『甦るフレーブニコフ』音読記録その17

〈 1661字 〉

『甦るフレーブニコフ』音読記録 は、
2020年末〜2021年初めにzoomで音読した毎回の感想を改めて書き出したものです。

著者の亀山郁夫先生のzoom講義(2022年12月4日(日)10時から12時、ヒッポファミリークラブ主催)がありますので、これを機会に、と思いアップしています。

12月4日までにアップし終わるように、2日分程度アップしていこうと思います。

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2021年1月30日(土)  第25章 運命の樹
「詩の終焉」
(537〜542ページ)

本文を読了しました。
まだ、あとがきと解説があります。

最終コーナーを回って、「フレーブニコフ」の意味を、亀山先生が熱く語りかけてくるので、山崎の頭もヒートアップしました。

理性でありながら激情のロングセンテンスを読むのも、もう終わりなんだなーと、惜しむ気持ちもすごくあります。

この期に及んで、ブリコラージュという言葉も出てきました(前にもどこかにはでてましたね)。

山崎は、自分の、いろいろ作る態度が正にブリコラージュ的だと思っているので、そのちっちゃな穴から、フレーブニコフの本体をかすかに垣間見て、わーっ!って思いでした。

多分、こういう魅力に吸い寄せらて、ここに来たんですね。

昨年末に、弟(大学のガテン系理系の先生)と会って、どういう流れか、大好きな、マルセルデュシャンの「自転車の車輪」って作品について、妙に熱く語ったんです。(今検索したら、これが最初の「レディメードの作品」なんですね!)

で、弟の反応が「んー、さっぱりわからん」。
そりゃそうだろうな、ってなんか自分の熱さがかわいいっていうか、あはは、って感じでした。

今日は、ちょっとそれと似た気分でした、あはは。

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節の題「詩の終焉」とは。
ここ、ブリコラージュもでてきて、もう一度読み直したいです。
フレーブニコフが構築した言語世界は、膨大な言語知識によるものですが、それは本から繋がっているものというより、旅によるリアルな体験から来て「手作業」によるものらしい。手作業。それがブリコラージュと繋がると言ってると思いました。ブリコラージュのもともとの意味は、たしか(しろうとの)大工仕事とか便利仕事。
(2022年12月2日追記)

2021年1月31日(日) 
あとがき
(611〜620ページ)

フレーブニコフ生誕100年の前年1984年に、モスクワ留学していた時の著者の体験と思いが書かれていました。(最近読んでいるのはこの10年後の留学の時のことです。2022年12月2日追記)

二つのことが印象に残りました。 一つは、まだソヴィエトだった国立中央文学美術資料館(略称ツガリ)での、フレーブニコフの直筆の解読や筆写。

そこで、筆者が受け取った感覚は、は、山崎の想像とはちょっとちがって、

〈無残な廃墟を眺めるときのような寒々として〉

直筆、は、いわゆるカリグラフィとか書道での文字とは違うんでしょう。(見せるための表現ではない、ということでしょうか?)

「ことば」といっても、音のことばをまねて声を出すのと、書かれたものを真似て写す、のとでは、とても違う行為だ、と、とあるオンライン講座を受けて思ったのを思い出しました。

ことば、ってなんだか「うらはら」感のあるものでもあるな、と思います。
もうひとつは、ロシアアヴァンギャルドの老研究者ハルジエフが

〈「これはフレーブニコフの地球だね。お持ちなさい。」〉

と、言って、テーブルにあったりんごを手渡してくれた、別れのシーンです。

〈1910年代から30年代までのアヴァンギャルドの時代へと完全に私を拉致した〉

というハルジエフと過ごした30時間、「託す」「託される」ことのできる、意識の共有が形成されたのでしょう。 りんごひとつで、地球(や宇宙)が言えてしまうような「りんご」の使い方が、詩的というのか言語的だなあ、と思いました。

意識が共有されていれば、どんなものでも「ことば」として成り立ってしまう。まるで現代美術のような、行為と感じました。

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