安倍家岸家考⑦(ヤング安倍晋三~キャンパス編)

晋三はエスカレーターでそのまま成蹊大学法学部に進むが、高校時代の同級生は当時の晋三の特に気負う感じのない性質から必然的にそうなったと見ている。
高校時代の同級生・金子浩之(大学は別)は「兄貴(寛信)も普通に成蹊大に行ったし、彼も普通に、なにか自然に成蹊大に行った感じです。結局は16年も(成蹊学園で)過ごして、当時の知り合いをいまも大事にしていますから、成蹊学園が好きでしょうがないんじゃないでしょうか」(青木④p247)と振り返っている。
小学校から高校まで同窓であった野崎康彦(同じく大学は別)も(医者や)「芸術系の大学に通いたい人は一生懸命に勉強して受験をする。でも、そういじゃなければそのまま成蹊大に行けばいい、という感じがあるんです。のんびりした雰囲気ですから」(青木④p247)と成蹊学園の雰囲気を語っている。野崎は晋三についてはこうも言っている。「別に成績が悪かったわけじゃありません。ただ、決して優秀でもありませんでしたからね…」(青木①p248)。特別に成蹊にこだわりがあった訳ではないが、「お父さん(晋太郎)たちと話して、『中途半端にほかの学校に行くくらいなら、成蹊大でいいじゃないか』ということになったと、そう(晋三から)聞きました」(青木④p248)と振り返っている。ただし進学については別の話がある。学校の成績について特に干渉していなかった父・晋太郎であったが、いざ大学受験期が迫ってきてから晋三に「東大に行け」「大学は東大しかないんだ」とプレッシャーを与えていたことがあったらしい(野上③P62-63)。言うまでもないが、敬愛する祖父(岸)もその弟(佐藤)も父も皆東大出であり、「大学は東大しかない」は内心さすがに堪えたのではないだろうか。

大学生になっても晋三青年は中高時代と変わりなく周囲からはそれほど目立つ存在ではなかった。まず学業であるが、ゼミ担当であった政治学者(行政学)の佐藤竺は釣り同好会の顧問でもあったこともあり兄の記憶はあるが(前章参照)、弟の印象は薄い。佐藤曰く「別に成績が悪いわけではないが、まったく普通の学生で本当に目立たなかった。卒論も『これは出来がいい』と思ったものは保存してあるが、その中に安倍君のはない。薄い論文だった印象が残っている」(野上①P98-99)という。同じゼミ生だった今井真紀(旧姓・市村)の印象も薄く、「申し訳ないのですが、思い出そうとしても本当に安倍さんのことはこれといって浮かばないんです。目立たない静かな学生だったという記憶しかないですね。政治家の息子とは皆知っていましたが…」(野上①P99)と証言している。
青木の取材でも同様で、ゼミの晋三を知る成蹊大の元教員によると、晋三がゼミで何か発言をしたり議論をリードしていた記憶は全くなく、他のゼミ生に聞いても同様の印象しかなかったという(青木④p254-255)。ゼミ担当ではなかったが、当時同じ法学部の教授であった加藤節(政治哲学)は必修の政治学史を担当していたが、安倍晋三という大学生は「まったく記憶にない」(青木④p252)という。

晋三はサークルはアーチェリー部に所属していた。実力は「正選手ち補欠の間ぐらい」であったが、「週四日の練習はサボらなかったし、四年間やり通し」たそうで(野上①P101)、四年生のときには体育会の会計局長を務めていた。その時に体育会委員長であった武藤武司によると、晋三は少ない予算を「うまくやり繰りしていて、内部に不公平感を抱かせないようにしていた」(野上①P102)そうで、この方面では一目置かれていたようである。武藤から見て晋三は「細かいことにもよく気づくし、敵もおらず人から好かれるタイプ」であったそうだ。
晋三が赤いアルファロメオに乗っていたという話は有名だったようだが、車は兄との共有で、体育会系所属の学生は大学の駐車場が使えたため乗り入れてた(青木④p251)ということで、有名政治家の息子という一般的にイメージされるような派手なキャンパスライフを送っていた訳ではないようだ。嗜んでいた麻雀は点3か点5という一般学生と同じ低レートで熱くなっていたそうで、これは父親(晋太郎)の「余分な金は渡すな」という意向で久保ウメに小遣いは厳しく管理されていたからでもあったようだ(野上①P104)。外車を学校に乗り付ける学生が「マージャンに負けたら帰りの電車賃がなくなる」(野上③P68)と必死に打っていたというのは微笑ましいが、こうした金銭感覚が体育会の会計に役立ったのかもしれない。

