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三位一体の主日 説教

☆ 説教プラン
キリスト教会の大きな祝日で祝うのは、歴史の出来事です。キリストの誕生、洗礼、受難と死、復活、昇天、聖霊の降臨など、救いの歴史の出来事です。キリスト教でいう「神秘」とは、救いをもたらした出来事のことです。
一方、「三位一体」は歴史の出来事とは言えません。
じゃあ何なんだというのが問題です。神学的祝日と呼ばれることがありますが、難解な神学的理屈を祝う日とは思えません。
祝うのは「救いの現実の全体」だというのが、私の答えです。
この説教はそれを少しでも具現化しようとしたものです。

◆説教本文

三位一体の祝日は、神学理論を学ぶ日ではありません 。「三位一体の神」への親しみを育てる日です。
馴染みの薄い人と親しくなる良い方法は、名前を声に出して、しばしば呼ぶことです。会議で アメリカに行くと、朝の挨拶は「おはよう ございます」だけではなく、「〇〇さん、おはよう ございます」と名前も一緒に呼びます。すると、まだ人柄も経歴もそれほど知らなくても、親しみが次第に増してきます。名前は単なる記号ではなく、その人全体を表すものだからです。
馴染みの薄い人と親しくなるもう一つの早道は、頼みごとをすることです。この知恵を知っている人は多いでしょう 。

「三位一体の神」に親しむということは、まず三位のそれぞれのお方に親しむということです。お名前を声に出して、しばしば呼びましょう。
御父よ、イエス様、聖霊様と。あのお方ではなく、「このお方」に呼びかけているのだという、はっきりとした区別の意識を持って、呼びかけましょう。そして、必要な恵みを 祈り求めましょう。

私もそうですが、だいたいの信者は共観福音書によって養われていますから、イエス様という名前には堅固な実感が伴っています。しかし、御父と聖霊についてはいささかボンヤリしています。名前だけは知っている超有名人のように。いつもはイエス様に 祈り求めている恵みを、たまには御父に、聖霊様に祈り求めましょう。発注先を分散するんですね。失礼なことはありません。三位の神は心が広く、ライバル意識や嫉妬はありません。
私はこの頃、いつもはイエス様に願っていることを御父に願っています。「御父よ、できることなら、 地上にある間は明晰な頭脳を持って生きることができますように。 しかし、 私の願うことではなく、 御心が行われますように」。私は脳梗塞の影響が言動に出るのを恐れています。聖霊様には「便秘の苦しみからお救いください」と祈っています。暑さのやすらい、ではなく。便秘は苦しい!
私は、自分の頭脳が混濁するということ、私が最も恐れていることを御父に祈るようになって、御父への親しみがグンと増しました。ほとんど私とイエス様だけだった世界がずっと大きく、豊かになりました。

私たちは御父や聖霊様にも祈らなければならないわけではないのです。私たちはどんな願いもイエス様に持ち込むことができます。発注先は一本にしても差し支えはありません。 私がそうでした。
しかし、そういう人も、「三位一体の神」に親しむ日ために、御父や聖霊様にも祈ることをお勧めします。専ら 聖霊様に祈っている人は、イエス様や 御父にも祈ることを勧めます。 御父にばかり祈っている人は、イエス様や 聖霊様 にも祈ることを勧めます。

三位のどの方ともお付き合いが深まれば、「三位一体の神」にだいぶ親しんだと言えます。あとは、このお三方がどういう関係にあるかということですが、「非常に仲が良い」ことは確かです。 究極の仲良しです 。それで、今のところは十分ではないかと思います。
いや、それでは満足できないという人は、三位一体の説明を学んでください。いろいろな説明の仕方があります。優れた説明は信仰の助けになります。しかし、「説明」が私たちの信仰の対象ではないのです。