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年間第24主日(A)年の説教

マタイ18章 21~35節

◆ 説教の本文

〇 先週に続いて、福音朗読はマタイ18章から取られています。この章の説教は、現代日本の教会では難しいのです。そのことをまず説明したいと思います。

「兄弟があなたに対して罪を犯したら」

〇 この章には、教会共同体内の人間関係についての教えが集められています。今日の福音では、「兄弟が私に対して罪を犯したら」と言っていて、 「隣人が私に対して罪を犯したら」とは言っていません。ここで問題にしているのは、人間関係一般ではなく、信者同士の人間関係であるということです。

ところで、初代教会と現代日本の教会では、教会仲間の人間関係の持つ意味が全く違います。
初代教会は、異邦人の大海の中に浮かぶ島のようでした(その点では日本の教会も同じです)。そして、初代教会の人々は密接な共同体を営み、異邦人に対して「共同体として」証(あかし)になろうとしたのです。つまり、外部の人に対する態度と同時に、「教会員同士の関係性」が福音的であることこそが大事であると考えたのです。これをalternative communityと言います。その証の最も基本的なことはもちろん、兄弟姉妹(信者仲間)が互いに愛し合うことです。

「あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる。」 (ヨハネ13章 34 - 35節)

〇 しかし、この勧めだけならば、綺麗事になってしまいます。共同体には必ず問題があります。権力を巡る争い、去るメンバー、教会員同士の不和があります。それは人生の現実です。その現実を直視して、福音的に乗り越える道を示さなければ、福音書はただのお花畑になってしまいます。18章の5つの教えはそれを扱っています。

(1) 互いに謙遜であること、 (2) 信仰がまだ十分に堅固でない人に対して思いやりを持つこと、 (3)共同体から離れようとする人をあくまでケアすること、 (4) 共同体を傷つけるような行動をする人を諌めること、 (5)何度でも赦し合うこと。

〇 しかし、これらの教えがリアリティを持つのは、教会員同士が日頃から密接な関係を持っている場合です。先週の「忠告、助言」(苦情ではない)もそうです。
普段、関わりのない教会員が突然やってきて、「 あなたに言いたいことがある」と言ったら、「えっ、あなたは一体誰なの」ということになります。話になりません。でも 、日頃から深い付き合いのある教会員が訪問してきて、「あなたに忠告したいことがある」と言ったら、聴く耳を持てるかもしれません。

その深い付き合いには、経済的な関係も含みます。これは現代日本の教会とはっきり違うところです。使徒言行録の次の記述は理想化されているでしょうが、教会員同士の関係が、単に霊的なものだけではなく、経済的な次元を含んでいたことを示しています。

「信者たちは皆一つになって、全ての物を共有し、財産や持ち物を売り、 各々必要に応じて、皆がそれを分け合った。」 (使徒 2章44節)

〇 これに対して、現代日本の小教区は、だいたい典礼を行うための共同体です。それと神父による聖書講座などの宗教教育です。福祉的な活動も行いますが、だいたいは外に向けての活動です。互いに生活資金を融通するというような現実的な関係を持つ共同体ではありません。
現代日本のキリスト者は、経済が関わる事柄で信者仲間と関わることは、むしろ避けようとするのではないかと思います。例えば、聖堂を建てようとすれば建築家や施工会社には、信者でないところが選ばれることが多いのではないでしょうか。お金が絡むので、信者から選定すると癒着、痛くもない腹を探られる恐れがあることも理由の一つです。

これは良い悪いではなく、これが日本の教会の共同体なのです。教会員同士の関係が良くも悪くも薄いので、スキャンダルが少ないという利点もあります。その反面、マタイ18章の勧めは現実性(迫力)を持てないのです。

説教をする場合、初代教会の共同体について説明して、「当時はこういうことがなされていた」と話すこともできます。確かに勉強にはなります。しかし、現代日本で初代教会のような共同体を形成することは容易ではないのですから、聞く人にとっては、「 昔はそういうことをしてたんだね。素晴らしいね」 というおとぎ話になると思います。

そこで、日本の教会でマタイ18章が説教される時には、教会員同士の関係に限定せず、広く人間関係のこととして説教されることが多いと思います。そうすると味は薄くなってしまいますが、説教にリアリティ、現実性を持たせるためにはやむを得ないのです。

というわけで、やっと今日の福音です。息切れしてきたので、短く話します。

〇 漱石の『吾輩は猫である』の中に、苦沙弥先生が 自分の顔を鏡で見て、そのみっともなさにあらためて驚くというところがあります。

「ややあって主人は 『なるほど汚い顔だ』と独り言を言った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から言うと確かに気違いの所作だが、言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己の醜悪なことが怖くなる。人間は吾身が恐ろしい悪党であるという事実を徹骨徹髄に感じたものでないと苦労人とは言えない。苦労人でないと到底解脱はできない。」

猫は諧謔味に富んだ小説ですが、ところどころに人生の深い真実を含んでいます。「自分の顔の醜さを改めて悟る」というところを、「自分はこれまでの人生で、いかに多くの悪事を行ってきたか」を改めて悟ると考えると、今日の福音になります。
刑務所に入ったり警察沙汰になったりすることは少ないでしょう。しかし、そうではなくとも、私たちは結構ひどいことをしているものなのです。そのひどいことが全て公の場で弾劾されていたら、私たちは生きてこれなかったでしょう。どういう訳か、私たちは赦されてきたのです。

「私は今までの人生で一度も人に後ろ指を指されるようなことはしたことはない」と言い放つ老人に会ったことが何度かありますが、尊敬できない老人と思いました。この人は無駄に年を取ったのだと思いました。

これはヨハネ福音書8章の「姦通の女」の物語を思い起こさせます。居丈高に、荒々しく女性に詰め寄るユダヤ人たちに、イエス様は言われます。
「あなたたちの中で罪のないものが、まず、この女に石を投げなさい。」
すると、「人々は年長のものから、一人また一人と、その場から立ち去って行った」 と記されています。

借金にせよ、姦通行為にせよ、具体的にどう処理するかは色々でしょう。
いつでも借金は棒引き、不倫は無罪放免ではないかもしれない。しかし、その人に対して、居丈高に、荒々しく振る舞うことは、全く福音的ではありません。自分が、刑務所には入らなかったにせよ、どれだけひどいことを人にしてきたか、それを赦されてきたかを思うならば、そんな態度は取れないはずです。

「自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。」 (第一 朗読)