2022_0131_本読み

1月31日(月)は以下を読みました。

山崎
『しゃぼん玉 その黒い膜の秘密』立花太郎 著、中央公論社、1974年刊
6 水面上の薄膜
長鎖分子の形と配向 ラングミュアの研究

今日の最後の文

〈ラングミュアこそは、「糸と封蝋と紙ばさみ」だけで偉大な発見をなしとげた最後の科学者であったのかもしれない。〉

でした。挿図にある、構造式(元素記号から繋がる線のでてるもの)と具体的な説明図のイメージが一致して、ぱっと見でわかる、というのはそういうことなんだろうな、と思いました。

この時代以降、量子力学などで、もはや具体的な図は便宜的なもので、数式でしか理屈を理解できない、というような雰囲気になっていくのだな、などと思いました。



はやしさん
『からすのお菓子やさん』
加古里子 作、偕成社

シリーズの続編。こどもたちが成長して、自分の店をやる、という展開に。

最初の作が1973年だったのですが、これは2013年。40年後に書かれたけれども、違和感全然なしでした。

髪型だとか、食べ物だとか、着物だとか、細かいところがとても楽しいので、いくらでも眺めていられるこどもたちがいるだろうな、と思いました。




めいさん
『節英のすすめ』
木村護郎クリストフ 著、萬書房、
漢字の功罪
(3199〜3259/3674)

ヨーロッパの言語は隣接の言語がグラデーション的につながっているので、そのままでもかなり通じる面があることが著者のチェコ語、ソルブ語体験からも説明されていました。いっぽう日本と中国等で「漢字」は共通する文字なので、意志の疎通にとても役立ちます。

障害としては、同じ漢字が違う意味で用いられる場合もかなりあること、漢字文化圏でない日本語を学ぶ人にとっては、複雑で学ぶのに手間がかかる、という点。



きよもとさん
『俳句と地球物理 』寺田寅彦  著
Ⅳ 連句と音楽
俳句の精神 2、俳句の精神とその獲得の反応

俳句と和歌(短歌)を比較して、和歌は「主観」を表現するが俳句はあまりに短いのでそれを捨て「象徴」を表現することに絞り込んでいる、というようなことを言っていました。

1935年の文です。90年近く前なのに、すらすらと聞ける文であることに驚くきます。そして「日本人の特有の自然観」という言葉も、さらっと聞き流して違和感がないのです。実際はこの90年で、ものすごく「自然観」は変化してるはず、と思いますから、なにかと誤読してしまいそう、とも感じました。



山崎
『芭蕉連句集』岩波文庫、
二二 水仙は(春と龝)78〜80ページ

〈人のなさけをほたに柴かく〉

注に

〈ほた ー 材木を伐りとった木の根を掘り出したもの。榾(ほだ)のための柴をかき集める。〉

とあります。

まず「柴」すらよくわかっていませんでした。

「おじいさんは山へ柴刈りに」の「柴」はなんか細い枝がいっぱい、のイメージ。

それがなんなのかが、今ひとつ明解じゃないままにしていましたが、薪にしたり垣根を作ったり屋根を葺いたりするんですね。(山崎、無知すぎる。。。。)

注により、ほた、と、柴が関係あるのはわかるのですが、意味がやっぱりよくわからなくて、辞書を引きました。

辞書を引くという習慣が全く失われていたことに愕然としつつ。

新潮国語辞典現代語古語で「ほた」を見ると「火立て」とか「火枝」という語が挙げられていて、燃すための木ぎれ、のことでした。だから、人のなさけをエネルギーにして、柴刈りするという雰囲気かな、と思いました。

「丸太」と言う時の「た」と、「ほた」とか「ほだ」の「た」や「だ」は同じかな、と思いました。

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