見出し画像

【こんな映画でした】22.[バージニア・ウルフなんかこわくない]

2022年 1月27日 (木曜) [バージニア・ウルフなんかこわくない](1966年 WHO'S AFRAID OF VIRGINIA WOOLF? アメリカ 132分)

 マイク・ニコルズ監督作品。何とも凄まじい映画というか、戯曲というか内容であった。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンのやりとりが、鬼気迫るものがある。それもそのはずで、この映画はある種の狂気を描いているのだから。

 エリザベス・テイラー(撮影当時34歳)が怖いほどの迫力を見せる。すれっからしの下品さを演じている(あと、解説によるとアル中という設定)。もちろん彼女は大学の学長の娘ということで大学も出ており、教養もあるはずなのだが、もはや人間として崩壊しているようだ。その原因は見込み違いの夫のせいになっているが、どうだろう。

 なるほどこんな内容だったのか、と。その会話のスピーディーな展開は息を詰めて見守るばかりだ。息も付かせぬというものだろうか。次から次へと連鎖していく会話。いや果たしてそれが対話や会話になっていると言えるかどうか、フッと疑問を覚えさせられる内容の展開なのだが。舞台劇というだけあって、一気に最初から最後まで観させてしまう力がある。

 人間の狂気、それは一般的に誰もが潜在的に持っているものもあれば、かなり特殊なレアケースとして出てくる狂気もあるだろう。ここでのそれは時間とともに、観ているとどんどんエスカレートしていく。

 先日観たばかりの[まぼろしの市街戦]同様、狂気というものについて考えさせられる。彼ら夫婦は果たして本当の狂気であったのかどうか。それは演技ではなかったか。毎日のように彼らはその狂気のぶつけ合い・傷つけ合いをゲームのように楽しんでいたのではないか。もちろん真の目的は違う。彼らも本当は二人の結婚生活の幸せを願っているのは間違いないだろう、しかし。

 その夜(というかこの映画はほんの数時間の出来事)、招かれた若夫婦たちは、その恰好の道具として利用されただけではないか。最後にその夫の方がそのこと、つまりこの夫婦のゲームに利用されていたことに気が付いたような気がする。

 ほとんど四人だけの演技の連続。若夫婦はサンディ・デニス(撮影当時29歳、[私の中のもうひとりの私](1989)で観ているようだ)とジョージ・シーガル(撮影当時32歳、初めて)。からみ方もこの四人の組みあわせを様々に変えてある。それぞれの組みあわせでの会話がある。工夫がされている。

 この夫婦はこのようにいわゆる夫婦喧嘩を毎日のようにすることで、彼ら自身がお互いに必要な存在であることを確認しているのかもしれない。時に他の人々巻き込んで。

 作中、マーサが言う。「現実が耐えられなくなると、人は狂気に逃げ込む。強がらないで。あんたも普通の人間よ。」とか「私は母なる大地。男は皆、出来損ない。(と言いながらも)我ながら嫌な女」。

 時間をおいて、また観たい。おそらく観るたびに何かを発見することとなろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?