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『権利だけがあり、義務はどこにもない』

思弁哲学シリーズ、今回は『権利だけがあり、義務はどこにもない』というテーマについて。

「我々はそこに義務があると感じることがあるけれど、それは錯覚なんじゃない?」というお話です。アドラー心理学でも似たような主張がありますね。人間はやりたいことをやっているだけなのだ、とか。

さて、今回の対象範囲は思考ができる自由意思を持った存在、この地球上においてはおおよそ人間が対象です。表題を言い換えるならば、「思考する者が持つのは権利だけであり、義務はどこにもない」となります。どういうことか。

例えば歴史の勉強をしている最中に、「この時代の百姓たちは重税を取り立てられ、その領地ではやっていけないほど飢饉に苦しんでいた」という一文を読んで、「じゃあ領地から逃げ出せばよかったのに」と素朴な疑問を少年少女時代に抱いた記憶はなかったでしょうか。

もちろん当時のお百姓さん方にとっては、先祖代々の土地だったり親類縁者がいたり、領主に逆らうのが怖かったり村の外のことを知らなかったり、などなどできない理由は数多くあったでしょう。

ですが居ます。実例として、「逃げ出した百姓」という事例は当然ながら存在し、そして別の場所でそれなりに成功したケースもあります。なので、「生きていくことすらできない領地に留まって死を待つ『義務』」は本当は存在しなかったということになります。

日本史で言うなら、より多くのケースでは「一揆を起こす」という選択が飢饉と重税に対しては行われた抵抗運動でしょうか。「逃げ出す『権利』」より「集団で立ち上がる『権利』」の方が、日本人的にはしっくりくるのかもしれません。

いずれにせよ。「死を待つ『義務』」は本質的には存在しないわけです。それは領主側が押し付けた『義務』であって、守る義理はない。逃げ出したり一揆を起こすリスクを判断してやらないことはあっても、それはやる権利、やらない権利、「どちらの『権利』を選ぶか」という選択になります。

現代のブラック企業も同じ。あくどい上司や社長が恫喝や疲労困憊の中で判断力を奪い、ずるずると悲惨な労働環境で働かされ続けるケースにおいて。これは『義務』でしょうか?

いいえ。むしろこれは、「正当な辞める『権利』を社員に忘れさせる」という手法です。誰にでも、「違法な労働環境を拒否し、離職を行う『権利』」がある。その権利をどうにか忘れさせてやろう、というのがブラック企業のやり方なわけです。

では逆に、「倫理的な『義務』」についてはどうでしょうか。
母親の目の前で自分の子供が死にかけている。あるいは、長年お世話になってきた人や会社が窮地に陥っている。これは倫理的に言って、助ける『義務』があるかもしれません。

しかし仮に、この母親の後ろには三人の子供がいる。一人の子供を助けに行けば、この三人は死んでしまう。また、長年お世話になってきた人や会社はそれなりに困ってはいるが、自分はそれを助けようとすれば殺されてしまう。

この状況であれば、どちらかが『義務』だ、とは言い難いでしょう。どちらを選んだとしても、それはあくまでその人の判断です。『義務』に従った、というより、それは『権利』を行使した、という方が相応しい。

誰かを助けること。何かをすること。それは常に『権利』が先にあり、『義務』ではありません。他者から課せられた名目上の義務に従うか? あるいは拒否するか? 複数ある『義務』のどれを優先して果たすのか?

それらを選ぶ『権利』を、常に意思ある者は持っています。

もちろん、だからといって『権利』を濫用することは素晴らしい行いではない場合が多いでしょう。法を破れば罰せられ、誰かを傷付けたり裏切れば嫌われ、何より自分自身が罪悪感に苦しめられるかもしれません。

つまり、どんな人にも「倫理的であろうとする『権利』」があります。現代社会において、誰彼かまわず殴りつける、というような野獣のような非倫理性を常に発揮している人はまずいません。「普通に考えてある程度は倫理的に生きた方が生きやすいよね」というのが、大多数の人々の判断です。

それはほとんどの場合、正しいはずです。ただし、それが権利であったことを忘れてしまうと、あまりよくないかもしれません。

「私はこの子を育てなきゃいけない、『義務』だから」と精神的に追い詰められる母親と、「私はこの子を育てる『権利』も、そうしない『権利』もある。けれどそれでも、私はこの子を絶対に見捨てない」と自ら主体的に決意した母親は、どちらが前向きに子育てに挑めるでしょうか。

