありがとう、と言いながらライトをつける。手の中で、優しい灯りがチラチラと揺れた。教会の照明が落とされる。正面のステンドグラスは後ろから照らされて浮かび上がった。教会中に小さなあかりがゆらめき、まるで別世界へいざなうかのようだった。
 鐘の音とともに、神父の声が響く。教会の中は、静まり返った。
「みなさん、今日は、クリスマスのミサにようこそ。キリストが生まれて、明日で2015回目の誕生日です。日本にいると一月一日が元旦なので、クリスマスはどうも年末みたいな扱いですが、キリスト教では明日が一年の始まりの日ということになります。
 このあと、続けて新年ミサもやりますので、そこまでどうぞお付き合いください。本当は新年ミサは0時開始なのが正式ですが、子供たちが仲間外れになったり、あとは大人も子供連れの方が多くて帰らないといけなかったり、大人も電車がなくなってしまったりしますし、私も眠くなってしまうので、大人の事情で毎年この形にしています」
 外国人に見える神父の冗談めいた流暢な日本語に、教会の中がどっと沸く。神父はチャーミングに、冗談よ、ちゃんと私は0時からもミサやります、カトリックの方、ぜひ残ってね、とウィンクしたあと、軽く手を挙げて合図した。

 合図を待ちかねていたように、パイプオルガンの厳かな響きが、文字通り何処かからか降ってきた。驚いて振り仰ぐが、暗いのでよく見えない。よく目を凝らすと、教会の入り口の方に小さな二階席があり、奥にパイプオルガンのパイプがかろうじて見えた。手前にゆらゆらとした白い衣装の人たちが立っているのもうっすらとわかる。神河もおそらくあそこにいるのだろう。
 しばらくすると、透き通るような声の聖歌が、天空から降り注いできた。真衣子は少し驚く。もっと、ママさんコーラス的な素人のコーラスを想像していたのに、統制された歌声は透明な響きで一つにまとまり、穏やかで美しく、心に沁み入った。
 あまりにも不意打ちの美しさに、パチパチと目の前に光が瞬くような感じがした。温かく、悪意なんて何もなく、この教会にはただ、人を大切に思う優しさと、人を思う幸せだけが満ちている、そう思った。
 ミサは粛々と進む。間に、自分たちが歌う場面もあり、真衣子は渡された歌詞をなんとなく読んだ。神父の優しい祈りの言葉や、カトリックの人々が祝福を受ける様子は、ただ神聖で尊く感じた。
 どんな宗教もきっと根っこは同じなんだろう。
 案内してくれた女性の、キリスト教式の初詣、という言葉を思い出す。
 人々はただ、大切な人が幸せでいてほしい、そういう願いで集うのだ。大事な人が無事に一年を越えられた幸せを感謝して、次の年も健やかに居られることを願う。それだけのことが、国や宗教によって様々に形を変えているのだろう。
 真衣子の目の前が緩やかに歪んだ。
 私はただ、そういう場所が欲しかっただけ。和也とそういう場所を作れるんじゃないかと思っていた。間違えていたけど、利用されていただけだけど。ありきたりと笑われていたかもしれないけれど、仕事に忙殺される日々に、そういう潤いを求めていた。
 真衣子の頬を涙が伝う。
 どこを間違えたんだろう。私の願いは笑われるようなものだったんだろうか。多くを手にしようとした罰だったんだろうか。和也の何を見ないようにしていたんだろう。和也は優しかった、優しいと思っていたのに。どうしてあんなことになってしまったんだろう。
 真衣子は静かに涙をこぼし続けた。けれど、教会内の暖かさが心に固まった大きな氷を溶かしていくような、悲しいというよりは静かな気持ちだった。

「……どうかしましたか?」
 ミサの合間のミニクリスマスコンサート、続く新年ミサの後に、出てきた真衣子の顔を見た神河は少なからずうろたえた様子で尋ねた。明らかに泣いたことが分かるような目をしているのだろうと自分でも分かっていた真衣子は、少し迷ってから
「ちょっと、感動しちゃって」
 ようやくそんな言い訳を口にした。実際、泣き続けだったのはあまりにも楽しく幸せだったからで、半分くらい嘘ではない。むしろ、泣いてすっきりした気持ちだった。
