スウィッチ
またかと、彼はスウィッチを見つめたまま声にならないつぶやきをもらした。
消したはずのトイレの明かりが点いている。これで何度目だろうか。いちいち数えてはいないが、最近、スウィッチの切り忘れが増えた。
自宅の一階と二階にそれぞれトイレと風呂場、キッチンやリビングもある、いわゆる二世帯住宅の造りになっており、一階は彼の母親が使っていた。その母も三年前に亡くなった。しかし妻の晴美は一階の部屋を使おうとはしなかった。
夫婦に子供はいないので、二人きりのこの家で一階を使うのは彼だけだ。だからスウィッチを切り忘れたのは自分しかいない。
几帳面な性格でないのはわかっていた。でもこうも頻繁に、しかも何故か一階の照明だけを消し忘れるなんて変だと、彼は思った。
妻は残業でまだ帰っていない。だから彼女が消し忘れたという可能性もない。
俺たち以外に、誰かこの家にいるのかな。
まさか、ね。
そんなことを考えながら何気なくドアノブを握って開けようとしたら…開かなかった。ドアの外側には鍵はないので中から鍵がかかっているらしい。
「中に誰かいるのか?」
馬鹿馬鹿しいと思いながら、呼びかけた彼の声は緊張でかすれていた。
「…」
「晴美か?」
彼からの呼びかけに応えて、かすかに声が聞こえた気がした。女の声のようだ。思わず妻の名を口にしたのは自然の成り行きだろう。
「きみなのか?」
「そうです」
緊張していた体から力が抜けて行った。
残業と聞いていたが勘違いだったらしい。妻もいきなりドアを叩かれ、きっと驚いたに違いない。
「ごめん。残業だって聞いていたから、きみがいると思わなくて」
「今からそっちへ行きます」
ドアに背を向け、二階へ上がる階段を登ろうとして、彼はふと立ち止まった。
「…晴美?」
「今からそっちへ行きます」
なぜか背筋がゾクッとした。
そう言えばあの声、あれは本当に妻の声なのか?似てるがどこか違う。そう思い込んでいただけじゃないのか?
でも、もしも妻の晴美じゃないとしたら、いったい誰なんだ。
「今からそっちへ行きます」
また女の声が聞こえ、ガチャッと音がした。そしてトイレのドアがゆっくり開き始める。細い隙間から真っ暗な内部が覗いた。
その場に凍りついた重之を、わけのわからない恐怖が襲う。
いったい何が起きているんだ。俺の家で、いったい何が…。
「今からそっちへ行きます」
真っ暗な隙間に何か見えた。重之の喉がひぃっと鳴る。いきなり真後ろの玄関ドアが開いた。「ただいま」という妻の声。
「残業のつもりだったんだけどね。部長と、ほら、この前話した嫌味な上司…あなたどうしたの?」
「は、晴美」
「顔が真っ青だよ。嫌だ。もしかしてインフルエンザじゃないの?」
「き、きみは…」
「えっ?なに?」
妻の顔から目を逸らし、振り返ると、トイレのドアは閉まっていた。下の隙間から明かりが漏れている。
震える手でドアノブを握り、そうっと引っ張ってみる。今度は鍵は掛かっておらず、誰もいない。何も異常はない。
ドアを閉め、スウィッチを押して照明を消した。スウィッチはホタルスウィッチと呼ばれるタイプのもので、OFFになるとグリーンの小さなLEDが灯る。
「しばらく、上のトイレを使ってもいいかな」
「トイレ?」
「こっちのトイレがちょっと調子が悪くてね」
「別にいいけど。使ったらちゃんと明かりを消してね」
「えっ」
「こっちのトイレ、よく点けっぱなしになってるから。気づいたら消してるけど、あなたよくスウィッチを切り忘れるみたいだからね。ほら」
ほら、と言った妻の視線の先は、今切ったばかりのスウィッチだった。慌てて目をやるとグリーンのLEDが灯っていない。またトイレの照明が点いている。
もう一度、彼はスウィッチを押して照明を消した。最近、もの忘れが酷くなったようだ。
何だか寒気がした。
玄関ドアを改めると鍵が掛かっていなかった。しっかり施錠をしてから、ついさっきまでそこにいたはずの妻の姿が見えないことに気づいた。
…妻だって?
俺は何を考えてるんだ。
晴美は二年前に交通事故で死んだ。
死んだ人間がここにいるはずがないじゃないか。
二人とも残業で遅くなったあの日。帰宅途中にあるコンビニに寄った重之がタバコを買っていると、妻の晴美がスマホに電話してきた。自分も駅に着いたところで、重之がコンビニにいると知ると、これからそっちへ行くから一緒に帰ろうと言った。
しかし、いくら待っても晴美は来なかった。途中の交差点を渡っている時に、赤信号を無視して突っ込んできたトラックに跳ねられたのだ。即死だった。
今からそっちへ行きますという、妻の最期の言葉が、今でも耳に残っている。
まざまざと、さっき聞いたばかりような…。それに、今日はやけに家の中が薄暗く感じる。
ぼんやり立ち尽くしている彼のすぐ後ろで…声がした。
「今からそっちへ行きます。あなた」
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