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【こんな映画でした】170.[夏の嵐]

2020年 3月 6日 (金曜) [夏の嵐](1954年 LIVIA SENSO WANTON CONTESSA イタリア 123分)

 ルキノ・ヴィスコンティ監督作品。主役の女性リヴィアはアリダ・ヴァリで、撮影当時32歳くらいか。覚えてはないが[第三の男](1949)・[アポロンの地獄](1967)に出演していたようだ。これからも観ることがあるだろう。オーストリアの軍人フランツ役は、ファーリー・グレンジャーで撮影当時28歳くらいか。既に[見知らぬ乗客](1951)・[エスピオナージ](1973)で観ている。

 時は1866年、場所はイタリアというかヴェネチア。リヴィアは伯爵夫人、つまりイタリアの貴族。しかし当時はオーストリアの支配下にあり、それに反抗する人々の運動が活発化しようとしていたときのようだ。ガリバルディという名前も出てくる。世界史で少し出てきた程度しか覚えていないが。

 この映画は、その伯爵夫人とオーストリアの軍人の恋物語、ということになる。何もかも捨てて、その男の元に駆けつけるのだが、最後は強烈なことになる。男女間の愛情というものは、やはり難しいものだ。

 端的に言えばこの男は、プレイボーイであり、最後のシーンで本人が言っているが、女から騙し取るのと、いかさまギャンブルで金を稼いでいる、と。年上の上流階級の女性などを愛するはずがない、女は自分の虚像を見ているだけだと嘯く。

 彼女はその仕打ちに対する報復として、彼が脱走兵であると密告。その結果、直ちに逮捕され、即、銃殺される。そのあと女はヴェロナの町をどこへか分からないが彷徨しフェイドアウトしていく。後味は良くない。イタリア近代史の一断面ということか。

2020年 5月 7日 (木曜) 『夏の嵐 ルキノ・ヴィスコンティ秀作集 2』(ルキノ・ヴィスコンティ 新書館 1981年)

 映画[夏の嵐]の原作の小説と脚本、そして映画製作にまつわるエピソードをまとめた書籍。やはりと言うべきか、原作の小説とヴィスコンティの脚本とには相違がある。原作のイメージから、自分の映画作品へと昇華させるということか。

 フランツ中尉のことを女たらしのどうしようもない男として描きつつも、そこにはそうせざるを得ない人間としての悲しみがあり、その自分の有様をもちろん完全に肯定しているわけでもないのだ。人間というのは、やはり複雑なものだ。

 リヴィアにしてもそうだ。不幸な満たされない結婚と結婚生活。そこに愛しうると錯覚させられる男性の登場。これだけではありふれているが、そんなリヴィアにもフランツ中尉同様に、いろいろな思いがあるわけだ。

 よく脚本を見るとフランツ中尉を密告した後、ヴェローナの市街を彷徨していくリヴィアにこう言わせている。「フランツ! フラーンツ! フラーーンツ!.....」。やはり彼への思い・愛情はあった、消え去ってなかった。しかし密告という矛盾した行為に走ってしまった、ということだ。

 二人の愛情のあり方を単純に判断してしまっては、物語に深みはない。ありふれたテーマのありふれた小説・映画にすぎなくなってしまう。結末は、映画では脚本とは入れ替えてある。映画ではリヴィアの彷徨シーンをロングで撮って終わる。だから脚本にあるリヴィアのセリフは私たちには聞こえてこない。脚本では銃殺シーンで終わる。

 なおヴィスコンティ自身は、このいずれのシーンでも終わるつもりはなかったようだ。一オーストリア兵の姿で終わりたかったようだが、これは彼の発言として残るのみで、文書でも映像でも残っていない。

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