 そうですか、としばらく困惑した顔で真衣子の顔を見ていた神河は、あ、と思いついたように
「西崎先生、このあと、すぐ帰られます? 良かったらあの、ラーメンでもどうですか? って、クリスマスイブにラーメンもないか……」
 と気まずそうに言った。理由ははっきりと分からずとも、泣いていた女性を一人で帰すことを心配したのだろう、神河らしい気遣いだった。
「0時からのミサは良いんですか?」
 真衣子が聞くと
「あ、あれは本当にカトリックの人たちだけでこじんまりとやるんですよ。僕ほら、仏教徒ですし」
 やや胸を張る神河に、真衣子はクスリと笑った。
「じゃあ、是非」
「やった、じゃあ少し待っててください、着替えてくるので」
 にこやかに笑うと、神河は夕方と同じように走って行った。神河の通り過ぎた庭には、大きな木をクリスマスツリーに見立ててたくさんの飾り付けがしてある。てっぺんに大きな星が光っていて、とても綺麗だ。子供が調子外れのきよしこのよるを歌いながら帰っていった。少しずつ、教会が静かになっていく。吐く息が白い。どんよりと雲が空を覆い、本物の星は見えなかった。冷たい空気が立ち込めていた。
 しばらくすると神河の、照れたような、うるさいな、という声が聞こえてきた。数人の男性にからかわれているようだった。振り切って走ってくる。
「すみません、お待たせして」
「いいえ、ごめんなさい、なんだか勘違いされてるみたいで」
 並んで歩きながら真衣子が謝ると、
「いえ、あれ兄貴達なんです。僕、二人兄がいて。いつも何かというとからかわれてるので、気にしないでください」
「賑やかでいいですね」
「僕んち、寺なんですよ。一番上の兄貴は坊主で、親父の跡を継ぐ予定なんですけど、地域の集まりなんだからみんなと仲良くしなきゃって、毎年クリスマスに教会くるんです。変でしょ」
 そう言って神河はにかっと笑った。真衣子も、そうなんですか、と言いながらつられて笑う。
 少し歩きますけど、大丈夫です? 寒いかな。と神河に言われて、大丈夫です、と答える。むしろ少し歩きたい気分だった。
「神河さん、歌、上手なんですね」
 歩きながら話しかけた。
「えー、本当ですか。嬉しいなー。中学の頃から合唱やってたんですよ」
「良い趣味ですね」
「僕、勉強は普通で。でも、体育と音楽だけはいつも人よりできて、本当は声楽とかやりたかったんです。でもほら、三男坊でしょ。声楽家って稼げないじゃないですかー。実家にずっといて兄貴の世話になるの、やだなって。だからまあ、体育の道の方を選んで、スポーツやるうちに、リハビリの手伝いするのもいいなって考えてこの道に進んだんですよ。
 まあ、実際勤めてみたら、おじいちゃんおばあちゃんばっかでちょっと想像とは違いましたけどね」
 神河はそう言いながらも、楽しそうだった。
「病院でもやればいいのにな、クリスマスコンサート」
「そう、ですね」
「入院中の子とか、よろこびそうじゃないですか? 僕、提案してみようかなあ。また看護師長に睨まれるかな」
 真衣子はふふっと口に手を当てた。神河は麻衣子の笑う様子を見て、少し小さな声で
「……なんで泣いてたのか、聞いてもいいです?」
 と聞いた。
 真衣子はしばらく黙った。しばらくして、迷いながら口を開いた。
「私、うまく泣けなかったんです」
 神河は黙って歩く。
「付き合ってた人と別れて、それもひどい別れ方で、早く忘れたいのに忘れられなくて、でも泣くほど悲しくもなかったみたいで。なんていうか、自分の中でうまく清算できなかったんです」
 真衣子は言葉を選びながら話した。
「でも、教会の中が、とても温かで。うまく言えないんですけど、つかえていたものが、解けていくような感じで、気がついたら泣いていました。歌も、ミサも、素晴らしかったです。感動して、素直に自分と向き合えたのかも、と思って。感動して、と話したのは、嘘じゃないんです」
 なるほど。と一言神河は呟いた。