キャンパスでは、のちに右派のプリンスと目されるような片鱗も見せない大学生の晋三だが、唯一そうした一面を見せる相手がいた。野上の取材を受けた秋保(あきう)浩次である。秋保は晋三と「一番違いの学籍番号が縁となり、ゼミや映・仏語の語学をはじめ、すべての授業を一緒に受け」「しょっちゅう政治を肴に議論し」ていたという(野上①p95)。晋三が秋保に語る政治思想に関する原点はやはり祖父であり、世間の岸への低評価について「ことあるごとに『なぜなんだ』と口にしてい」たという(野上①P96)。晋三との議論で秋保が印象深かったのは、憲法問題で口調激しく以下のようなことを言ったことがあるという。
「秋保ね、今の憲法は戦勝国が敗戦国に、戦勝国を見習えって一方的に押し付けたものなんだ。そう思わないか。違うか!その象徴がやっぱり(戦争放棄などをうたった)第九条なんだよ。九条が言わんとすることは、日本はまったく軍備丸裸でいろ、ということじゃないか。近隣諸国の善意だけを頼りに果たしてこの国が守れるのか。生きていけるのか。そんな夢見たいな話ってあるか!」(野上①P97)

なかなかな大演説であるが、どこか近年の匿名ネット論客の物言いをさきがけたような印象がある。やや失礼な寸評をしているような気もするが、失礼ついで言うなら、高校時代の教師に突っかかった時からあまり成長は感じられない。祖父を執拗に批判し続けた左派への懐疑という原点からブレないのは大いに結構なのだが、その懐疑から思想が新たに発展しているようにはあまり見えない。
大学生の晋三はどのような本を読んでいたのだろうか。『「保守革命」宣言 アンチリベラルへの選択』(栗本慎一郎・安倍晋三・衛藤晟一著、現代書林)という本が1996年に刊行されているが、2回目の当選を果たしたばかりの衆議院議員・安倍晋三は自らの大学生時代を次のように振り返っている。
「その頃ではないでしょうか、『正論』とか『Voice』とかの保守系雑誌がいくつか出始めたのは…。『諸君!』は既に出ていましたが、私としてはそんなものを読む中で、戦後の教育の中で教わった歴史観とは、特に近・現代史において、違う歴史観があるんだということに気付いていったわけです」

普段周囲には政治や思想について関心なさそうに振る舞っている大学生が実は『正論』などのような保守系雑誌を熱心に読み耽っているというのは微笑ましい光景ではあるが、せっかく祖父への敬愛から興味を持った政治思想であるならば、もう少し関心事の幅を広げてみようとは思わなかったのだろうか、という残念さはある。

