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アルベール・カミュの『ペスト』とダニエル・デフォーの『ペスト年代記』を読んでみた 1

いまさらながら、アルベール・カミュの『ペスト』とダニエル・デフォーの『ペスト年代記』を読んでみた。

ペストと新型コロナウイルス(COVID-19)はどちらもパンデミック(地域や国の枠をこえた大規模な流行)を引き起こす動物由来の感染症ではあるのだが、病気としては相違点の方が多いかもしれない。

致死率は、黒死病とも呼ばれたペストの方が圧倒的に高いし、感染の宿主はネズミで、人間同士の飛沫感染はあるものの、多くはペットやノミが媒介する。

とはいえ、そういう大規模な感染症に対する人間の反応の方は、非常に共通点が多い。

というか、文明や医学には進歩や発展という概念がありうるが、人間そのもの、あるいは人の心というものは昔も今もそう変わってはいないのだということを、この二つの作品を読むことで再認識させられる。

まず読んだ本について、

カミュの『ペスト』(La Peste)

一九七二年に新潮社から発行されたカミュ全集第4巻(宮崎嶺雄訳)。
これは手元にあった本。
印象的な黒色のカバーの縁はぼろぼろ。これはこちらの保管状態がお粗末(積ん読状態)だったための単なる経年劣化。

アルベール・カミュ(1913年~1960年)はフランスの作家。
『異邦人』や『ペスト』、『転落』などの小説があり、四十四歳でノーベル文学賞を受賞したが、その三年後に交通事故死した。
『ペスト』は、自分の出身地でもあるフランス領アルジェリア(アフリカ)の都市オランが舞台になっている。

アルベール・カミュの『ペスト』

冒頭に、デフォーの次の言葉がエピグラフとして引用されている。

ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって説明することと同じくらいに、理にかなったことである。          ダニエル・デフォー

ダニエル・デフォーカミュといえば不条理という言葉が反射的に思い浮かぶが、『ペスト』はある種の不条理を象徴的に描こうとした作品とされている。

不条理とは、何も悪いことをしていない人間に不意に感染症による死という理不尽でどうしようもない厄災がふりかかってくる、というような状況を指す。

罪となるようなことをせず平穏に暮らしている人々に突如として死や別離が訪れる――それも一人の人間ではなく、一つの都市全体に。

物語の舞台は、地中海に面したアフリカ北部のアルジェリアのオランという県庁所在地で、ときは「一九四*年」。

この物語の概略については、いろいろなところで語られてもいるので、ここでは本文を引用する形で進めたい。

物語は、

四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診療室から出かけようとして、階段口のまんなかで、一匹の死んだ鼠につまずいた。

という描写から始まる。

ネズミの死骸が異常に多く、やがてそれに関連して病気になったり死亡したりする人間が急増することで、都市全体が一種のパニックに襲われ、閉鎖された都市空間で疫病が猛威を振るうという、救いようのない状況が展開する。

医者たちがめいめい二、三件以上の症例を知らないでいた間は、誰も動きだそうと考えるものはなかった。しかし、要するに、誰かが合計を出すことを思いつきさえすればよかったのである。合計は驚倒すべきものであった。わずか数日の間に、死亡例は累増し、この奇怪な病を手がけている人々にとっては、それが紛れもない流行病であることは明白となった。

この奇怪な流行病、「チフス性の熱病」について、医師リウーによる記録という形で、オランという地中海に面したフランス領のアフリカの都市にふりかかった災難が、きわめて具体的に、きわめて即物的に語られていく。

修飾語句が過剰な文学的表現は見られない。
まあ、これはカミュの文章には共通する特徴だが、この場合は特に物語の内容にもふさわしい。

淡々と、しかし、否応なく、破滅へと向かう日常が述べられていく。

こんな具合だ。

拾い集められる齧歯獣の数は増加する一方で、 (中略) 四日目からは、鼠は外へ出て群れをなして死にはじめた。隠れ家から、地下室から、穴倉から、下水から、よろめく長い列をなして上がって来て、明るい光線のなかでひょろつき、きりきり舞いをし、そして人間どものそばで死んで行くのであった。

