グローバリズムが格差を拡大した
基本
国家経済には、内需と外需がある。
GDPは国内のフローである。
A => B => C => A
のように国内お金が巡る(フロー)と、GDPは増大し、AもBもCも豊かになる。
あるとき、CがAのサービスをa(Aと同様の外国の同様の安いサービス)に切り替えたとする。
A => B => C => a ...
* 国内のマネーの循環が消える。
* マネーは海外に流出する。Aの収入がなくなり、結局Bの収入もCの収入もなくなる。
* AもBも安いサービスを求めて依存するサービスを海外の安いサービスに切り替える。
これがデフレ経済だ。
こうしてマネーはどんどん海外へと流出し、そして国内の仕事が消えていく。
結局、A=>B=>C=>Aが巡っている限り、多少高いカネを払ってもそのカネは回りまわって帰ってくるはずだった。
だが、
* 国民が安いサービスを求めた
* 企業が原価を圧縮するために仕事を海外に出した
どちらが先なのか?それは鶏と卵だ。どちらにしろこの両輪が日本の格差を拡大した。
代替不可能なサービスを行っている企業だけが裕福になり、それ以外のサービスが淘汰された。
格差拡大の正体
結局のところ、日本の労働者が、海外の労働者との価格競争にさらされたという事。
日本との賃金格差が1/10であるような国の労働者に比べて、日本の一般的な労働者は10倍のパフォーマンスがあるだろうか?
おそらくない。
輸送技術が発達した現在、近い所に出す必要のないサービスは非常に多くなった。
新鮮さが求められたり、国内でどうしても調達する必要があるモノ以外は日本国内に求める必要はあまりない。
このような価格競争にさらされれば、一般の労働者の仕事が消えるのは必然だ。
グローバル化した企業は、物価の高い日本を「消費地」として定義し、物価の低い国々を「生産地」と定義して生産物をせっせと日本に運び、
そして賃金をせっせと物価の低い国々に送り、自分たちの売り上げを伸ばした。
結果、大企業の利益だけが伸び、日本国内のマネーはどんどん海外へ流出し、一般労働者は貧しくなった。
これを大企業は海外との「win-win」と呼んだ。
先端技術>投資>労働
日本のGDPの大部分を占めるのははもはや、「労働賃金」ではなく「投資」だ。労働の価値は低くなり、お金をもっているものが、そのお金を使って稼いでいる。
そうはいっても、投資によるお金の創造よりも、アマゾンのような先端的なサービスが作り出すマネーははるかに多い。
投資にあぐらをかく国は、先端技術によって淘汰されるだろう。
国家の安全保障
先端技術を担う事の出来ない「一般の労働者」は、海外とのコスト競争でどんどん淘汰される。
国家は「競争力のある層」と「競争力のない層」に分離し、社会の不安が増大する。
本当にそれでいいのだろうか?
国の文化や治安、歴史は、一時の競争の結果ではなく、長い時間の蓄積だ。
社会不安が増大すれば、それらは消えていき、マネーだけが競争力のある層に増え続ける。
収益を上げることに注力した結果、日本企業は中国にどんどんマネーを注いで、その結果コロナ禍で最も必要なときにマスクは共産党に奪われた。
そして多くの日本人の命が危機にさらされた。
海外に出すということはそういう事だ。
結局、国家の安全保障のためには、国民全員が、国内のサービスを優遇する以外にない。
それを制度化したものが「関税」だ。
海外のサービスを輸入するときには一定の関税をかけることによって、国内サービスの価格競争力を優遇する。だがなぜか、「グローバル化、自由化」の掛け声のためにこれは悪者扱いされている。
たとえば国内の大企業が海外の工場で生産した製品を日本で販売するとき、関税はかかっているのだろうか?おそらくかかっていない。
だが、このようなマネーのフローに着目したとき、これは「輸入品」であり「関税をかけなければならない」。
地方にいくとよく、地産地消が叫ばれるが、これは「安全保障上当たり前の戦略」だ。
地方のなかでフローの循環が回れば、そこが豊かになるのだから。
輸出企業を優遇する通貨安戦略
工業製品の輸出が基幹産業である国家は「通貨安戦略」を採用する国が多い。
海外で製品を売るときの価格競争力を維持するためだ。
だが、その企業も海外から部品を材料を購入するときに、代金が高くなるわけだから、果たして本当に通貨安のメリットがあるのか?
