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年間第6主日(B年)の説教

マルコ1章40~45節

◆ 説教の本文

〇 今日の福音朗読は二つの部分に分けることができます。
最初に、イエスは重い皮膚病と対決します。次に、その戦いが一応成功裏に終わった後、起こる問題があります。

病が癒されることは間違いなく良いことであるはずです。しかし同時に、また問題も引き起こします。それはイエスの「神の国」の宣教を阻害するものです。まず、第ニの部分を取り上げましょう。

〇「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。」

重い皮膚病が去った後、イエスは病人に「誰にも何も話さないように」命じます。しかし、彼は、この禁止を真剣に受け止めようとはせず、大いに人々に告げ、言い広め始めました。
イエスが彼にこう命じられたのは、なぜでしょう。神様が自分にしてくださったことを、自分の中で深く受け止め、生き方を変えていくことだったからだと思います。しかし、彼は喜びのあまり有頂天になって、人々に言い広めたのです。

これは人間として自然なことであり、無邪気なこととも言えます。しかし、話して回っているうちに、段々、ただの自慢話になってしまったのでしょう。その結果、彼は確かに健康(の一部)を回復しましたが、それ以上の回心の機会を失ったのです。

「それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいないところにおられた。」

そして、イエスの周りにはただ 「いま困っている」ことを解決してほしい と願う人々が集まりました。「神の国」の新しい生き方について耳を傾けなくなりました。
これは今でも、キリスト教の集まりで問題になることです。あの集まりに行くと病気が治るという評判が立つと、ただ病気が治ることだけを求める人が集まって来ます。その集まりを主催する人は確かに病気の治癒に関心を持っていますが、それと同時に、その治癒をきっかけに生き方を刷新するように願っているのですが。

これはイエスの神の国の宣教が持っている根本的な矛盾です。イエスは病気の苦しみをよく知り、その治癒を願っています。よく言われるように、当時の重い皮膚病は肉体的な苦痛であると同時に、 共同体からの完全な排斥を意味していたからです。

しかし、治癒が成功すればするほど、イエスの周りに集まってくる群衆は肉体の治癒だけに関心を持つようになります。また、イエスが強大な力を持つ人であると知ると、ローマ帝国からの政治的解放のリーダーになることを求める人も集まってきます。
もちろん、神の国の「新しい生き方」についての話を聞こうとする人もいました。福音書の中には、その記事もあります。しかし、今現在の問題を解決してくれることを求める人の数と熱気に圧倒されていったと思われます。

〇 イエスは人間に「生き方」を刷新して欲しいのです。しかし、イエスは慈しみの人であったので、治癒行為を止めて、新しい生き方についての話を聞きたい人だけを相手にすることもできません。イエスは次第に人々の期待に応えることを減らしていったのでしょう。それは、最終的には十字架につながる道でした。

自分たちの期待に応えようとしないイエスへの怒り(フラストレーション)は、十字架の場面での群衆の罵りの言葉に表れています。

「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコ15章31~32節)

〇 しかし、マルコ福音書を読むにあたって私たちはまず、イエスの行った(行おうとした)ことに注目しなければなりません。それがあったからこそ、人々の応答(群衆、ファリサイ派、弟子たち)が問題になるのです。人々の応答は人間的で興味深いので、ついそこを長く話したくなりますが、私たちはイエスの事業そのものに注目しなければいけないと思います。

「御心ならば、私を清くすることがおできになります。」

この病人は、イエスの癒す力に信頼を持っていました( なぜかわかりませんが)。ただ、イエスが治癒を望むかどうかに疑問を持っていたのです。当時、重い皮膚病にかかった人は、犯した罪のために神に罰せられた人と思われていました。正しい人々が治癒を望むのは当然ではなかったのです。

しかし、イエスは即座に「私は望む」とお答えになりました。いま手元にギリシア語の聖書を持っていないので確かめることができませんが、「よろしい。清くなれ」と訳されているイエスの言葉は、「よろしい、私は望む」だと思います。

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、私は望む』と言われると、・・・・・ たちまち 重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」

先週、述べたように、イエスの行動の結果よりも、「イエスが何をなさったか」に注目することが大事です。具体的には、イエスを主語とする動詞に注目することです。「イエスは深く憐れんで」は心の状態ですから、しばらく置くとします。

「イエスは手を差し伸べた」。「イエスはその人に触れた」。そして、「イエスは言われた」。・・・・・ すると重い皮膚病は去りその人は清くなった。

私たちが病気であれ、物質的な問題であれ、困っている人に出会う時、「手を差し伸べること」、「その人に触れること」、「 何か励ましになることを言ってあげること」はいくらか出来るのです。

問題をすべて解決してあげなければ、何をしても意味がない、と考えると、何もできなくなります。私たちは他人の問題を解決してあげることは、ほとんどの場合できないのです。
しかし、その人に手を差し伸べること、触れることは、「 何らかの形で」できます。何か良いことを言ってあげることもできます( ベネディクション=bene diceとは、良いことを言ってあげるという意味です)。
福音書のこの場面を何度もゆっくり読んで、黙想することによって、「手を差し伸べ触れる」ことにはいろんな形があることがわかって来ます。想像力と創造性です。

〇 また、相手が自分のしてあげたことを評価し感謝するかどうかは、あまり考えない方がいいと思います。
悩んでいる人が自分のところに来た時、ただ話を聞いてあげるだけでなく、熱いコーヒーを一杯出してあげることも、その人に「手を差し伸べ触れる」ことなのです。ある神父は、いつでもコーヒーを出せるように、自室にコーヒーメーカーを用意していたと言います。
                              (了)