安倍家岸家考⑥(兄の存在)

本稿シリーズ2回めにも書いたとおり、安倍家には長男・寛信がいる。祖父・安倍寛、岸信介の字をそれぞれもらっており、名前からして長男への期待は明らかに高い。
寛信と晋三はふたりとも成蹊学園を小学校から大学まで学び舎にしている。小学校に上がる前(5歳時)、寛信は全寮制(ただし土日は自宅)のインタナーショナルスクールに両親の意向で入らされている。しかし、いきなり放り込まれた外国の子ばかりの環境に馴染めず登校を強固に嫌がった結果、半年で寮生活から開放された(寛信⑧p23-24)。成蹊を勧めたのは岸信介で、理由は「小学校から大学まで一貫教育だから、伸び伸びできる」(寛信⑧p24)からであったという。そのおかげで小学校からの寛信は自由に過ごすことができ、その様子から2年後弟の晋三も成蹊への入学となった(寛信⑧p25)。母・洋子によれば、「中学くらいで転校させることを考えてみたのですが、父に『成蹊というのは一貫性があるのだから、何もやたら学校を変えることはないんじゃないか』と言われ」(「息子・安倍晋三 自民党幹事長の娘、妻、そして母として」文藝春秋2003年11月号)たことでそのまま大学まで進むこととなったという。
養育係であった久保ウメは寛信のことを「おっとりした物静かな子ども」(寛信⑧p44)と振り返っている。寛信はそのことを「父・晋太郎がはじめて選挙に出たころは、ちょうど私は5歳くらいでした。物心がつくそれくらいの次期まで母に育てられた私は、岸家にとっても安倍家にとっても初孫だったこともあり、少し甘やかされて育った」(寛信⑧p44~45)と自己分析している。この時晋三は3歳。母の愛を受ける時間差としてこの次期の2年差は非常に大きい。ウメは寛信のことを「何もかも僕のものという感覚があった」(寛信⑧p45)とも評している。「おっとりした」性格にしてこの「感覚」は長男としての圧倒的な精神的余裕であろうか。兄弟の性格の違いをウメは「晋ちゃんは連れ込み専門で、寛ちゃんはお出かけ専門」(野上①p75)と評している。「連れ込み」というのは友人たちを自宅に呼び例の映画監督ごっこをするなどの遊びに興じていたのに対し、「お出かけ」とは魚釣りが趣味であったことを指す。寛信の釣り好きは祖父(岸)譲りで、寛信にとって祖父との思い出は釣りを介してのものが多く、晋三も同伴することはあったが関心は示さなかった(寛信⑧p198~200)。岸の釣り好きも子どもの頃からで(岸⑪p35)、岸の長男・信和は父が「多摩川の是政」へよく出かけていたことを振り返っている(岸⑪p206)。寛信の釣りはその後一生の趣味となる。

寛信は大学は経済学部を選ぶ。理由は「海外でビジネスがしたいと思うようになっていた」(寛信⑧p78~79)から。この頃には政治家を継がない決意をしていたようだ。寛信は「安倍家の長男という意識は物心ついたときからつねにあ」ったが、「それと政治家になることとは別のものと思って」おり、期待する「支援者からの声」を知っていたものの、「内心は政治家になるつもりは」なかったという(寛信⑧p78)。
寛信は晋三ともに高校生頃から父・晋太郎の選挙区の手伝いをはじめ、「大学に入ると、街宣車に乗って街頭演説をするようにな」っていたが、「どちらが父の後を継ぐのかは、はっきりと決まっていなかった」(寛信⑧p77)という。兄弟間でも将来の話(どちらが継ぐか)はしなかったという(野上①p89)。その頃、寛信は父・晋太郎に「『政治に興味はあるか』と訊かれて『僕には向いてない』と直接答えた」ところ、晋太郎は「それ以上、何もい」わず、「母からも、祖父からも政治の道を勧められたことは」なかったという(寛信⑧p79~80)。
政治家を継がなかった理由として寛信は「大学に入ったころから、弟と一緒に親父の選挙を手伝うようになりました。応援企業のところへ挨拶に行ったり、親父の代理で会合に出席させられたり。僕はそんな手伝いが嫌で嫌でしょうがなかった。もう世の中、あれほど嫌なものはないというくらい。就職してからも、雪のなか、窓を開けっ放しにした選挙カーに乗って選挙活動をしているうちに風邪を引きました。しかも、そのときウィルスが脊髄入って体をこわしましてね。リハビリも含めて半年も会社を休むはめになりました。何事もいやいややるのと、必死でやるのとでは違うということでしょうね。必死でやっていたら病気の方が逃げていったのかもしれませんが…。それでもう政治家稼業だけはやりたくないと思いました」と答えている(野上①p88~89)。
成蹊大学で晋三のゼミ担当教授で釣り同好会の顧問でもあった佐藤竺は寛信に「君は政治をやらないのか」と聞いたところ、「あんなもの誰がやりますか。私は政治なんて大っ嫌いですから」と答えたという(野上①p89)。寛信の決意は固かったようだ。
因みに寛信が罹ったのは「ギラン・バレー症候群」(寛信⑧p212)で、寛信は自著では病気で「諦め」たのであり、「政治が嫌いという事ではな」いと述べている(寛信⑧p214)。今現在(2020年)の心境として理解すべきであろうか。

政治家稼業としてのプレッシャーが厳然と存在しながら、安倍家・岸家の男たちは妙に淡白なところがある。寛信は父・晋太郎には「『おれは自分のことはひとりでしたものだ』という自負があり」「決断できる人間になってほしいと思って」おり、「その決断を尊重してくれていた」(寛信⑧p80)と振り返っている。また、就職先の会社を決めあぐねていた時には「何をいってるんだ。おれは、ランドセルを背負っているときから、代議士になることを決めていたぞ」(寛信⑧p80)と発破をかけられたそうで、稼業を継がない長男との親子の心の溝ができることはなかったようである。成人になってからも寛信は晋太郎とゴルフを「よく一緒にプレーし」(寛信⑧p198)ていたそうである。
あまり関係ないかもしれないが、佐藤栄作(寛信にとって大叔父にあたる)の長男・龍太郎は政治家にならず、次男・信二が地元を引き継いでいる。佐藤家の場合、父・栄作の勧める縁談を断って龍太郎は恋愛結婚を選び勘当されてしまうが五年後勘当は解かれ親子は和解する(『佐藤寛子の「宰相夫人秘録」』朝日新聞社・1974年)。雨降って地固まるなのか、その後、栄作と龍太郎の仲は良好で、『佐藤栄作日記』に龍太郎は頻繁に登場し、ゴルフにもよく同伴している。相関関係がある訳ではないが、遠くない親族で起きたこととしては、どこか意識してしまう事例である。

話を安倍家に戻す。寛信はその後三菱商事に就職し、海外勤務を多くこなし、各地の支社長を勤め、三菱商事パッケージング代表取締役にまでなり、現在はフマキラーの社外取締役に就いている。父の死後、選挙区は晋三が継いだが、晋太郎の葬儀の挨拶は寛信がした(寛信⑧p78)。寛信には長男・長女が一人ずつおり、長男は商社、長女は文化事業の仕事をしているという(寛信⑧p217)。昨今週刊誌報道などで、この長男の出馬が取り沙汰されたが、そのようなことはなかった。選挙地盤としての安倍家は消えゆく方向にあるが、安倍家がなくなった訳ではまったくない。
(つづく)

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