『甦るフレーブニコフ』音読記録その6

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『甦るフレーブニコフ』音読記録 は、
2020年末〜2021年初めに音読した毎回の感想を改めてまとめたものです。

著者の亀山郁夫先生のzoom講義(2022年12月4日(日)10時から12時、ヒッポファミリークラブ主催)がありますので、これを機会に、と思いアップしています。

12月4日までにアップし終わるように、毎日、4日分程度アップしていこうと思います。

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2020年11月18日(水)  第9章 詩と絵画
         「地獄の戯れ」(191〜199ページ)

『地獄の戯れ』はフレーブニコフとクルチョーヌイフの共作による、プーシキンの絵に多大な影響を受けた、詩作です。

ことの起こりは、クルチョーヌイフの原稿を見せられたフレーブニコフがそのまま余白に自分の詩をどんどん書き込み始めて、共作となっていったということ。

そんなのあり?・・・うん、あり!

っていう二人の瞬間を想像すると、わくわくしますね。

最近、山崎はあらためてアメーバでブログを書き出したのですが、ちゃんときっちり仕上げてアップするということを放棄しました。 どう仕上がるのかが、自分ひとりではどうにもならない、 思いついただけの段階で、放ってしまったほうがいいのではないか、 と思ったからです。 というわけで、読んでいるこの本と、共振しています。
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上記アメーバでのブログ、中断したまま。
毎日書く、というのを課してみたのですが、確か二ヶ月くらいで挫折。放置中です。自身のウェブサイトの方に回収しようと思ってますが、まだ。(2022年11月14日付記)


2020年11月23日(月) 第10章 古代の意味  
          「死と古代」200〜209ページ)

今日のところは、今までで1番わからなかったです。
が、再考してみると、きっとこんなふうかな、というイメージが浮かんできました。

フレーブニコフが詩作で、原始人の生活をどのように設定するかという点で、 温和なプリミティヴィズム(豊饒と無垢の黄金時代)と 苛酷なプリミティヴィズム(ぎりぎりの生存、なんの慰安もない人間以下) の二つのうち、明らかに後者のイメージだといいます。

そこでの「死」は、日常すぎて、恐れるものではない。
動物を狩って食うように、自分たちも動物たちと同じに、いつ死んでもおかしくはない。

ことばを得て、死の恐怖を知ることになったのが人間だとしても、その初期には、まだそういった抽象的思考が発達せず、 それゆえ、自然との苛烈な一体感みたいなものとともに生きていたのではないでしょうか。

フレーブニコフはそういう「にんげんのもと」みたいな状況を、描き出したかったのかな、と想像しました。

2020年11月25日(水) 第10章 古代の意味
           「反悲劇」209〜218ページ)

今日のところは読み易い印象でした。

ロシア語の、すばらしい脚韻が味わえないのは、完全に片手落ちですが、想像で感じます。 近親相姦をテーマとした神話的な作品が、元ネタの神話と比較されながら、説明されていきます。

フレーブニコフ作品に特徴的に現れるらしい、金髪の美女、その髪が足にまで掛かる描写などが、官能的な気分です。

神話にある近親相姦とか親殺しとか、改めてどういうことなのかな、と考えます。ことばを持たない生き物ならば、親や兄妹というような関係性もそこまで明快ではないであろうから、やっぱり人間に特有な事態なんだろうか?
社会的な禁忌を犯すことに気持ちの良さがあるのか?などなど。

きっとフレーブニコフは、ヒロイズムにしろ近親相姦にしろ(頭の観念の刺激で)体にビリビリくるような快楽を、美しく根源的な、ことばの音とリズムに昇華して形にしてるんだろうなーと、想像しました。

2020年11月26日(木) 第11章 牧歌とユートピア
      「スラヴ・アルカディア」(219〜227ページ)


フレーブニコフ個人として初の単行本が1912年の『先生と生徒』という小冊子だったそうです。
それは、

〈未来派詩人としてのみずからの理論と実践を、「先生」と「生徒」の対話という一種プラトン的ともいうべき古風な形式で人々に宣べ伝えようとするユニークな試みであった〉

と説明されていました。
対話篇ってとてもわかりやすい印象がありますし、なんだか面白そう。(きっと受けたんじゃ無いかなと思いながら読みましたが、前にヤーコブソンが、1920年ころに研究を発表したことが、フレーブニコフ理解の端緒となったみたいなことが書いてあったから、当時は分かられなかったんでしょうね。)

ナンセンス牧歌詩、などという言葉もありましたが。

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当時のロシア、あるいは現在もかもしれないけれど、日本とちがうのかな?と感じました。
山崎は「歌」はいつも何かしら聴いてるしカラオケするし、その詞に感動し、考え、語りますけど、詩人の書いている詩について、そうやってることって無いなーと思います。
この時代のロシアの人は「詩」を口づさんでいそうな気がします。
日本にそれがあるのって、与謝野晶子とかそのくらいの時代でしょうか、と、ふと思いました。調べると与謝野晶子は1878年生まれ。フレーブニコフは1885年生まれ。近く無くもないですね。(2022年11月14日付記)

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