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【こんな映画でした】598.[聖なる酔っぱらいの伝説]

2020年 9月28日 (月曜) [聖なる酔っぱらいの伝説](1988年 LA LEGGENDA DEL SANTO BEVITORE THE LEGEND OF THE HOLY DRINKER イタリア/フランス 128分)

 見始めてすぐに、これは良い映画だなという予感がした。ラストは現実を突きつけられるが、それは致し方ない。人間の生き方ということについて、特に誤解されがちないわゆる「ホームレス」の人となりと、生き方についての理解が深まることだろう。

 監督はエルマンノ・オルミ。かつて[木靴の樹](1978)を観ていると思う。主役のアンドレアスはルトガー・ハウアー、撮影当時44歳。おそらく初めて観る。なかなか興味深い俳優だ。踊り子ギャビーは、サンドリーヌ・デュマ、撮影当時25歳が大きな目が魅力だ。

 もう一人重要な役の女性がいるのだが、ソフィー・セガレンという名前だけで生没年などは不明、というか調べきれなかった。アンドレアスが愛し、その人のために国外追放になったようだとほのめかしている。

 映画のラストに次のようなテロップが。「神よ、すべての酔っ払いに美しい死を与え給え ジョセフ・ローチ」。これは原作の小説家の言葉。いずれ原作を読んでみようと思っている。

 私たちはここで単に「酔っ払い」というだけで、冷たい眼で見るだけで終わってしまっていてはならないわけで、その背景にあるものを優しい眼で客観的に見ていくべきではないか、と。それぞれに止むに止まれぬ理由がある訳だから。

 このアンドレアスの場合も、徐々にそれが分かってくるようになっている。最初の金持ちの老人との出会いで、アンドレアスはいくらホームレス状態であっても、人間としての誇りは持っていると言っている。だから借りたお金は必ず返す、と。

 そうはいっても定職はなく(かつては炭鉱夫だった)、セーヌ川の橋の下での寝泊まりでは返せる見込みはない。しかも大酒飲みで、金があればワインを飲んでいるようだ。金持ちの老人からいくら欲しいかと聞かれたその時、私の想像とは違い、彼は20フランと。酒を飲むためにはそれでよかったのだろう。しかし老人は200フラン貸してくれたわけだ。返せるようになったら教会へ、と言い残して。

 そこから「わらしべ長者」ではないが、それを切っ掛けに様々なことに遭遇していく。もちろん良いこと・良い人に出会うこともあれば、悪いこと・悪い人に出会いお金をかすめ取られることもある。アンドレアスはそれらをすべて受け入れていく。

 大人の観る映画であり、主人公も大人なのでややエロチックなシーンもある。お店に財布を買いに入ったシーンでは、女性店員の足のストッキングに目が行く。何度か視線をその足に送った後、彼が向かったのはそういう仕事をする女性たちのいる場所であった。もっとも私には始めは分からなかった。アンドレアスとそこにいた女性が同じ部屋に入っていったので分かった次第。大人の映画は難しい。

 もう一つ浮いたシーンがあった。踊り子ギャビーとのホテルでの一晩と、フォンテンブローでの一日のアバンチュールである。最後は彼が支度をしている隙に彼の財布からお金を抜いていくという、強かな若い女の子であった。最後の楽しいひとときとなった、その代償であろう。

 良い出会いの方は、子どもの頃の友人が今はボクサーとして活躍。再会するシーン。食事をし、酒を飲み、ひとときだが懐かしい幸せな時間を送る。ボロボロになった服の代わりにセビロをもらうことに。

 もう一つはおそらく国外追放の切っ掛けになった暴力事件の際の女性カロラインとの再会。ともに食事をし、一晩を過ごすことに。かつて好きだったようだが、結婚はできなかったようだ。というか当時は知人の妻だったか、妻になったのかだったわけだ。

 アンドレアスが安酒場で、酔っ払いながらわずかな所持品の中から懐中時計を出してジッと見るシーンが二度ほどあった。もちろん時計はもう動いておらず、ただその裏側のレリーフはおそらく「炭鉱夫」の姿を描いたもので、何らかの功労賞だったのかもしれない。過去の追憶に耽るのだった。

 同じ安酒場にある夜、老夫婦がやって来る。酔眼でアンドレアスが彼らを何度も何度も見る。何を意味するのか直接的な説明がないので推測するしかないが、それは彼の両親の姿を彼らの上に見たのかもしれない。おそらく痛恨・痛哭の思いで。なんせ国外追放であり、両親のもとを離れざるを得なかったのだから。

 人の人生というものは、そういう有為転変があるものなのだろう。もちろんこれは小説であり、その映画化であるからより劇的になっているのかもしれないが。.…そして人の一生の終わりは、やはり「死」である。

 アンドレアスにとっての最後の安楽は、ワインを飲んで酔っ払い、その結果としての「死」であるということになるか。痛切かつ哀切であるが、それが人間の「生と死」の実態であろう。

2020年10月 8日 (木曜) 『聖なる酔っぱらいの伝説』(ヨーゼフ・ロート 池内紀=訳 白水社 1995年)

 表題作の他に「四月、ある愛の物語」と「皇帝の胸像」。まず表題作については、新書版のこの本で70ページ足らずの短編。これを膨らまして映画にしているわけだ。先に映画を観ているので、どうしてもその観点から読むことに。

 何より気になったのは翻訳。炭鉱夫である主人公は、おそらく教養もなく、言葉遣いも粗野であったろうとの解釈を翻訳者がしていたのかもしれない。それとも原文のドイツ語の表現でそのようにされていたのかもしれない。いずれにせよ私はその訳し方が気に入らなかった。自ずから内容にも入っていきにくかった。

 要するに次のような訳文なのだ。
「しかし、こうみえても誇りってものがありますぜ。見そこなってもらいますまい。いただくわけにはまいりませんね。第一に、おまえさんはとんとお見かけしないおかただ。」(P.7)
 これは最初に老紳士から、アンドレアスが金をもらう(借りる)シーンでのもの。
 なお小説によるとカロラインは、「カロリーヌ」とあった。

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