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しあわせのかたまり with 眼差し - ロクデナシ

眼差し - ロクデナシ

 まだ半分しか覚醒していない耳に、かすかな、ギョリ、ギョリ、という音が聞こえた。小さな貝殻を擦り合わせるような静かな音だ。

 膝の上に落ちていた文庫本をテーブルに置き、麻結美あゆみは軽く背伸びをしてから立ちあがった。

 傾き始めた日差しのオレンジ色をした薄闇が入り込んだ部屋は、一瞬、景色が違って見え、自分の部屋ではない、どこかの全然知らない場所に見える。

 静かすぎるせいかもしれない。

 気晴らしに、途中まで読みかけだった恋愛小説を読み始め、数ページも行かないうちに、キッチンの椅子に腰掛けたまま眠り込んでしまったようだ。

 またさっきの、ギョリ、という音がした。その音の主は窓辺に置かれた鳥籠の中にいた。

「こゆきも居眠り中なのね」

 そっと近づいて優しく話しかけた相手は麻結美がこの部屋で一緒に暮らしているオスのボタンインコである。こゆきという名は、真っ白な羽色が雪を連想させたので小雪こゆきと名付けた。

 そのこゆきは、居眠りをしているとか、遊んでいる時以外で静かに寛いだ気分の時に、上下の嘴をこすり合せて、ギョリ、という音を立てた。だから彼がこの音を出しているということはリラックスして満ち足りている証拠である。

 先々週までは、こゆきの他にも同居人がいた。約一年同棲していた同い年の彼氏だったが、麻結美のアパートの部屋に転がり込んで来た時と同じように、その少ない荷物と共に唐突に出て行って、彼と暮らす前のこゆきと二人の生活に戻った。

 破局…といえば破局なのだが、そんなドラマチックなものじゃないと麻結美は思っている。

 たいして行く気もなかった高校の時の同窓会に何となく出席して、その二次会で同じクラスだった彼と何となく意気投合し、そのまま成り行きでホテルへ行った。

 そしてどこが始まりなのか分からないうちに、いつのまにか恋人同士になり、お互いの仕事が休みの日にデートをしたりキスをしたり、一緒に住むようになってからは、麻結美の狭いベッドの上で昼間から裸で抱き合ったり。しかしそんな何の進展もない恋は、いつかデートの最中に見た砂で作ったアート作品のように、サラサラとゆっくりゆっくり崩れて、気づかないうちに跡形もなく消えていた。

 一緒に住む理由が消え失せてからも、しばらくの間、彼はこの部屋でグズグズしていた。しかし、愛情があろうと無かろうと、夕食後の歯磨きみたいに習慣になってしまったセックスのあとに、何気なく麻結美が口にした「いつまでここにいるの」という言葉によって二人とも魔法が解けたように我に返り、すべてはずっと前に終わっていたことに遅ればせながら気がついた。

 まるで居眠りしている間に映画の本編が終わり、エンドロールが流れ始めてからやっと目が覚めた時のように。

 だから彼が出て行く時も、惜別の涙や感動的な台詞はなかった。「さようなら」も今さらな気がしたから、彼が場違いな感じで「じゃあ」と手を上げ、麻結美が「うん」と答えただけでお終いだった。

 ドアが閉まってジ・エンド。感動の拍手は無し。

 失恋の痛みなんてこれっぽっちも感じなかった。痛みは無かったが、彼が出て行ったことはある後遺症を麻結美に残した。何もやる気が起きないのだ。昼間の仕事中は以前と何も変わらない。でも自分の部屋に帰ってきたとたんに体がだるくなり、気力がどこかへ行ってしまう。

 日曜日には部屋から出なくなった。今日もそうだ。せっかくのよく晴れた休日なのに、いつまでもグズグズとベッドの上で毛布にくるまり、十時を回ってからやっと起き上がる。

 そしてぼうっとしたまま部屋着に着替え、昨日の残り物で適当に遅い朝食を済ませてからダラダラと洗濯を終わらせると、すでにお昼近い時刻になっている。どこかへ出掛ける気も何をする気も起きなかった。

 彼が居なくなり、一人になった麻結美の話し相手はインコのこゆき。

 三年前、生まれたばかりのまだ毛も生えていないピンク色の小さなヒナから育てた。だから手乗りどころか手の中で寝てしまうほど麻結美に慣れて心を許している。

 でもそれは麻結美に対してだけ。ボタンインコはとても賢く、人を識別するので、彼に対してはいつまで経っても懐かなかった。迂闊に手を出すと噛まれた。

「俺に焼きもち焼いているのかな」
「さあ。こゆきに聞いてみようか」
「聞くって、インコに言葉なんて分からないだろう」
「そんなことないよ。ねえ、こゆき」

 彼と交わした他愛のない会話。思い出と呼ぶにはあまりにも儚い朧げな記憶。

 またギョリっと音がした。見るとこゆきが薄く目を閉じて嘴をもぐもぐさせている。また微睡んでいるようだ。

 …なんだか幸せそう。

 こゆきが作り出す小さなギョリっという音を聞くと、いつも平和で優しい気持ちになる。

 鳥かごの扉をそっと開け、フワッと膨らんだ小さな体に触れた。それは夢のように柔らかくて温かで、麻結美は、何だか幸せのかたまりみたいだと思った。

 小さな幸せがフワッと集まった、小さな小さな温かいかたまり。

 優しく手の中に包み込んでみると、その幸せがじんわり流れ込んでくるような気がした。


𝑭𝒊𝒏

♦︎【大人Love†文庫】星野藍月


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