見出し画像

【こんな映画でした】387.[カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~]

2022年 7月29日 (金曜) [カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~](2003年 CASA DE LOS BABYS アメリカ/メキシコ 95分)

 ジョン・セイルズ監督作品。先日観た[最果ての地](1999年 LIMBO アメリカ 127分)に続き二本目となる。そこで子役で出ていたヴァネッサ・マルティネスも起用されている(アスンシオン役)。撮影当時23歳だが、幼く見える。ホテルのメイド役で、4歳になる子どもを育てられないので養子に出したという設定。さら妹弟の世話をしているメキシコ人女性役。しかし彼女は主役ではない。6人の女性が主人公の映画なのである。

 原題の「CASA DE LOS BABYS」とは、まさしく「赤ちゃんたちの家」という意味のようである。だからオープニングシーンは延々とベッドで横になっている赤ちゃんを映していく。まだそれが何を意味するのかは分からない。

 場所はメキシコのどこかの町。時代はまさに現代だろう。その一画にあるホテルに、アメリカからやって来たと思われる女性が六人宿泊している。リゾートに来ているにしては、彼女たちは皆一人である。ようやく分かってくるのだが、実は彼女たちはメキシコで赤ちゃんをもらうためにやって来、このホテルで滞在しているのだ。つまり赤ちゃんが斡旋されるのを待っている。

 既に2カ月余りが過ぎているようだが、まだ手続きが終わらないのか、赤ちゃんを受け取ることができない。仕方がないので彼女たち六人は、思い思いに時間を過ごしている。みんなとの相性が悪く孤立している女性もいる。お金持ち風の女性もいれば、かなりシビアな人もいるようだ。

 そんなホテルでメイドとして働くのがヴァネッサ・マルティネスである。部屋の掃除の手を止めて、そっと窓から覗くと、何人もの子どもたちが遊んでいる。そんな中で一人の女の子だけがその輪に入れずにいる。その子を階上の窓からヴァネッサは見ている。と、彼女のアップになるとうっすら涙がこぼれているのだ。どうやらこの仲間はずれの女の子は、彼女の妹だろう。それは貧しさゆえなのだろうか。現地の女性の置かれた状況の一例であろう。

 小さな男の子たちも、自ら稼ぐために車の窓ふきをしたり、かっぱらいを(しかけるが、失敗するシーンがあった)したりと、なかなかに苦労している。もちろん学校には行けず、字は読めない。そんな一人が六人組の女性の一人から本をもらうことに。しかし読めないので、それを売ろうとするのだが、子ども向けのヤギの本では売れるはずもない。貧しさの一端を描いている。

 貧しさは大人でもそうで、三人の子持ちの男性がそのホテルの支配人に掛け合って仕事を求めるのだが、断られる。あなたを雇えば他の人の給料を減らさなければならない、と。なおこの支配人の女性が何とリタ・モレノ(撮影当時70歳、そうあの[ウエスト・サイド物語]のアニタである)なのだ。彼はしかたなく立ち去り、あとでこの六人組の二人(ジェニファーとスキッパー)と出会うことに。

 彼女たち二人が、現地の人からガイドをさせろと、周りを取り囲まれているところを助けてやることに。つまり誰か一人をガイドとして雇えば、他の人たちは消えていくというわけである。そこから本職のガイドではない彼が二人を案内していく。その間の話(片言の英語である。それはアメリカ映画の字幕付きので勉強したと言っている)で、彼はもともと建築関係の仕事をしていたようだが、今は失業している。子どもはと聞かれ、三人いると答えていた。「学校は?」と問われると、行けるときだけ、と。いずれはフィラデルフィアに行きたい、と言う。あとのシーンで彼はなけなしのお金を持って、偽造パスポートを作ってくれる店に行くのだが、全額前払いでないとダメだと拒否され、諦めている。

 ともかく政治状況も不安定で、そのことはホテルの支配人の息子のエピソードで紹介している。つまり彼は政治にかぶれているわけだ。もちろん現体制に批判的である。母親とは当然合わない。母親から嫌なら刑務所に戻れと言われている。すると息子は、ナンシーの部屋214号室に火炎瓶を投げ込む、と。母親は激怒する。さらに息子は、赤ちゃんの「ヤンキー・帝国主義者」への売買を非難するが、対して母親はメキシコ人相手ならいいのか、と。なおこの母親の夫は若い女性とどこかへ行ってしまっているとのこと。とても幸せそうな顔はしていない。リタ・モレノは美人なのだが。

 もう一例分かりやすいエピソードが入れられている。セリアという15歳の少女が妊娠して(させられて)、カトリックだから中絶もできないのだろうが、生んで施設(赤ちゃんたちの家)に預け、養子に出すということに。その顛末を描く。なおその相手の男は学生で、ビーチで六人組の一人にもちょっかいを出している。その程度の男なので、セリアは何ら期待せず、別れを告げていくことになる。どことも男はダメなもんだと嘆息させられる。

 仕事中のヴァネッサがアイリーンとホテルの部屋で話すシーンがある。といってもスペイン語と英語なので通じない。つまりそれぞれが自分の思いを交互に勝手に話すだけなのだが。そこではアイリーンが養子をもらってからの将来の夢を語るのである。ヴァネッサにすれば何のことか分からない。で、自分のことを話す。もちろんアイリーンにはその意味は分からない。この言葉のすれ違い、生活環境の歴然たる差をさりげなく描いている。なお話の内容の一つに家族のことがあり、それぞれ「きょうだい」が何人いるかを言っている。アイリーンは9人、アスンシオンは6人、と。いずれも宗教がカトリックなので中絶どころか、避妊すらできないからだ。子だくさんで生活が苦しくなる。その例としてはホテルの屋根瓦を修繕していた男性に支配人相手に言わせている。子どもは8人。生活は苦しい、と。

 さて、肝心の六人組の女性たちだが、それぞれにいろいろな事情があるようだ。レズビアンの女性とか、夫は要らないが子どもだけは欲しい女性、夫との間が上手くいっていず養子をかすがいにしようと思っている女性、等々六通りの人生模様である。

 ラストシーンは、六人のうち二人が呼び出されて赤ちゃんを受け取りに行くところ。どういう理由でその順番が決まるのかはとうとう分からないまま。で、気が付かされたのは、この二人のうちナンシーという中年女性はホテルでもクレイマー、この二ヶ月余りで部屋を三回変えさせているということで、女支配人も宿泊をさらに長くして稼ぐのもそろそろ限界とばかりに手を打ったようだ。つまりこの支配人の兄がナンシーへの赤ちゃん斡旋担当の弁護士であったということ。

 妹である支配人から兄への電話で、いよいよ潮時ということになったようなのだ。ただ一人だけではまずいので、もう一人を付け加えたわけだ。看護婦が二人の赤ちゃんを病室から、彼女たちが待つ部屋に連れていく(運んでいく)カットで映画は終わる。あとの四人の女性たちがその後どうなるのか、子持ちのフィラデルフィアに行き損ねた男性は、セリアを妊娠させたことも知らないままの学生は、......。すべてほったかされたまま映画は終わる。
 なかなか重い映画であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?