見出し画像

2022_1207_亀山郁夫さんの講演

<1894字>

冒頭の写真:
ビワの花がそろそろ満開。すごくいい香りでもないが、それとわかる香りの雰囲気は、季節が近いからか山茶花と似てると感じます。
ニホンミツバチ(真ん中付近!)やアブ類の羽音がしていました。

ーーーーーー
先日、4日(日)は、亀山先生のヒッポファミリークラブ主催のzoom講演「カタストロフィと文学」でした。
感想を忘れないように書いておこうと思います。

前半は、現在のカタストロフィ(大災厄)、つまり、チェルノブイリ、911同時多発テロ、311大震災、ウクライナ侵攻、などの話から、18世紀のポルトガルの大震災と関係するヴォルテールの『カンディード』からドストエフスキーへとつながる話でした。激情を感じるのを恐れて、黙過に陥るのは最悪で、熱くなったり冷たくなったり感情と想像力を働かせて生きようという宣言と感じました。

後半は、ロシアのアヴァンギャルド詩人、ヴェリミール・フレーブニコフにとってのカタストロフィ(すなわち日露戦争、特に日本海海戦)から話がはじまり、例の「創造のふるさとは未来に」について詳しく語ってくださいました。

例の、とは、以下のような事情です。

『ことばはボクらの音楽だ!』(榊原陽 (=ヒッポをはじめた人)著、明治書院)の217ページに、フレーブニコフの

〈 創造のふるさとは未来にある 〉
〈 そこから、ことばの神々が送りだす風がしずかに吹いてくる 〉

という、とても魅力的だけれど、すぐには理解できないことばが引用されています。山崎は、このことばに惹きつけられ続けています。

下は、今回の講座で紹介していただいた、フレーブニコフが「創造のふるさとは未来に」という発見をした時の文です。
(亀山先生のパワポから引用させていただきました。)

〈 『キリギリス』や『ボベオビ』や『笑いの呪文』の詩には、未来の結び目があった、火の神の小さな出口とその陽気な飛沫だ。古い詩がふいにかき曇り、その詩に隠されていた内容が今日という日になったと気づいたとき、ぼくは悟った。創造の故郷は、未来なのだ、と。そこから、言葉の神々の風が吹いてくるのだ。  〉

これの原文や、詩をロシア語で朗読してくださり、そのことばの意味するところを推測解説してくださいました。

たとえば、『キリギリス』の中にある、リビジーバという語。リービジ(ロシア語で「白鳥」)にジーバ(ロシア語で「奇跡」)をくっつけた造語。
今はわからなくても、未来の人はこの語に新たな具体的な意味を見だして使うかも知れない、と考える、という解説だったと思います。

山崎が連想したのは、卑近な例で、しかも未来ではなく過去のことです。

うちの娘が下宿して北海道に住んでいる時、うちで採れたビワを送りました。
食べた瞬間に、屋根からビワを採っていたあの時のあの場所の風が吹いた、と彼女は言いました。
(有名な(私は読めてないけど)プルーストの『失われた時を求めて』の紅茶とマドレーヌの話もこれと同じだと思います。)

この「ありあり」とした感じの感想を聞いただけで、山崎は驚きと喜びを確かに感じます。

フレーブニコフの場合、詩の音の響きが、ものすごく遠いところに感覚を連れて行って、その世界で自分が生きてるような感覚になるのじゃないか、と想像しました。自作の詩を読み直した時に「今起きていることを過去の自分が書いていた!」という驚くべき感覚を得たんだろうな、と思います。「ことば」っていう〈未来の結び目〉がスイッチで、そこが解かれるとさまざまな感覚が響いてしまう。
ことばでそういうことが起こるからこそ「詩人」なんだろうな、と思いました。

そして、山崎の極論は、「遠い」という感覚においては未来も過去も同じ、です。

先生の説明では「四次元的」というのがあり、あまりよくわからないな、とその時は思いましたが、なんとなく雰囲気を感じます。

人間の内部世界には「遠く」があるだけで、過去も未来もないのでは、という感覚。
あるいは過去と未来を分ける感覚をシャットダウンして、残る感覚。
過去や未来を分かるよりも、遠いを感じる方が進化の歴史で古い層にある感覚なのでは。
また、古いところを見ようとすると未来がのぞけてしまう?などと妄想を逞しくしてます。

きのう、メタバース(なかでもSpatial)を楽しんでいる友人が、Spatialの説明をしてくれたのですが、
ふとフレーブニコフが今に生きていたら、ものすごいバーチャル世界を作るかも、と思いました。
あらゆる言語がまざったりわかれたり、瞬間にある形をとって朗誦されてる場があったり、
植物そのもののように構造が成長する膨大な建築物とか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?