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【こんな映画でした】391.[フル・モンティ]

2021年 8月 9日 (月曜) [フル・モンティ](THE FULL MONTY 92分 イギリス 1997年)

 2010年11月17日 (水曜)に観たもの。今回はブルーレイディスクで。ピーター・カッタネオ監督作品。初めて。父親役はロバート・カーライル、撮影当時35歳。この映画で初めて観る俳優。息子はウィリアム・スネイプ、撮影当時11歳。二度目になるが、やはりこの子役が良い。

 「Full Monty」とは、俗語のようで「全部、一切、何もかも」ということから、「フルチン、スッポンポン、素っ裸」という意味になるそうだ。語源は「full amount」とイギリスのコメディ・グループ「Monty Python」のMontyをかけあわせた表現」とのこと。

 このストリップ・ショーを行うに至った理由は、彼らの失業という経済苦によるものだ。オープニングシーンで彼らの街シェフィールドの25年前の繁栄の記録フィルム(?)が映される。鉄鋼業で栄えていたことを誇っている。

 彼らは馘首された元鉄鋼マンたちで、当然のことながらイギリスにおける下層階級(労働者階級)である。職を求めて職安通いで、日々暇を持て余している。デイヴが妻に言う。暇つぶしは結構疲れるのだ、と。その通りだろう。

 そんな中での一発逆転とはいかないが、何かこれといったことをやり、そしてお金も儲けたいというところからスタートすることに。紆余曲折があって、ハラハラさせながら大団円のフルモンティまで持っていく。そのラストシーンを飾るダンスの曲は、トム・ジョーンズの「帽子をとらないで」(Don't leave your hat on . だったか)。

 このストリップといい、裸になるということの文化的な意味合いはどういうところにあるのか。そんなことを今回は考えさせられた。単に男性の裸の姿に、娯楽に飢えている(?)女性たちが熱狂するというものなのかどうか。

 裸になるのは、おそらく宗教的・道徳的にはノーであり、タブーであろう。それを敢えて実行するところに、表面的な娯楽性とは別の何かがあるはずだ。服という虚飾(地位や名誉がからむ)を排して、人間そのもの・人物そのものを見てもらいたいという願いの発露なのかもしれない。

 虚飾にまみれた自分という人間から、自らを解放するという作業なのかもしれない。だとしたらこの行動は誰にとっても必要な重要な事だということだ。だから息子ネイサンも常のその場にいて、大人たちの行動を見ているのかもしれない。

 この映画の中でのネイサンの存在は大事だ。大人たちだけだったら、それらは陰気な陰湿な、そしてもしかしたら猥褻な行為でしかなかったかもしれない。それを常にネイサンにそこに居させて、音楽係をさせて見させることで、私たちも安心して(?)観ることができるのだろう。

 前回の感想は以下の通り。
 2010年11月17日 (水曜) [フル・モンティ](THE FULL MONTY 93分 イギリス 1997年)

 イギリス映画らしいイギリス映画。最後のストリップシーンは、私にとっては懐かしいトム・ジョーンズの歌声に乗ってのものだった。欧米社会はたとえ失業しても職の流動性が高いので、日本ほど深刻ではないとの情報があったが、現実はなかなかそうはいかないようだ。やはり深刻だ。意外と救いがないのに驚いた次第。いずこの国も労働者にはきついということだ。

 一夜だけのショーのあと、彼らがどうなっていたのやら、気にかかるところだ。それはともかくこの映画でも子役が良い。主人公の息子であるが、彼が狂言回しとなっている。離婚した父親への愛情も十分感じられ好感が持てた。

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