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復活節第3主日(B年)の説教

ルカ24章35~48節

◆説教の本文

「 メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

〇 エルサレムは、イエスの救いの働きの完成される場所です。イエスの地上での生涯の旅路は、エルサレムに終わるのです。
どの福音書でも、エルサレムはイエスの十字架の立つ場所です。
しかし、ルカ福音書は四つの福音書の中でも、救いの業における「エルサレムの中心性」を最も強調しています。

ルカ福音書は、エルサレムに始まります(神殿で奉仕するザカリア)。救い主の誕生はマリアとヨセフのベツレヘム 滞在中(エルサレム近郊)に起こります 。イエスの少年時代の大事な出来事(イエスの奉献、両親がイエスを見失う)もエルサレムで起こります。そして、共観福音書ではどれも、イエスは最初の活動の地、ガリラヤからエルサレムに向かわれるのですが、ルカはその旅路を特に強調しています。

「イエスは天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」 (9章51節)

「私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはありえないからだ。」 (13章 33節)

「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・ しかし今は、それがお前には見えない。」 (19章41~42節)

〇 「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」

ルカ福音書のはっきりした特徴は、復活されたイエスの弟子たちへの働きかけ、そして、教会の宣教の働きがエルサレムを起点とすることです。

他の共観福音書(マタイ・マルコ)では、天使は「まずガリラヤに行け」と弟子たちに教えます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる」( マルコ 16章 7節)。
そして、弟子たちはガリラヤで復活された主から使命を与えられます。「あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい」 (マタイ 28章29節)。ガリラヤは弟子たちがイエスと初めて会った場所です。
作家たちについて、「 処女作に全てがある」とよく言われますが、弟子たちの求道の初心、イエスを求めた最初の憧れに、宣教の原点もあることを示していると言えるでしょう。

〇 しかし、ルカ福音書では、イエスは「まずガリラヤに行け」とは言いません。エルサレムを離れずに、弟子たちと交流します。使徒言行録にはこうあります。言うまでもないことかもしれませんが、使徒言行録の著者は、ルカ福音書の記者と同じ人物です。

「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠を持って人たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」 (使徒言行録 1章3節)。

そして、40日の親しい交流の後、弟子たちに使命を与えます。「エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる。」 (1章7節)

〇 ルカ福音書( と使徒言行録) においては、救いの業はエルサレムに終わり、 そして、エルサレムを起点として始まる。ここから私たちはどのようなメッセージを読み取ることができるでしょうか。エルサレムとは、私たちの人生の中でどの場所でしょうか。
私たちの「今いる場所」ではないかと思います。 最も小さく見た場合は、「自分の体」ではないかと思います。

先週、私は、イエスの復活の力を、自分の小さな体の中にまず感じる、と言いました。もっと大きな視野と経験を持つ人は、世界の動きの中に、教会の動きの中に、イエスがいま復活される力を感じているでしょう。
しかし、まず自分の体の中に、イエスの復活の力を感じているはずです。それはイエスの受難と十字架を、自分の体の中に感じているということでもあります。

もちろん、イエスの救いの業は、私の体よりも、もっと大きな広がりを持っています。しかし、私の体にその業を集約し、そして、そこを起点として始めるということが時に必要ではないでしょうか。
今、私たちは世界の問題に対して無力感を持っています。私は特に、パレスチナの人々に対するイスラエル国家の暴虐に今までにはない戸惑いを感じています。
私の70年の人生でも、ベトナム、カンボジア、アフガニスタンなど様々な戦争、それに伴う人々の苦難がありました。しかし、聖書の民の後裔が、このようなあからさまな暴力を無力な人々に無慈悲に振うとはどうしたことでしょう。イエスの復活の力は、どこにあるのでしょうか?

世界の大きな問題について、イエスの復活の力は一体どこにあるのかと戸惑う時、常に「自分の体」に戻る必要があると思います。自分の体の中に感じ取ったものは確実です。そして、そこからもう一度、心を整えて、再び世界に向かうのです。私の五尺の体の中に、イエスの復活の力が働き、イエスのもたらす平和を保つ時、その平和は身近な人々に及ぶと期待してよいのです。そして、はるか遠く、パレスチナとイスラエルにも、バタフライ効果 (検索してください) のように、かすかな影響を及ぼすかもしれないのです。

「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる。」
                                                                                                               (了)