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部屋の鍵がない
ちょっと待って。
私は嫌な予感に包まれながらもう一度ゆっくりと鞄を探る。スマートフォン、お財布、スケジュール帳、化粧ポーチ、ヘアバンド、ハンドタオル、カードケース、筆記具。
待て待てもう一回。
スマートフォン、お財布、スケジュール帳、化粧ポーチ、ヘアバンド、ハンドタオル、カードケース、筆記具。
ジワリと汗がにじんでくる。焦る心をなだめすかすように深呼吸を一息。
落ち着け落ち着け。別のところかもしれない。
上着の胸ポケットを探る。何もなし。上着の左右のポケットを探る。何もなし。スカートにはポケットは無い。
いったんゆっくりとアパートの敷地の門のところまで地面を見ながら慎重に歩いてみる。何もなし。
もう一度深呼吸。
昼前にアパートの部屋を出た時のことを思い出してみる。
彼と一緒に私の部屋で起きて、パンを二切れトースターで焼いて二人で食べて、シャワーを交互に浴びて歯を磨いて、トイレに行ってから服を着替えて、、、問題はそこからだ。
彼のキャリーケースを部屋から出すのに大変そうだから、と私が先に部屋を出た。うん、そこは覚えている。
彼がキャリーケースを転がしながら部屋を出るときにドアが閉まらないように支えていたのだ。
さあ、ここだ。問題はこの瞬間だ。
『どちらが部屋の鍵を閉めた?』
順番をよく思い出そう。
彼が靴を履くのに邪魔だから、キャリーケースを先に出した。
私はそれを受け取って、片手でキャリーケースを、片手でドアを押さえながら彼が出てくるのを待っていた。
彼が出てきたのでドアから手を放して、キャリーケースを私が持ってドアから離れた。
…部屋の鍵を閉めたのは、彼のほうだ。
……そして私は、その鍵を受け取った記憶がない。
………彼は今、インドネシアに向かう飛行機の中だ。
…………終わった。
私の部屋の鍵を持って、彼はインドネシアに行ってしまった。
…さあこれからどうしよう。財布の中を見る。1万円入っていた。
とりあえずふらふらと駅前に戻って、お気に入りのカフェでショコラケーキとダージリンティーを注文し、窓ぎわの一人席に腰かける。
一万円が9180円になってしまった。
彼がインドネシア旅行から帰ってくるまでは1週間。9180円あれば漫画喫茶やカプセルホテルなら行けるかな?
いや、そもそも私にはクレジットカードがある。限度額は確か学生は10万円だったはず。あー、でも今月はけっこう洋服を買ってしまった気がする。そもそも余計な出費過ぎる。
私は一人頭を抱える。ああ、この感情を誰かと共有したい。
スマホを開く。彼氏は飛行機の中だしおそらくメッセージはすぐ見られないだろう。それにせっかくの高校時代の友人との旅行なのだ。出だしから邪魔はしたくない。
インスタに上げる話でもないなあと思い、ツイッターを開いて「鍵をインドネシアに持っていかれた…」と呟こうとして思いとどまる。
全世界に発信するのはさすがにマズいのではなかろうか。
誰か友達の家に泊めてもらおうか。でも今は長期休みだし、みんなどこかに出かける用事があったら悪いしなぁ。LINEグループにメッセージ入れて交代で泊めてもらおうかな。ああでも彼氏が出来たってまだ誰にも言ってないんだよね。こういう形でカミングアウトするのもなあ。
他の人はこういう時どうするのかと「鍵 なくした」で検索してみる。
なるほど鍵屋さんか。鍵交換10800円…。現金は足りないけど、背に腹は代えられないし、頼むしかないかな。
いやちょっと待って。こういう時って勝手に鍵変えてもいいものなの?
大家さんに一言断ったほうがいいのでは?
あれ?そもそもあのアパートって隣に大家さん住んでなかったっけ?引っ越しの時に挨拶したような…。
ショコラケーキをすっかりぬるくなっていたダージリンティーで流し込み、再びアパートへ戻る。
普段出入りしている門の反対側に回って、隣接する一軒家のチャイムをどきどきしながら鳴らす。チャイム鳴らすのなんて初めてかもしれない。大家さんも旅行中だったらどうしよう。
そんな心配をよそに幸運にも在宅だった大家さんは、事情を聴いてあっさりと合鍵を貸してくれた。
…助かった。本当に助かった。
ガチャリとドアを開けて目の前に広がる住み慣れた(と言っても4月に入居してまだ2か月くらいだけど)わが家が天国のように思えた。
今ならしまりの悪い洗面所の窓も愛せるような気がする。
1週間後、びっくりするほど黒くなって帰ってきた彼を成田に迎えにいった私の第一声は、もちろん「部屋の鍵返して」だった。
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