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【こんな映画でした】70.[太陽がいっぱい]

2010年 8月21日 (土曜) [太陽がいっぱい](PLEIN SOLEIL 122分 フランス/イタリア 1960年)

 こんなにも悲しい映画であったとは!
 ラストシーン、ヨットの碇を巻き上げていくシーンは意外と短いカットだった。記憶のなかではもっと長いと思っていたのだが。その時、彼はビーチで酒を飲みながら太陽がいっぱいだ、というわけである。このシーンはたしかに印象的・象徴的だ。

 大体、映画というのは貧しい人たちだけではなかなか成立しない。やはりとんでもない金持ちやらパトロンやらがいないと話が作りにくい。そんな中で、この作品は金持ちと貧しい青年とを対比させる。青年(アラン・ドロン)の深謀遠慮はとうとう実現せず、そこはかとない哀しみの残る映画であった。

 ニーノ・ロータの音楽はとてもいいのだが、映画のなかではあのメロディが流れている時間は、これまた意外に短かった。



2022年 4月23日 (土曜) [太陽がいっぱい](PLEIN SOLEIL 119分 フランス/イタリア 1960年)

 原題は「いっぱいの日差し」とか「いっぱいの太陽」といった意味になるか。最初に観たのがいつなのかは記憶にない。観てるかもしれないが、観てないかもしれない。音楽があまりに有名なので、すっかりその気になってしまってたのかもしれない。

 ルネ・クレマン監督作品。アラン・ドロン(撮影当時23歳)、モーリス・ロネ(撮影当時30歳)、マルク・ラフォレ(撮影当時20歳)の三人がメインキャスト。

 見終わってというか、観ている最中も、もう切なくて辛くて観ているのが苦痛であった。以前、観た時はそこまでは思わなかったかもしれない。本当に悲しい映画である。それは私がリプリーに感情移入しているからだろう。

 ラストシーンは本人もそんなこととは気づかずに、電話だと呼び出され、立ち上がって画面左へ歩いていく。カメラは一旦、彼を追いかけて左へパンするが、背景に海と山とヨットと浜辺に打ち寄せる波がぴったり入ったところで、彼を追うのを止める。

 ストップモーションではないが、その数十秒のショットで映画は終わる。フェイドアウトしたもあと1分くらいテーマ音楽を流している。ニノ・ロータの音楽は見事だ。よく表現していると思う。ただ、そのあまりにも強烈な印象を聴いた瞬間にもたらすインパクトの強いものであったせいであろう、監督は本編にはほとんどこのテーマ音楽を使っていない。断片的であったり、変奏であったり、と。

 どころか他のシーンでも、他の映画のようには音楽を入れてない。本当に音楽の少ない映画の一つだろう。最後の最後、マージュと抱き合い、着替えて海岸に出て行くところまでで、初めてテーマ音楽を長く流している。それすらフィリップの父親の来訪で中断されてしまうのだ。欲求不満になるくらい音楽は禁欲的に、そして効果的に使われている。

 映画[リプリー]の方は、彼の内面をかなり詳しく言葉としても追求しているが、こちらは自らの内面を吐露することはない。彼は何も考えてないかのようだが、すべて彼の身ぶり・態度・行動でそれを表現しているということだろう。アラン・ドロンが何気なくナポリの町中を、露店の出ているところを徘徊するシーンもなかなかなものだ。

 フィリップに関しては、どちらも結構、嫌味な金持ちとして描いてある。いずれもリプリーが屈辱を感じざるを得ないくらいの、ひどいものである。
フィリップに対する殺し方は、場所はもちろんいずれもヨット上。[リプリー]ではオールによる撲殺で、こちらはナイフで一刺し。死体の発見は、[リプリー]では見せない。刑事による口頭の説明だけ。ボートが沈められた、と。[太陽がいっぱい]の方は言うまでもなくあの有名なラストシーンである。マージュがロープに引っ張られて海面から上がってきた黒いシートにくるまれた物体を見、そこに手首だけが覗いているのに気が付いた彼女の悲鳴が響きわたることに。

 DVDに入っていたブックレットの解説によると、ハイスミスはこの海から引き上げられてくる死体、というのには不快感を持っていたらしい。ということは原作とは違う結末だということ。というか、さらに言うならこの「リプリーもの」は続編が出版されているらしいので、そうなるとやはりリプリーは捕まらなかったのだし。

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