あるいは先ほどのブラック企業の例のように、不条理な仕打ちを受けても『義務』だからと思い込んでしまう人と、自分は自分の考えで行動する『権利』がある、と忘れずにいられる人はどちらが生き延びられるでしょうか。

多くの場合。『権利』として主体的に選んだ選択と、『義務』として受け身になって受け入れた選択では、同じ行動でも前者の方がより精神的に強く積極的に取り組めるものです。

『権利』について自覚的であることは、そのため大切です。

ただし『義務』に限りなく近い状況、というものも世の中にはあります。
どういった状況かと言うと、「従わなければ殺される」とか「生まれてこのかたずっと奴隷として閉じ込められている」といったような状況です。

現代日本ではそれは珍しいにしろ、「従わなければまともに生きられない」というような状況は珍しくないでしょう。レールの敷かれた人生だとか、親の束縛だとか。そういうものです。

しかし仮に閉じ込められた奴隷だとしてさえ。「生きるか、死ぬか」は選べます。ハムレットですね。そんなものは選択肢でも『権利』でもない、と思う方もいるでしょう。実際、上等な『権利』だとは言えません。

しかしそれでも、一切何も『権利』がないわけではないのです。「生きることを選ぶか、死ぬことを選ぶか」という『権利』を認識したのなら、死にもの狂いで脱走計画を立てる『権利』もあると気付けるかもしれません。

主人に上手く取り入って、待遇を改善してもらう。あるいは絶望しながら日々を生きるのではなく、神の奇跡を祈って信仰で心を救う。些細な選択肢であれ、けれどゼロとの差は多大なものです。

さらに過酷な状況を想定してみましょう。

「自死さえ選べない」という状況です。『ジョニーは戦場へ行った』の主人公のように、両手両足と目や鼻、顎を失って身動きさえできない。あるいは全身を拘束されて指一つ動かせない。

ありとあらゆる尊厳を奪われ尽くして、そこには一滴の『権利』さえ残っていないように思えるかもしれません。

ですが。思考をする権利だけは、残されています。

言葉を変えれば、思考ができなくなった瞬間に、『義務』と『権利』という概念そのものが消失します。
最初に定義したように、これは思考する者の話。木や石には当てはまりません。そして例えば、絶え間ない激痛によって自分の考えというものを一切持てない場合も、これは少なくともその間の意思はなく、気絶しているのと同様と言えるでしょう。

けれどそうではないのなら。あらゆる状況であっても、思考はできます。ジョジョ第二部のラストでカーズ様は「考えるのをやめ」ました。
それもまた『権利』です。「考えないという『権利』」。ですが『二億年ボタン』の主人公はその逆に、「考え続けるという『権利』」を行使しました。その結果として彼は最終的に悟りを開き、神仙の領域へと到達しました。

現実に膨大な時間を与えられた場合、同じことができるのかはわかりません。しかしカーズ様の選択をすることも、二億年ボタンの選択をすることもできるのは確かです。

そして、「思考以外の一切何もできない」という究極の状況を想定してみたのなら。我々の人生に、いかに多くの『権利』、言い換えれば選択肢が存在するかがわかるでしょう。

我々には「思考する『権利』」があり、「生きるか死ぬかを選ぶ『権利』」があり、そして「スタバでどのフラペチーノを飲むか選ぶ『権利』」もあれば、「たった一冊の本を読んで、私の人生はこのためにあったのだと結論づける『権利』」もあります。

私達は、まずはじめに『権利』を与えられます。そして、その『権利』を行使する上での条件として、別の『権利』を行使しないことを選びます。

すべては主体的に選ぶ『権利』であり、『義務』はどこにもない。

そのことを覚えておくことは、自分自身の人生を生きる上で、最も重要なことの一つだと言えるでしょう。

悲惨な境遇を嘆く『権利』があります。それを行使して生きてもいい。
悲惨な境遇で私はこう生きる、と決めて自分の人生を生き切る『権利』もあります。それを行使して生きることも、また誰にも認められた『権利』であり。本質的には何者にも奪えないものだと言えます。



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