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【こんな映画でした】417.[山びこ学校]

2021年 2月 9日 (火曜) [山びこ学校](1952年 100分)

 今井正監督作品。日本版ネオレアリズモというべき映画か。内容的には良いものがあり、この映画の意義を認めるのだが、正直なところ前半の展開は私には合わなかった。半ばでようやく作文の事が出てくるのだが、もっと早くても、つまり三分の一くらいのところからが良かったような気がする。

 封入されている解説にも「105分」とあるが、不自然なカットのつながりからして、実質はやはり100分であった。それほど大きなカットはなかったとは思う。ただこのDVDは画質が悪く、つまり雨やら糸くずやらの処理はなされておらず(おそらく)、音質も悪く、私には半分以上、何を言っているのか分からなかった。

 戦後民主主義の成果、という評もある無着成恭氏の実践であるが、その言い方は誤解を生むだろう。それはあくまでも無着成恭氏とおそらく数少ない教師たちによる模索・実践の一つであったことだろう。そもそも戦後民主主義などという言葉自体、虚妄なのだから。

 無着成恭氏の教室における授業は、映画では一斉授業の形態であり、一人の教師対生徒(43名)との対話形式でもある。それがすべてではなく、様々な形態が臨機応変に取られていたことだろう。この作文を書かせるというやり方は、どのようにして発想されたものかの説明はなかった。単に綴り方の時間としてのものだったかもしれない。しかし題材を虚構のものにせずに、現実の生活に目を向けさせて、意識化させ文章に表現するというやり方は理想的な教育方法であったろう。

 そこから、つまり自らの置かれた現実から目を逸らさずに、なぜそのような実態があるのか、その依って来たる直接の原因やさらに遠因にまで考えを及ぼす。それが非常に大切な事であると、生徒たちに認識させる。これだけでも十分なくらいだ。

 もちろん遠因としての江戸時代以来の封建制から、最近の第二次世界大戦参戦による父兄の戦死・戦病死、地主制が農地改革により廃止されたとはいえ不十分な骨抜きの状態。生産性の低さ、等々に思い至ることだろう。そしてそこからどのように改善・改革していけばいいのか、と思考し実践していく。そのような根本的なラジカルなことを教育の場で、まず子どもたちに実践していくというものであったのだろう。

 長い封建制の桎梏の中での親や祖父母たちは、諦めの観念しかなく、つまり長いものには巻かれろでしかない。浄土教の教えのせいもあろうが、目の前の穢土を嫌って、死後の浄土を願う教えはややもすれば目の前の現実から目をそらせることになる。諦念に囚われてしまっているのだ。そして新興宗教も。ここでは「おひかりさん」ということで、一つのエピソードが紹介されている。貧しい人たちにスッと寄り添ってくる新興宗教は、戦後日本社会の特徴の一つでもあった。不幸なことであった。

 結局のところ、政治の不作為に気づき、まずは共同体で自治で改革を草の根からしていくしかないのだが、封建的な保守主義の力は強く、ついに日本社会に民主主義は根付かないまま腐らされてしまうことになる。

 70年余り前のこの映画での現実は、形を変えてはいるが21世紀の今日の日本社会にもそっくり当てはまっているわけだ。封入されている冊子の中で「磯部先生」役の杉葉子が「映画映像こそが時空をこえて人と人との心を繋ぐものと思っております」、と。

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