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四旬節第1主日(B年)の説教

マルコ1章12~15節

◆ 説教の本文

〇 イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。 「あなたは私の愛する子 、私の心に適う者」という天からの声を聞いて、イエスはご自分の使命を自覚されたでしょう。しかし、イエスは意気込んで、すぐに宣教に向かわれませんでした。荒れ野に退き、そこで40日間を過ごされました。40はシンボリックな数字です。人間が深い変容を遂げるのに必要な時間という意味です。

〇「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。」

ある聖書には、「霊は"すぐに"イエスを荒れ野に送り出した」とあります(翻訳の底本が異なるのです)。「すぐに」とか「直ちに」という言葉はマルコ福音書に、特に1章に多いのですが、神の国の福音の宣教は急がねばならぬという緊張感を表しています。慌てるということではありません。座り込んで無駄話をしていないで、やるべきことを次々にやって、着実に進んでいかねばならないという感覚です。

"霊"とは、悪霊ではなく、聖霊です。イエスを荒れ野に送り出した ( 追い出した=drive him out) というのは、単に仕事に取り掛かる前にゆっくり準備の期間を取ろうということではなくて、そこで「試み」を受けることは神の国の宣教にとって是非とも必要なことであるという意味を含んでいます。

〇「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」

イエスが荒れ野でサタンから受けられた「誘惑」の内容は、マタイ福音書とルカ福音書にはカラフルに記述されています。しかし、マルコ福音書では、ただ「誘惑を受けられた」とだけ記されて、どういう誘惑であったかは書かれていません。つまり、B年にはマタイとルカの告げる古典的な誘惑 (パンと名声と権力)に限定されず、広く現代における誘惑とは何かを思い巡らすように勧められています。

最近、新聞や雑誌で「ネガティブ ・ケイパビリティ」という言葉をよく見かけるようになりました。精神科医の帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ‐ 答えの出ない事態に耐える力』 (朝日新聞出版) という本に出てくる言葉です。この言葉に、現代日本に強く現れている誘惑の一つが現れているのではないかと思います。
国家としての近代日本の陥った誤りは、答えの出ない曖昧な事態に耐えられず、無理な行動(大技)に出てしまうということが多かったように思います。

戦後の教育改革は、改革(と称するもの)が行われるたびに事態を悪くしてるような気がするのですが、決して改革前が良かったわけではないのです。じりじり悪くなってるような気もする。しかし良いところもたくさんあったのです。その事態を「持ちこたえて」(hold)、一つずつ地道に「改善」しようとはせずに、一気に「改革」しようとして、 (後から見れば) 無謀なことに手をつけた。 今行われている小学校の英語教育も、たぶん事態をもっと悪くするのではないでしょうか。

もっと酷くなるかも知れないと薄々、分かっていても「大改革」をやってしまうのは、「何もしない」ままに月日だけが過ぎていくということに、人間はなかなか耐えられないからではないかと思います。これは現代日本では強い「誘惑」だと思います。

〇 帚木蓬生は精神科医です。神父もそうですが、精神科医に持ち込まれる相談には何とも 手の施しようのないことが多いのです。少なくとも、今日明日にはどうしようもない。しかし、その事態を持ちこたえていけば、いつか何とかなることも多い。無責任な言い草のようですが、これは私もそう思うことがあります。自分は何もしてあげられなかったと思う人に何年か後に会うと、おっとドッコイ生きていることも多いのです。

しかし、精神科医は直接は何も助けてあげられなくても、できることがあります。「見守る」ことです。具体的には、定期的に短い時間でも会って、「あれからどうですか」と様子を聞くことです。帚木先生はこう言っています。

「あなたの苦しい姿は、主治医であるこの私がこの目でしかと見ています」。「ヒトは誰も見ていないところでは、苦しみに耐えられません。ちゃんと見守っている目があると、耐えられるものです。」(上掲書89ページ)

人間はしてあげられることがないと思うと、その人に会うことが辛くなります。手の施しようのない病人を見舞うのが辛いのはそのためです。だから、見舞ったとしても、当たり障りのない気休めで時間をやり過ごしてしまうのです。してあげられることがなくても、どっしりと落ち着いて、「見守っていますよ」という態度を示せること。これが精神科医にとって大事なのでしょう。

〇 精神科医は不眠を訴える病人に睡眠薬を処方したり、看護師に何かを伝言したりして、何かをしている「ふり」ができます。だから、不自然にならずに、「見守る」という態度を取りやすい そうです。
しかし考えてみると、精神科医でなくても、友人や家族の関係でもできなくはないことです。「あれからどうですか」と尋ねてみましょう。もちろん、当人の状況を全く把握していなければ、口先だけの質問です。ある程、状況が把握できていれば、励ましになります。「 いえね、相変わらずの状況なんですよ」 と言える相手がいることは助けになります。会うたびに聞いてくれる人なら尚更です。自分がその身になってみれば、よく分かることです。

見守ってくれる人がいることを感じる人は、無気力になりません。また、状況を打開するために無理なことをしないで、事態を落ち着いて見ながら、日々を耐えることができるでしょう。つまり、「持ちこたえる」ことができるのです。

〇 日々見守ってくれる人がいる人は幸運です。大抵の人は、毎日「どうですか」と聞いてくれる人は、病気で入院した時にしかいません。それも身体の状況だけです。

キリスト者にとって、イエス・キリストは見守ってくださる方です。毎日、「どうかね」と尋ねてくださる方です。見守ってもらえていることを感じる人は、「何をしても同じことだ」と無気力になりません。孤独死をしてしまう人はセルフネグレクトだと言います。つまり、生き延びるためにはまだ手立てがあったのに、その手立てを探し実行することをやめてしまった人だということです。見守る方、「最近はどうかね」と尋ねてくれるイエスがおられるなら、諦めないでしょう。私たちは見守りの目を向けられる人の数は多くありません。誰かにとって、イエスのまなざしの出張所になりたいものです。

☆帚木蓬生の本は一読を勧めます。この記事の内容と関係があるのは第4章、第5章です。
                             (了)