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年間第20主日(A)年の説教

マタイ15章21~28節

◆ 説教の本文

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」

〇 イエスは、弟子たちを宣教に送り出すに当たっても、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところに行きなさい」と命じておられます(マタイ10章5節)。
ユダヤ人限定は、イエスの当初からの宣教方針であったことが分かります。

しかし、イエスは、異邦人(非ユダヤ人)とは関わらないと決めておられたのではありません。当時のユダヤ教にも、世界宣教のビジョンはあったのです。そのビジョンは、まずユダヤ人の共同体が立派なものになり、その高い生き方に異邦人たちは魅き付けられ、ユダヤ人に合流してくるというものでした。イザヤの預言には、そのビジョンが美しく描かれています。

「終わりの日に、主の神殿の山は 、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。『 主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。 わたしたちはその道を歩もう』と。」 (2章2~3節)

イエスも同じような宣教ビジョンを持っておられたと思います。自分の生涯では、まずユダヤ人に生き方を教えることを主にしようと思っておられたでしょう。
しかし、そこにカナンの女が現れて、病気の娘のために熱心に願います。
イエスはジレンマに陥ったのです。
イエスは慈愛深い方ですから、この切実な願いを退けるには忍びない。しかし一方で、宣教プランをなし崩しにしてはいけないのではないか。

〇 先日、女子サッカーのワールドカップで、日本代表チームがベスト8に進みました。次のスウェーデン戦に向かうにあたって、池田監督は次のようなゲームプランを立てたと言われています。スウェーデンは前の試合で延長戦を戦った上、試合間隔が中三日と日本より一日少ない。疲労が蓄積しているであろう。
そこで日本代表としては、前半を堅守で戦い、 後半にスウェーデンがヘロヘロになったところで攻撃に移るというプランです。結果的には、スウェーデンの前半の猛攻をしのぎ切れずに失敗しました。しかし、こういうはっきりしたゲームプランを立て、それに従って戦うということは間違っていません。
「とにかく全力を尽くすんだ」というだけの方針では、強敵相手に勝ち抜けないだろうと思います。

今度だけを例外にして、病気の娘を癒すということもできたでしょう。しかし、一度 例外を作ると、ズブズブと異邦人に関わらねばならなくなってしまう。そういう心配をした経験は、皆さんにもあるのではないかと思います。

〇 私はギリシャ語ができないのですが、ある注解者は次のように言っています。
イエスの言葉は、自問自答と読むこともできる。「私はイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていないのだろうか?」「子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけないだろうか?」。

この読み方が正しいとすれば、イエスは迷っておられたのだと思います。
その迷う心に決着をつけたのが、カナンの女の次の言葉です。

「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

この発言にはウィットと上品なユーモアがあります。ウィットとユーモアは発言者の才気を示すものですが、それ以上に、彼女の心の余裕、 広さを表しています。この女性は娘のために必死だった。それは確かです。しかし同時に、自分と娘の苦しみが世界の中心でないことも受け入れていました。

私は多動性障害の息子を持つ母親と関わったことがあります。お母さんはもちろん、息子のために一生を懸命でした。が、息子に関わってくれる教師や心理療法士を片っ端から厳しく批評しました。これにはあまり良い印象は持てませんでした。悪い言い方かもしれませんが、関わる全ての人は、この親子のために存在していると考えているのではないかと思いました。教師も 一人の生身の人間であり、自分の人生があるのに。

自分の問題は確かに深刻である。周囲の人に助けを求めるのは当然である。
しかし、世界は自分の問題を中心に回っているのではない。これがよくわかっている人は、人間としての成熟を示すものです。また、万物の創造主である神との関係の成熟を示すものです。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」

〇 イエス様は、ここでカナンの女の信仰を褒めておられます。
マタイ9章では、出血の続く病気に長年苦しんできた女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられます。そもそも「信仰」とは何でしょう。思い込み、思い入れの強さのようなものと考えられてはいないでしょうか。

信仰とは、神と人との「関係性の質」そのものだと言ってよいと思います。
では、この女性と神との関係性で褒められるべき点とは何でしょうか。
病気の娘のために土下座して熱心に願うことができたことは、もちろんその一つでしょう。しかし、神様にユーモアを持って語りかけることができたというのが最も目立つ点です。頭が良かったということではなく、娘の苦しみを癒そうと一生懸命であると同時に、自分たちが 世界の中心ではないことがよくわかっていた。その心の余裕、広さを、イエスは良しとされたと思います。

慈しみと一貫性の間で、どうしたものかと迷っておられたイエスが 破顔して、「いやあー、これは一本取られたな」と言っておられる様子が見えるようです。

〇 教会の歴史の中には、このような苦難のただ中でのユーモアが時々見られます。
アヴィラの聖テレジアという16世紀の人は、教会改革のためにスペインの各地を奔走していましたが、ある時、乗っていた馬車が転倒して、聖女は泥の中に放り出されてしまいました。聖テレジアは泥を払いながら立ち上がり、「まあ、イエス様、あなたのためにこんなに働いている者にこのような仕打ちをなさるとは。あなたに友人が少ないのも無理はありませんわね」と言ったと言います。

私の好きな話は、イスラエル共和国建国時の首相(女性)、ゴ ルダ・メイヤーの言葉です。イスラエルは周囲のアラブ諸国と激しい戦争を繰り広げていました。今のイスラエルは強者で、貧しいパレスチナの民を虐げている印象ですが、建国から20年ぐらいはとても苦しかった。苦しいだけでなく、一度負けたら、地中海に追い落とされてしまうという状況でした。
メイヤー首相は、この恐怖の中にあってこう言ったと言います。

「神様、あなたはユダヤ人のために、蜂蜜とミルクの流れる土地を与えると約束してくださいました。その通り、この土地は素晴らしいところでした。
でも、中近東の中で、ここだけ石油が出ないのはなぜでしょう。」

「蜂蜜とミルクの流れる土地をあなた方に与える」というのは ヨシュア記にある言葉です。今のパレスチナがそれほど豊かな土地とは思えないのですが、3000年前は今とは気候が違ったようです。

それはともかくとして、建国の戦争でイスラエルには人材も足りませんでしたが、資金も不足してました。若きゴルダ・メイヤーは渡米して、アメリカのユダヤ人たちから資金を募らなければなりませんでした。イスラエルの領地に石油が出れば、この戦争はずっと楽だったでしょう。しかし、メイヤー 首相の言う通り、なぜか、この辺りで イスラエルの土地だけには石油は出ないのです。一度負ければ 終わりという恐怖の中で、 彼女がこれを言えたのは、確かに神への信仰だと思います。
ヨルダンにもシリアにも石油は出るのに、イスラエルには石油が出ないということを私たちをあまり意識しませんが、言われてみると「なるほど」で、 思わず笑ってしまいます。
これはブラックジョークではありません。自分が今置かれている状況を客観視することから生まれるユーモアです。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」