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暇の時間を楽しむための鍛錬

僕は漫画が好きで、そこそこ読むのですが、アニメやドラマなどが少し苦手というか、箸(?)があまり進まないタチなんです。
おそらく、漫画は読むスピードやタイミングの自由度が高いに対して、動画であるアニメやドラマは進む速度が決められているので、それがまどろっこしく感じるのかなと自己理解をしています。

そうなるとゲームはどうかというと、これまたあまり得意ではない。
ゲームにあまりのめり込めないのは、単純に飽き性で、「やり込み」ということが苦手なのと、たとえばRPGなどで移動したりする時間が苦手だからだと思っています。
それでも時々ハマるゲームがあり、現在は今更ながらゼルダのブレスオブザワイルド(BotW)にハマっています。

全然楽しめなかった1回目のBotW

実はBotWをプレイするのは2回目の試み。
1回目は当時付き合ってた人と別れて、そこそこ凹んでるタイミングの年末年始の時でした。友人たちがあらかた帰省しており、諸事情で東京に残っていた僕はやることが見つからず手持ち無沙汰な状態にあり、何もしてないと凄く悶々としてしまうため、暇つぶしとしてBotWに手を出していました。(後述する内容と合わせると退屈つぶしですか)

BotWはご存知の通りいわゆるオープンワールド系のゲームで、広大なフィールド内の山や大地のどこでも行くことができる。むしろ、広大なフィールドの各地点に自分の足で(途中からは馬で)行かなければならない。
先述の通り、色々あって凹んでるタイミングだったので、この移動時間が苦痛で仕方なかった。移動時間の最中は結局悶々としてしまうので。
何か効率的にプレイしてスキマ時間を埋めねばと思い、ググりながらプレイして進めた結果、ゲーム内の様々なアクションがただの作業と化してしまい、果たして飽きてしまったのです。

まぁ思い返すと下手な遊び方をしたなと思っています。しかしBotWをハマり続けられる人はひたすらプレイすることができるらしい。いろんな山を登ったり、ミニゲーム系をひたすら見つけてやり込んでいったり。数百時間をその世界の中で過ごせると聞く。その違いは一体何なのか、というかなんでそんなにも無為に時間が過ごせる人がいるのか、自分との違いがよく分かってませんでした。

暇と退屈の倫理学
暇を享受できない現代人こと僕

時がたち、ある機会にその辺りの理解が進む機会がありました。
それは、國分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」を読んだときなのですが、簡単にその本の論旨を説明します。

この本は「暇」と「退屈」とを分けた上で、それぞれについて解説をしています。
元来、人間は「暇な時間(=余暇)」楽しんでいた。例えば歌を歌ったり、絵を描いたり、ボーッとしたり、貴族は兎狩りに行ったり、など。特に生産的でなく、意味を持たずとも、ゆるりとした時間の過ごし方を楽しむことができたのです。
しかし、産業革命を経た現代人は、過度に効率化された生活の中で、暇な時間を楽しむことが出来ず、何もしていない時間を「退屈な時間(=苦痛な空白の時間)」と感じるようになってしまった。
何かをしなければならないと、駆り立てられるようにレジャーに行ったりして、何かをしたという意味を時間に持たせようとしてしまう。そして、何もせずに退屈だと感じると、苦痛を覚えてしまう。
そうではなく、暇な時間を楽しむべきなのだ。しかし、暇な時間を楽しむのはある意味高度なことで、楽しむための感性を育てなければならない。現代人はその事に気づくべきなのである。

すごくざっくりと言うと、こうした内容を、「退屈な時間」をいくつかの種類に分解し、その根本を解明しながら論述している本です。

この本を読んだのは、激務に追われ続けていた前職時代のことで、まさしく土日の退屈な時間から逃れるように、誰かと予定を作り、深夜まで酒を飲む日々を過ごしていた時期のこと。狂ったように働く平日に失ったものを取り戻すかのように、何かをしたという意味を土日に持たせなければならない。そんな思いに取り憑かれていた自分に、この本が
「君は暇な時間を楽しむことができない人だね」と語りかけているように感じました。

ああ、ゲームの中すら退屈だったんだ

BotWから暇と退屈の倫理学の話に急に話が転換しましたが、何を言いたかったか。
僕は当時、BotWの世界の中でも暇を享受することができず、ゲーム内のストーリーをタスク化し、効率的にこなす事で退屈の感覚から逃げ続けていた。しかし結果として、広大な世界の中を移動する時間に退屈を見出し、ゲームをすることが苦痛な作業に変わってしまった。
それが1回目のBotWにハマれなかった失敗の根本にあると気がついた、ということです。
ちなみに、暇と退屈の倫理学の中で、人がなぜ退屈な時間を苦痛に覚えるかというと、過去に受けた心の傷が突然立ち現れ、精神を蝕むからと説明されています。ド凹み中で生々しい生傷を抱えている最中に、暇を楽しむことの出来ない人間が広大なオープンワールドの中に放り出され(自分から入っているわけですが)、ひたすら退屈を感じていたのですから、タイミングと相性が最悪だったのです。

現在、何はともあれ、2回目のBotWのトライを行っています。
今のところ、海岸線の探索とか、馬を捕まえることとか、メインストーリー以外のことを楽しめており、数年前の自分と比べて、暇を楽しめるようになったなと感じています。(とはいえ、ゲームしてるんですけどね)
この変化は、転職によって自分時間が増加したこと、特にコロナ初期のStay homeで暇な時間を享受する機会の増加とその正当性の獲得したこと、そして暇な時間の過ごし方を心得ていた同居人(現嫁&飼い猫達)の登場などによるものかと思っています。

VACANCEとVACANCY

そうそう、なぜこのことを書こうかと思ったかというと、友人のトミー(冨手公嘉)が「VACANCE/ VACANCY」というプロジェクトをやっていて、その展示を昨日見に行ったことがきっかけです。
彼がベルリンに移住した直後にパンデミックが起こり、異国の地でstay homeを余儀なくされ、その時に得た暇(= vacance)と空虚(= vacancy)がインスピレーションとなり、二つの語源を共にする言葉を組み合わせた造語をタイトルとしてるようです。

VACANCE/VACANCY展
2/20までやってます

写真と日記という、時間を切り取る二つの装置によるプロジェクトの展示なのですが、これを見ることで、改めて「時間ってわざわざ意味を持たせなくても、そもそもが豊かなものなんだな」と感じさせられました。
明日、トミーとランチするし、彼なりの暇と退屈の捉え方や楽しみ方を聞いてみるのも面白そうだな、と楽しみです。

「VACANCE/ VACANCY」の展示は2/20(Sun)まで下北沢と東北沢の間の線路跡地 reload 内でやってるので是非行ってみて、話してみてください。

ちなみに、暇と退屈の倫理学の筆者の國分功一郎氏と会う機会があり、本を読んで自分の時間の過ごし方について再考させられた旨を伝えると、
「暇を楽しむ1番は旨い料理とセックスです」
と断言され、プリミティブな欲求は一番強いんだなぁと思いつつ笑ってしまった、というお話。

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