「安倍家を古くから知る関係者」は、晋三の岸への想いは「『おじいちゃんを褒めれば、お母さんが喜ぶ』」という幼少の記憶」が影響しているのではないか、と見ている(野上①P97)。関係者は続ける。「幼少時代から晋太郎さんは、晋三君を大変可愛がっていました。一方、洋子さんはどちらかというとお兄さんの寛信君のほうを可愛がっているように見えました。ところが、兄弟はといえば逆で、寛信は父親になついて、晋三君は母親になついているところがありましたね」(野上①P97-98)。家庭内のそれぞれの愛情の方向というものは実に微妙だ。
晋三と母・洋子の関係でいうとゼミの同窓だった高山和彦が興味深いエピソードを話している。「結婚式の出席依頼のために安倍の家に電話をした」際、本人不在で電話口に出た母親から「おめでとうございます。晋三を出させますから」と、本人への確認もせずに即答されたことに驚いたという(野上①P98)。母子の関係と同時に、家の中ことは全て母親の一存で決定されてしまっているのであろうことが垣間見える。野上はこうした状況を踏まえて、晋三が「岸に強く傾倒する」のは「幼少時代、兄を可愛がる洋子の姿に、本能的に『自分も』と母の愛情を求めたことが一因」(野上①P98)と推量している。野上はこの見立てを映画『妖怪の孫』(監督・内山雄人、2023年)でも語っており、晋三が自らのアイデンティティを祖父・岸に求めるのは子供の頃愛情を満足に受けられなかった母(別章で後述するが、洋子の父・信介への尊崇の念もかなりなものである)への愛憎の裏返しではないかと説明している。

親子愛の本当の事情については本人以外は知りようがないが、ここまで確認してきた晋三の安倍家の中での生活と祖父を原点としながらも政治家としての祖父やそこから広がる政治思想への探求にあまり広がりが見られない理由を野上の見立てで説明すると腑に落ちるものが多く、筆者も概ね野上の考えに同意する。

因みに晋三が大学卒業後の進路を決めるような頃になって、岸は急に「官僚にならんか」と声をかけたのだそうだ(野上③P72)。しかし、いくら岸の孫であっても国家公務員上級試験に王道はない。晋三はこれには相当参ったようで、祖父にそう言われたことについて「オレは官僚には向いてないんだよな」と学友に愚痴っていたという(野上③P73)。東大へ、官僚に、と間際になって突然持ちかける父と祖父。いかにもエリート家父長が無神経に言いそうなことではある。
それまで周囲に政治家になると明言したことのない晋三だったが、部活動の同級生によれば、「安倍君から『政治家を継ぐ』と、はっきり聞かされたのは卒業間際だった」のだそうだ(野上③P73)。なるほどたしかに政治家になる原点は祖父・岸信介だったのかもしれない。

最後に晋三とよく似た家族構成を持った政治家との比較をしてみたい。その政治家とは麻生太郎である。母方の祖父に偉大な総理経験者を持ち、幼少期に母の愛情を政治に奪われた経験を持つ二人である。母・和子に『父 吉田茂』(新潮社)という著書があるが、そこに麻生は「祖父・吉田茂を想う」という一文を寄せている。
父・麻生太賀吉と和子は吉田茂の政治活動のために生活のすべてを尽くしていたため、太郎は両親と接する機会が極めて少なく、停学、謹慎、ケンカで怪我でもしない限り顔を合わせることがなかったという。そんな少年時代を送った太郎は海外留学から帰ってきた際、祖父にこう啖呵を切ったという。
「戦後の日本に吉田茂が貢献したっていうけど、その吉田茂がまともにやれたのは、間違いなくうちのオヤジとおふくろが側でずっとついていたからじゃないか。そして、あの二人がおじいさんの側にいられたのは、俺たちがまともに育ったからだろう。だから俺も、日本の戦後復興のためにずいぶん役に立ったんじゃないか」
あの憎まれ口は天性のものなのかと感じさせる物言いであるが、これを聞いた吉田は「目を点にして、ただ黙って頷いて」いたという。サンフランシスコ講和条約締結での渡米の際に太郎は「おじいチャマがママを取っていくから、ママがいつも家にいない!」と詰め寄ったこともあったそうだ。
政治に家庭の団欒を奪われたという点において、麻生太郎と安倍晋三の境遇はよく似ている。しかし、安倍には麻生のようなこうした明け透けに物を言える明るさがない。吉田家・麻生家についてはこれ以上深入りしないが、この違いは岸家・安倍家との違いにもつながるのではないかということを念頭に両家の論考をさらに進めていく。
つづく

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