見出し画像

[小説] 借りパク #月刊撚り糸

 掃除が下手な男が一人、フローリングの上でひっくり返っている。秒針の音を聞きながら、蛍光灯の紐がエアコンの風で微かに揺れるさまを見ている。カーテンを閉めきった部屋の中では、どれくらいの間そうしているのか分からない。頬には涙が乾いた跡がある。

 この恭平という男はとにかく掃除が下手だ。彼の掃除方法は至って簡単で、部屋を上下に分ける。
 まずは上。床に接していないものを全て、一旦床に置く。棚の中身、机の上のもの、中のもの、ありとあらゆるものを床に置く。そして、それぞれの置き場所を一つ一つ拭き上げてからものを戻す。
 最後に下。床のホコリやゴミを片付ければ完了である。
 説明だけだととても綺麗好きなようにも聞こえる、残念なのは恭平はこれ以外の掃除方法を知らないということだ。こまめに気になった箇所を掃除する、なんて細やかさは持ち合わせていない。徹底的にやるか、とことんやらないか。All or Nothing.

 床にひっくり返っている本人はすっかり忘れてしまっているが、恭平は今まさに下手な掃除の真っ最中である。

 恭平は両親と仲が良くない。家族が一堂に会すると必ず大喧嘩になる。だから、帰省という年末年始最大の暇つぶしが選択肢にない。さらには、仲の良い友人たちもみな帰省してしまっている。
 最初はひとりぼっちのお正月を、食べ物とお酒をしこたま買い込んで暖房の効いた部屋で一人で動画サブスクリプションサービスを堪能して過ごそうと画策していた。が、よくよく考えれば日頃からしていることでお正月感はない。
 だから正月感溢れる社会から取り残されないために、止せば良いのに大掃除に手を出したのだ。そして例のごとく下手な掃除を始めて、ありとあらゆるものを床に置いた時点で、「どこかに帰りたい」という強烈な感情が突き上げてきて掃除のやる気が雲散霧消してしまった。家に居るのに帰りたい。帰省はしたくないのに、帰りたい。

 どうしようもなくなってしまった恭平は、本の山がいくつか崩れるのも気にせず、床のものを足でズササとどけて、ちょうど自分と同じくらいの大きさの空白を作って仰向けに横たわった。
 見立てた空白は少し小さくて、仰向けになるときに恭平は頭を何かにぶつけた。大して痛くもないのに、「痛って」と呟く。あざとい独り言はすぐに空気に溶け込んでしまう。声が反響しないことすらも自分が惨めな証拠に思えてきた恭平は自分の周りにいくらでも散らかっている本を手にとって読むことにした。誤魔化すことにした。
 ヤケになってしまったので、もう首を動かすのも億劫だ。だから手の感触だけで物色をする。割とすぐに読める分量の本が良い、だなんて考えながらにそれらしいものを探し当てて手に取る。しかし、手繰り寄せて読もうとした本は詩集で、恭平が買うような本ではなかった。恭平に詩の趣味はない。

 もしかしたら今日の掃除のように思いつきで買ったのかもしれない。はたまた、一方的に本の趣味を押し付けたがる人が貸し付けて来たのを断れずにそのまま借りパクしているのかもしれない。借りパクだったら厄介だ。貸主を思い出すまで、この本をどうにも処分できない。
 そんなことを考えながら仰向けのまま詩集を開くと、ページの間から一枚の折り畳まれた紙がひらひら落ちて、美容院でのシャンプーのときのように、または死んだときのように、恭平の顔にかかった。恭平は一瞬驚いてから上体を起こす。すると紙が今度はひらひらと腿の上に落ちる。誰もいないのに何故か息を潜めて、そっと紙を開く。柔らかい和紙の便箋にはたっぷりの余白と綺麗な字で書かれた一行の言葉があった。

「この本が、いつか恭平くんの助けになりますように。」

 愛が詰まったその手紙は、送り主はもういない現実も帯びていた。恭平は急いで手紙が挟まっていた本を再び手に取った。深呼吸をいくつしても脈は荒れ、意思に反して声帯が震えた。
 その本は、谷川俊太郎の「幸せについて」だった。そして8ページと68ページにだけドッグイヤーが折られていた。

胸がいっぱいになって涙が滲んでくるような静かな幸せもあるし、人目を気にせず道で踊りだしたくなる爆発的な幸せもある。後になって〈ああ、あの時幸せだったんだな〉って気づく幸せもあるよね。

谷川俊太郎『幸せについて』p.8

幸せには退屈という一面がある。これは必ずしも歓びと矛盾しない。

谷川俊太郎『幸せについて』p.68

 恭平は片付けるために散らかしきってしまった部屋でひとり、自分の何倍も小さな詩集を抱きしめるしかなかった。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。