病人も増えてくる。治療に当たる医師は

まる膿瘍を切開する必要がある――それは明瞭であった。メスで二すじ十文字に切ると、リンパ腺からは血のまじったどろどろの汁が流れ出た。患者たちはからだじゅう傷口だらけになって、出血していた。(中略)大部分の場合、患者はすさまじい悪臭のなかで死んで行くのであった。

小説の仕掛けとしては、

医師リウーには病気の妻がいる。
彼が鼠につまづくシーンは、彼女が転地療養のため市外に出発する前日に設定されている。また、妻が市を出るのと入れ替わりに、医師の老母が息子の面倒をみるためにやってくる。
やがて、深刻な感染症対策のため、オラン市全体が閉鎖されてしまう。
外部との往来や連絡が物理的に遮断される。
一つの都市まるごとのロックダウンという極限状況が作り出される。

とまあ、こういう設定である。

他の重要な登場人物としては、タルーという氏素性のわからない謎の人物がいる。
この人の手帳に書き留められたメモで、医師リウーの体験が補足されていく。

その手帳によれば、医師リウーは

一見三十五歳ぐらい。中背。がっしりした肩つき。ほとんど長方形の顔。まっすぐな暗い目つき、しかし、顎は張っている。たくましい鼻は、形が整っている。ごく短く刈り込んだ、黒い頭髪。口は弓状をなし、その唇は厚く盛り上がり、、、

と、すこぶる具体的だ。

また、新聞記者のレイモン・ランベールも主要な登場人物の一人だ。
パリの大新聞のためにアラビア人の生活条件について調査をする目的でオランに派遣されてきたところで、ペストが発生してしまう。

医学的な分析によって流行病がペストと認められた段階で、植民地総督府から命令が発せられる。

「ペストチクタルコトヲセンゲンシ シヲヘイサセヨ」
(ペスト地区たることを宣言し、市を閉鎖せよ)

いわゆるロックダウンである。市街を取り囲む門が閉ざされ、外部との自由な行き来が禁止される。
そこで市の内と外で別れ別れになる人々が出てくる。病の妻を送り出した医師リウーもそうであるし、赴任してまもない新聞記者のランベールもそうだ。

市門の閉鎖の最も顕著な結果の一つは、事実、そんなつもりのまったくなかった人々が突如別離の状態に置かれたことであった。母親と子供たち、夫婦、恋人同士など(中略)一挙にして救うすべもなく引き離され、相見ることも、また文通することもできなくなったのである。

パリに恋人がいる若いランベールはなんとか市外に脱出しようと試みる。

「とにかく、僕はこの町から出ていきますよ」
「……公共の福祉ってものは一人一人の幸福によって作られてるんですからね」

しかし、あれこれ試みても合法的な手段では町から出られない。で、ある組織を利用して闇ルートで脱出をはかろうと画策する。

こうした人物たちに加えて、神父との宗教問答もあれば、ジョゼフ・グランという日給六十二フラン三十の市臨時補助吏員の活躍もある。市庁の小役人の動きが若い新聞記者ランベールの行動に影響を与えたりもする。

疫病の流行で重要になるのが治療法である。
この場合に決め手とされるのは血清で、ペストの治療に効果がある可能性がある、という。

事実上、それはリウーの最後の希望であった。万一これもまた失敗に終わった場合には、市(まち)は病の気紛れのままに、病禍がまだ延々数カ月にわたってその威力を継続するか、あるいは、なんの理由もなく終息する気になるか、そのなすままに任せられるであろうことを、リウーは確信させられていたのである。

コロナウイルスにとってのワクチンのようなものか。

血清のおかげか否かはともかく、この流行病は、しかし、到来したときと同じように、はっきりした理由もなく消えていく。

医師リウーの妻は市の閉鎖がとかれる前に療養先で息を引き取る。医師リウーに電報が届いて彼が妻の死を知るのはその八日後だ。

この物語にカタルシスを解消する大団円というものはない。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。

そして、

幸福だった季節のその銅色の輝きは失われてしまった。ペストの日ざしは、あらゆる色彩を消し、あらゆる喜びを追い払ってしまったのである。

最後に、医師ベルナール・リウーがこの物語の作者であることを告白する。
そうして、次の文章で物語がとじられる。

しかし、彼はそれにしてもこの記録が決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた (中略) そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼び覚まし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。

次回はダニエル・デフォーの『ペスト年代記』

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