もちろんある。日本人労働者に円で支払う賃金を安く抑える事ができるからだ。
というわけで、大企業が求める「通貨安戦略」とは、「労働者の賃金を抑制する戦略」である。
だがそもそも、「通貨を安くしないと売れないようなサービスは、価格競争力の低いサービス」だ。
そんなものを海外に売る必要があるのだろうか。
もし通貨が高すぎて本当に国が困るなら、自然と通貨価値は切り下げられるだろう。
国民全員を貧しくしてまで人工的に通貨をさげないと売れないモノなど不要ではないだろうか。
先端的な人材
世界中の先端的な人材はアメリカに集まる。なぜか?給与水準が高いからだ。
日本が通貨安戦略をとっている限り、日本に先端的な人材が集まる日は来ない。
日本は海外とのwin-winなどやめ、きちんとお金を稼ぎ、適切に国家の競争力を確保しなければならない。
年金問題と世代間格差
過去、日本は国民全員の老後の不安を解消するため、国民年金を作った。
それ以前、老人は自分の子供や孫に面倒を見てもらうのが当然だったが、年金の登場により変わった。
子供がいなくても、かならず一定の所得が保証されるなら、わざわざ子供を作って育てる必要があるだろうか?
自分の稼いだ金は全て自分で使い、老後は年金で暮らす。それが国民のライフスタイルになった。
だが待ってほしい。
そもそも老人に支払われる年金はどこから出るのか?
「年金は貯蓄なのか?それとも世代間相互扶助なのか?」
年金は実際、ローリスクハイリターンな金融商品としてデザインされた。それが可能だったのは、当時の出生率が高く、人工バランスがピラミッド型だったからだ。
つまり、老人が少なくて子供の多い社会である前提が続く事が「ローリスクハイリターンな金融商品」の実態だ。
だが、老後の安心を約束された結果、人々は結婚や子供を作ることをやめた。
そして、「年金はねずみ講」であることが明らかになった。
民主主義の崩壊
現在の老人たちは、「俺たちはきちんと年金を収めたのだから、約束通り年金を支給しろ!」と主張する。だが、それを支えるはずの現役世代は年々苦しくなるばかりだ。
政府は「年金のデザインは間違っていたから支給しない」ことなどできない。
子供が作られなくなった結果、60歳を超える老人が人口の50%を超えた。その状態で「年金を支払わない」などと言ったら選挙で勝てない。
国家は老人が死ぬまで年金を払い続けるしかない。年金は経済浮揚策としての効果はないが、国民との約束だから。
こうして、既得権益を得た豊かな老人と、それを支える現役の溝は深くなった。
国家の方向を、生産しない人々が決める。恐ろしい事ではないか?
国民一人が一票をもつという「アナログな民主主義は崩壊した」私はそう思っている。
民主主義の本質は、「結果責任を負うものが意思の主体となる」という事だと思う。
自分の意志の結果であるなら、どんな未来も受け入れるしかない。
だが、老人は果たして結果責任を負うだろうか?
自分が死んだ後のことなど知ったことではない。そういう老人は決して少なくないだろう。
結果責任を負わない人間の意思は「多数決」には用いるべきではない。
そういう各々が背負う結果責任の量を選挙権に反映した制度こそ「デジタルな民主主義」だと思う。
自由vs平等
自由は社会を不平等にする。
平等は社会を不自由にする。
日本は「護送船団方式」や「談合」に代表されるように、平等を重視する社会だった。
だが、アメリカ的な自由競争が導入され、「自由による効率」を重視するようになった。
グローバリズムとは、企業が国境による制約を受けずに自由に商売をするということ。
不平等は、グローバリズムから生じる必然だ。
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