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【こんな映画でした】779.[神の道化師、フランチェスコ]

2020年11月11日 (水曜) [神の道化師、フランチェスコ](1950年 FRANCESCO, GIVLLARE DI DIO THE FLOWERS OF ST. FRANCIS イタリア 85分)

 ロベルト・ロッセリーニ監督作品。もうこれはキリスト教のお話ということで、勉強のつもりで観る。見ながら宗教とその布教・布教活動などについて考えることに。洋の東西を問わず、信仰というものは布教活動によって支えられているのだ、と。

 あとで分かったことだが、ほとんどの人は現役の修道士であった。役者は二人くらいか。フランチェスコ役をはじめとして、みんな修道士であったとは驚いた。でも考えてみたらこの監督たちのネオレアリズモというやり方からしたら、至極当然のことであった。

 「完全なる喜び」とは何か、という問い掛けがあったが、それに対して「人々からの侮辱や試練に耐えること」としている。これはどんな宗教でも同じような気がする。むしろそのような試練があるからこそ、その宗教や信仰の正しさが証明されるというわけだ。だからある意味、喜んで受難することにもなる。難しいものだ。

 彼らフランシスコ会の修道士たちは、清貧を旨として、日々極貧の生活を送っているようであった。ものというか財産に類するものを何も持たない。もし信者から何かを寄せられたら、まず貧しい人たちへ、として自分たちのことは後回しにする。そんなありさまもシーンとして描かれていた。

 ただこの貧しい人たちに施すことについては、彼ら貧しい人たち同士での取り合い・争いもあり、彼らの心性の醜さ(それは貧困から来るもので致し方ないとはいえ)が露呈されている。つまり修道士たちの行為が、彼らの貧しい精神性を暴き出してしまうことにもなっている。

 こういったところに矛盾を感じないわけではないが、彼ら修道士たちはそれで満足し、喜びが得られているのであろう。信仰というのは偉大なものだ。一般の人間、俗世間の人間にはとうていできることではない。

 なお解説を見ると、この舞台は13世紀初め、1210年の春から始まる。フランチェスコとその11人の弟子(?)がローマで教皇インノケンティウス3世から布教の許可を得てアッシジに帰って来たところ。激しい雨の中を、裸足で傘もなく。この先の受難が予想されるオープニングシーンである。

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