「泣いて、ようやくスッキリしました。吹っ切れたな、という感じがします。誘ってくださってどうもありがとうございました」
 そう真衣子が言った時に、神河がここです、と言ってラーメン屋を指差した。顔には笑みが浮かんでいて、真衣子は少しホッとする。
 中に入って、ラーメンをそれぞれ頼んだあと、真衣子はぽつりと言った。
「私、地元に、福岡に、戻ろうかなと思ってるんです」
 神河が驚いたように真衣子を見た。真衣子は少し照れくさそうに笑う。
「母が、そろそろ戻ってきたら、って話してて。あっちで、小さめのクリニックに勤めても良いかなと思ってるんです」
「クリニック」
「ええ、大病院は、年齢的にもしんどくなりますし。当直とか、もう何年も続けられないなーと。来年30になっちゃうし。結婚は、できるかわかりませんが、そういう道も可能性として、まだ捨てたくないので」
 でも、男性を見る目なくて失敗しちゃいましたけどね、と真衣子は失笑する。
「もともと地元にはいつか帰ろうと思ってたんですけど、いい区切りかなと。自分の欲しがっていたものも、なんとなく分かりましたし。忙しいと出会いがないから地元でお見合いでもしようかなって」
 苦笑いしながらふと見ると、神河が笑っていなかった。
「ラーメン、辛味噌どっち?」
 店員が元気よく丼を二つ持ってきた。
「あ、僕です」
「おまちー! お姉さん野菜味噌ね!」
「どうもありがとう」
 いただきます、と真衣子が言うと、神河も上の空でいただきます、と呟いた。ずっと食欲がなかった真衣子だが、泣いたり話したりしてスッキリしたのか、急にお腹がすいてきた。割り箸を割って、ラーメンに箸をつける。
「あの」
 神河は唐突に真衣子に顔を向けた。
「僕も行っていいですか、福岡」
「は?」
 もやしを掴んでいた箸が止まった。
「僕、三男坊だし全く問題ないです」
「えーと」
「僕としましょう。結婚」
「え?」
 神河は箸を置いて真衣子に向き直った。
「僕と結婚してください」
 真衣子はぽかんと口を開けていた。言葉は理解できるが状況が理解できない。
 神河は、気まずそうに目を逸らした。
「やっぱ僕じゃダメですかね」
「ダメっていうか……。いや、あの、同情とか勢いとかだったら、そんな気をつかっていただかなくても……」
「違います。僕、前の彼女と別れてから、っていうか振られたんですけど、いや、それはどうでもいいんですけど、とにかく1年くらい前から先生のこと見てて、でもなんかかっこいい美容師の彼がいるって看護師さん達から聞いていて、それであの、先日別れたって聞いて、だったら誘ってみようかなって思って」
「別れたって、誰が言ってたんですか」
「ナースステーションですごい噂でしたけど」
「……そうですか」
 誰にも話してなかったのに。美容師と付き合っていたことも、別れたことも。真衣子は苦笑する。
「僕、体力とあと歌だけが取り柄で、別にイケメンってわけでもないし、先生と釣り合うかって言われたら全然釣り合わないかもしれないし、好みじゃないかもしれないんですけど、あの、一生大事にしますから」
「私が仕事を辞めるって言っても、好きですか」
「え?」
「もう一生働かないって言ってもですか」
「一生働きたい、じゃなくてですか? それは全然、僕はどちらでもいいですけど。先生、仕事嫌いだったんですか?」
 神河が戸惑う。
「ちょっと聞いてみたかっただけです。仕事は辞めませんよ。仕事は好きですし、なりたくてなりましたから。仕事辞めなくてもいいですか?」
「さっきと言ってること逆ですよ。ですから、僕はどちらでもいいですけど。……て、え、じゃあ」
「ラーメンのびますよ。食べましょうよ」
「はい、じゃなくて、あの」
「後でまた話しませんか。食べ終わってからゆっくり」
 真衣子は笑った。久しぶりの、暖かい気持ちだった。

 外では、雪が降り始めていた。

写真はこちらからお借りしました。
無料写真素材 写真AC
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