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年間第31主日(A)の説教

マタイ 23章1~12節

◆ 説教の本文(タイプA)

「律法学者とファリサイ派の人々は、モーセの座についている。 だから、彼らが言うことはすべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。」

◎ この箇所は、律法学者とファリサイ派の振る舞いについて警告しています。現代のカトリック教会において、律法学者とファリサイ派にあたるのは(カウンターパート) 、司祭と司教、教皇ですから、この箇所は彼らに対する警告として読まなければならないはずです。そして、言葉で教えることの多いタイプの修道者です。

司祭たち自身もこの箇所について、「そういえば俺にもそういうところはあるような」と思い当たるところはあるでしょう。
しかし、教会のライブの説教でそういう話がされるところは見たことがありません。それには理由があって、小教区のミサの会衆の99.9%までは信徒ですから、そこで司祭たちの自己批判を聞かされても戸惑うだけでしょう。

聖週間の聖香油ミサは司祭たちのためのものですから、この機会に司祭たちが陥りやすい過ちについてリアルな説教がなされることを望んでいます。現実には、「もっと愛しなさい 」、「もっと 献身的でありなさい」という一般的な説教が多いと思います。

「宴会では上座、会堂では上席に座ることを 好み、また広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれることを好む。」

〇 「言うだけで実行しない」とか、「肩に負いきれないほどの重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない」という批判は、司祭や司教だけに特に当てはまるというものではありません。全てのキリスト者の問題です(タイプBの説教としていつか書きたいと思います)。 まあ、司祭は立派なことを言いすぎるということはありますが。

宗教を専門とする人間に特にありがちな問題点は、むしろ後半にあります。
司祭は一般世間ではだいたい何者でもありませんが、教会の集まりでは尊重されることに慣れています。しかし、これは司祭が威張りたがりであるということでも必ずしもないのです。信徒もその方が落ち着きが良いということがあるのではないでしょうか。
昔、電車の中で女子高校生らしい集団が「先輩」、「 先輩」と実に嬉しそうに呼んでいるのを見たことがありますが、印象的な光景でした。
人間には、人を無条件に尊敬する振る舞いをしたいという欲望があるのでしょう。皇室の人々に対する言葉遣いにもそれは感じます。一般社会には、無条件に尊敬を表明できる人はなかなかいませんから。

それ自体は無邪気なこととも言えます。しかし、司祭が一目置かれることに慣れてしまうと、問題になります。批判されることの耐性がなくなるのです。人間は弱いものですから、本来は一目置かれなくても傷つかないはずの人が、侮辱と感ずるようになるかも知れません。

「あなた方は『先生』と呼ばれてはならない。 あなた方の師は一人だけで、後は皆兄弟なのだ。」

〇 神父とかファーザーとか呼ぶカトリック教会の実践は、福音書に正面から喧嘩を売ってるようになものです。牧師たち同士で先生と呼び合うプロテスタント教会も大同小異です。
福音書の記述と教会の実践がこれほど違っている箇所は珍しいと思いますが、これも神父たち自身がどうしても神父と呼ばれたがっているわけではなく、信徒の方がむしろ、それを好むのだと思います。これには一定の合理性があり、福音書に書いてあるからと言って、金科玉条とする必要はないという例だと思います。

プロテスタントではバプテスト教会が、牧師が特権的存在にならないように注意を払っているようです。どんなに説教が優れていて、献身的な人柄であっても、「ここは私の教会だ!」という雰囲気を醸し出すようになると、追い出しにかかると言います。カトリック からすると過酷だと思いますが、この辺りにプロテスタントが生まれ た理由の一つがあるのかもしれません。
カトリック教会なら「ここは私の教区だ!」という意識はむしろ歓迎されるでしょう。

〇 司祭は何だかんだ言っても、陰では、けっこう批判されていることが多いのです。司祭たちも、いろいろ言われていることは意識しているでしょう が、司教はそれも意識しにくくなっていると思います。
私が個人的にあった司教方は、皆さん謙虚な人でしたが、むしろ信徒が司教を批判しないように注意していると思います。どんな謙虚な人であっても、現実に他人からの批判を聞くことなしに、自分を律するのは無理があります。

私が助祭に敘階された時、手伝っていた教会の主任司祭が最後の挨拶について注意してくれました。「最初に体を180度回転させて、司教さまにまっすぐ向いて、敘階のお礼を述べなさい。そうしないと、教会のうるさ方に何を言われるかわからないから」。 私はこの注意に従いましたが、内心では「まさかね」と思っていました。しかし、その後、教会の雰囲気を知るにつれて、この心配は全く根拠がないわけではないと分かりました。

司教について、ビジョンがないとかの漠然とした不満は言われることもありますが、具体的な施策について批判される(不同意が表明される) ことはほとんどありません。私的な集まりでも、司教(団)の決めたことに不同意を表明することはよくないという雰囲気があると思います。

これには確かに良い面があります。プロテスタントの内部の争いを新聞などで見ると、教会はギスギスした雰囲気なんだろうと思います。カトリックにはそういうことはなくて、互いに肯定し合っているように見えます。知らない人は、カトリック教会ではほとんど全てのことがうまくいってると思うでしょう (問題は外の社会にあるだけ)。
しかし、実際にはそんなことはなくて、問題はいっぱいあります。
教区の最高権威は司教です。ということは、教区の問題の最終的な責任は司教にあると思います。司教を批判に触れないようにしておくということは、 問題解決を遠ざけることになると思います。

〇 これは非常にセンシティブな問題です。私も小教区のミサでこれを言うのはためらいます。「読む説教」だから言えるのです。

私は司教方をドンドンと批判すればいいとも思っていないのです。司教にはシンボリックな意味があります。司教や司祭への尊敬を通して、神への尊敬を表しているのです。それによって教会の平和が保たれているという面は確かにあります。平温な時代なら、それもいいでしょう。

しかし 今の日本の教会はそういう状況ではありません。心からの尊敬と正当な批判を両立させるのは、カトリック教会の課題だと思います。

「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる。」