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待降節第一主日(B年)の説教 【改訂版】

◎第一朗読: イザヤ 63章16節~64章7節(抜粋)
◎福音朗読: マルコ13章33~37節

◆説教の本文

〇 待降節第一主日のテーマは「キリストの再臨」です。「神の国の到来」 とも言います。イエス・キリストその方との出会いに重点を置いた場合、キリストの再臨という表現になるのです。

「世の終わり」End of the Worldとも言いますが、これはネガティブな誤解を招きやすい 言葉です。「エンド・オブ・ザ・ワールド」のエンドは確かに終わりですが、同時に「目的」のことでもあります。
1992年に、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」The End of History という本がベストセラーになりましたが、彼自身がエンド が「終わり」と訳されたのは失敗だった、彼の主張が誤解される原因になったと言っています。

つまり、キリストの再臨=神の国の到来とは、人類の歴史が 一度締めくくられて、そして、キリストを中心に全く新しい時代が始まることを言います。 キリスト者は、その日を待ち望んでいるのです。

〇 待降節第一主日の説教は、必ず 「主の再臨」のテーマを扱わねばなりません。クリスマスの説教をしてはいけません。私は敘階してから、ほとんど毎年、この日には、主の再臨について熱心に語ってきました。しかし、このテーマほど会衆の反応が薄いものもありません。無理もありません。語るべき具体的な内容が乏しくて、「キリストがもう一度来られるんですよ」としか言いようがないからです。

「キリストの再臨」という教義が、魂の中にどの程度根付いているかは、一人一人違うでしょう。中には、「キリストの再臨?、それ何?、美味しいの?」というレベルの人もいるかもしれません。

それでも説教者は「主の再臨」を語らねばならないと思います。
まだピンと来ない人は、とにかくキリスト教信仰にとって非常に重要なことだということを、とりあえずは知識レベルでいいから知ってほしいのです。
戦前の有名なキリスト者、内村鑑三は「キリストの再臨なくしては、キリスト教は不可解なものとなる」と言いました。

「信じたことのない方をどうして呼び求められよう。聞いたことない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。」とローマ書簡にあるとおりです(10章14節)。
「キリストの再臨」という教義は、人間が自ずと思い浮かぶものではありません。最初は「聞く」ことから 始まるのです。

〇 今日の福音朗読は、「キリストの再臨」そのものではなく、キリストの再臨を当然のことと思っている人々の持つべき心構え(注意=油断するな!)について語っています。今は特に入りたいと思っていない建物の入り口に注意事項が書いてあるようなものです。その意味では、今日私がしたい説教の材料にはなりにくいのです。むしろ、第一朗読のイザヤの預言の方がキリストの再臨を待つ心をよく伝えています。

「なにゆえ主よ、 あなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。
立ち帰ってください。あなたの僕たちのために。どうか、天を裂いて降ってきてください。御前に山々が揺れ動くように。」

◎ 季節の主日のテーマがよく示されているのは敘唱です。

「栄光を帯びて再び来られる時、今、私たちが信頼してひたすら待ち望んでいることは全て叶えられます。」 (待降節の敘唱、第一 )

キリストの再臨の時をどう言い表したらいいでしょうか。
「私たちの心の深い願いが全て実現する時。」 私たちは自分が何を願っているかが分かっていません。「分かっているよ、金持ちになって、女の子にもてて・・」と言うかもしれません。確かに、そうなれれば 嬉しいでしょう。しかし、心のどこかでは、「それは本当に自分が願っていることではない」と分かっているのではないでしょうか。
「パレスチナの争い(子どもの死)が終わるように」と願うのはもちろんです。しかし、それが最終的な平和ではないことも分かっているのではないでしょうか。私たちはもっと深く願って行かなければならないのです。

私たちは自分の心の深い願いを次第に知っていかなければならないのです。 キリストと共に。それに伴って、「キリストの再臨」は切実に感じられるようになり、それを待ち望む心が育っていくでしょう。

待降節第一主日は毎年、巡ってきます。今年はキリストの再臨がピンとこない人も、この1年を キリストと共に歩み、経験を深めるならば、何を自分が本当に願っているかが少しわかってくるでしょう。

「キリストは人間の惨めさを帯びてこの世に来られた時、父の定められた愛の計画を実現し、私たちに永遠の救いの道をお開きになりました。」(同じ敘唱の前半)