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【こんな映画でした】28.[沈黙 -サイレンス-]

2017年 2月 6日 (月曜) [沈黙 -サイレンス-](2016年 SILENCE 162分 アメリカ/イタリア/メキシコ)

 マーティン・スコセッシ監督作品。分かったような気がした、「沈黙」の意味。神はなぜ沈黙したままなのか、という問いかけを私自身もずっと持ち続けてきていた。原作、遠藤周作の『沈黙』、そして大昔に観た篠田正浩監督の映画([沈黙 SILENCE](1971年 130分 日本))を通して。

 まず端的に言えば、神も仏もみんな「沈黙」したままなのだ。私たちに聞こえるようには語りかけてこない。またスーパーマンのように飛んできて助けてくれたりもしない。ひたすら、沈黙あるのみ。一体それは、どういうことなのか?

 あらためて考えてみよう、最後のことを。すなわち、決断を下すのは誰か? 行動するのは誰か? 、と。それは、今まさに生きて、困難に直面している私たち自身なのだ。

 それを私たちに分かりよくするために、「踏絵」のなかの神はロドリゴに話しかけるという形を取る。言うまでもなくそれは、実は「神の声」ではなく、ロドリゴ自身の思考が言葉となったものである。その心の中での(頭の中での)プロセス・やりとりが、「神の声」であり、「ロドリゴの問い掛け」でありするのだ。そのやりとりの結果として、最終的な彼の決断と行動が出てくる。

 これを指して、神は「沈黙」したままではなかった、きちんと彼に話しかけ、伝えたのだ、という解釈ができることになる。彼の行動の結果からすれば、神は決して何もしなかったわけではない。つまり「沈黙」はしてなかったということになるのだ。そしてその彼の決断と行動は、それで良いものであり、それで正しいものだと言えるのだ。

 現実の問題として、実行力のある救済者が現れて、危難に遭っている農民たちを救い出す、というのは夢想でしかない。しかし、人々はそれを希求する。それが人間というものだろう。だから「なぜ神は沈黙したままで、私たちを救ってくれないのか」という思いが生じるのだ。

 当時のいわゆる隠れキリシタンとなっていく人たちが、どこまで本当のところのキリスト教について理解していたか、というのが問題視されていた。確かにその通りで、司祭たちにすれば彼らの考える純粋な(?)キリスト教神学というものを、おそらく農民たちは理解してなかっただろう。あるいは、言い方を変えれば日本的な形に読み替えて理解し、信仰していたのではないか。

 であるなら、どうしても斯くまでも踏絵を踏むことをためらったのか。「踏絵」はあくまでも作られたモノに過ぎない。それを踏まないことが信仰の証だと考えるのは、間違った思い込みではないか。

 さて俳優だが、ロドリゴ役はアンドリュー・ガーフィールド([わたしを離さないで]で観ていた)。通訳の浅野忠信、キチジロー役の窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、加瀬亮、片桐はいりくらいまでは分かった。

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