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[エッセイ] マグネシウムリボンの夜

 夜の散歩が好きです。冬が近づいてくるこの季節の夜の匂いが好きで、夜遅い時間に徘徊してしまいます。

 先日も夜に散歩をしていました。音楽や友人の音声配信を聴きながら2時間ほど散歩をした帰り道、視界の端に光を感じて強制的にその箇所に焦点が合いました。それはたぶん、流れ星でした。いや、もしかしたら流れ星ではないのかも知れません。今まで流星群などで流れ星を何度も見てきたのですが、今回のは今までのものとは少し違いました。
 高校のとき、理科の実験で見たマグネシウムリボンの炎のような眩い光を放って、流れ星にしてはゆっくりと長い時間をかけて流れ、最後は床に落としてしまった角砂糖のように砕けて消えてしまいました。小さめの火球だったのか、それとも古い人工衛星や宇宙ゴミだったのか。分かりません。

 あの光の正体が何であれ、僕はその光が崩れていく質感がとても生々しく感じました。口の中で水分を吸って崩れるたまごボーロのような、床に落とした角砂糖のような、乾いた土の欠片のような、上手く言葉に出来ない質感で崩れていった光に心を奪われてしまいました。この感触を腑に落ちる表現で描くには人生で触れてきたものが少な過ぎる、というどうしようもない事実に寂しくなりました。夜更しのたくさんあるデメリットのひとつ、孤独感です。

 自分の死に関しては、「自分の死は自分で見られない」という養老孟司さんの言葉のおかげでもう怖くはないです。しかし、代わりに、とても多くのものが自分が死ぬ瞬間まで「まだ触れていないもの」のままであり続けることの悲しさを覚えるようになりました。
 本屋や図書館に並ぶ本を全て読むことは出来ないこと、ネットの世界に溢れ返る映画を全ては見られないこと、世の中にいる素敵な人たち全員とは知り合えないこと、数千曲を超える音楽のお気に入りプレイリストの中には死ぬまであと数回しか聴かない曲があること、そういう小さな悲しみが募って定期的に溢れそうになります。
 だからといって、目を白黒させて手当り次第に様々なものに触れれば良いというわけでもないです。何かに触れたあとには、その結果自分の心がどう感じたのかをじっくり検証する時間が必要です。どうせ全部に触れることは出来ないのですから、諦めて、自分が触れたものとの巡り合わせを大事にして、執着し過ぎず、ゆとりを持って生きたいと思っています。多くのものに触れた結果、消化不良を起こしては、それはもう触れていないも同じですから。

 あの夜、イヤホンから流れてくるAviciiのThe Nightsが謳う人生の素晴らしさの中で目の当たりにした、マグネシウムリボンのような光を放った何かの質感を、この人生の中でいつかは腑に落ちる言葉で表せるようになっていたいと思います。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。