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【こんな映画でした】750.[奇跡の丘]

2021年12月21日 (火曜) [奇跡の丘](1964年 IL VANGELO SECONDO MATTEO THE GOSPEL ACCORDING TO ST.MATTHEW[米] イタリア/フランス 137分)

 ピエル・パオロ・パゾリーニ監督作品。簡単に言うならキリストの誕生から死、そして復活までを描く。何と評していいのか分からない。まずは映像を追っていくだけで精一杯だ。キリストの人々に話す言葉は聖書で読んで知っているものが多かったが、それにしても字幕を追い、表情を読み解いてくのは大変だ。

 キリストを演じたのは、エンリケ・イラゾクイで、撮影当時20歳くらいの学生であったようだ。スペイン人の父とイタリア人の母。鼻筋が長く通っていて、イエス像でそのような絵を見たことがあるような気がする。奇しくも昨年2020年9月に亡くなっている。

 母マリアはマルゲリータ・カルーゾ(私と同じ1950年生まれ、撮影当時14歳)、独特の表情が見られる。いいキャスティングであろう。なおラストシーンでの母親役は、監督の母とのこと。

 荒涼たるパレスチナのイメージのように、砂と風と不毛の地の景色が続く。そんな中からキリスト、あるいはユダヤ教は生まれたのだな、と。自然の影響は少なくはないだろう。

 解説にあったが、たしかにキリストは人々とは「対話」をしない。もちろん映画で実際にあったと思われる対話や会話を再現することは、脚本として可能ではあるだろう。しかし、ほとんど一方的に宣言、あるいは断定するかのごとく述べ立てていく。それはまさしく「マタイの福音書」にあるとおりなのかもしれない。私は読んでないので分からない。

 彼キリストのその言葉だけを聞いていると、その後のキリスト教会での教えとは若干違いがあるように思えた。たとえば「右の頬を打たれたら、左の頬を」とか、「汝の敵を愛せよ」とかである。つまりやられたらやり返すという連鎖では、永遠に解決はできないということ。やはり「赦す」という、認め合うことの大切さを言っているような気がした。

 彼は何のために、何故そこに出現して、人々に仇まれながらも教えを説いていったのか。どのようにして、そのような使命(?)を自覚したのだろうか。これらについては、また考えてみたい。

 観ていてつくづく思ったのだが、彼の言う「父」とか「神」という言い方は、当時の人々には必ずしも正確には理解されてない気がした。つまりそれら「父」とか「神」というものは、人々の心の中に存するものなのだ。だが、そんなことを言っても人々には理解されない。ある程度、対象化・物象化して、そのように名付けることによって人々に分からせようとしたのだろう。

 仏教でいう「仏」や「神」もそうだ。本来的には自分という人間の中に存するものだが、それに気付かせるのは至難のことだ。やはり分かりよく仏像にしてみたり、曼荼羅にしたりするのではないか。

 キリストの教えについて考えることは、仏教の教えを考えることと共通するものがあるようだ。それもそのはずで、キリスト教には歴史的に仏教の思想が伝わってきており、その影響を受けているものと考えてもおかしくないからだ。キリストも釈迦も厩で生まれたという話一つとってもそのように考えられる。
 また時間をおいて観ることにしよう。その時にはまた新しい発見があることだろう。

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