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三十五年目のラブレター 第8話

「川畑さん、少し遅くないですか?」
 詩穂里がそう言いだしたのは、川畑がチョコを連れて出てから一時間ほど経った頃だった。実は島崎もそんな気はしていたのだが、何しろチョコが普段どんなルートでどれくらいの時間散歩しているのかわからなかったため、さほど気にしてはいなかったのだ。
「いつもはどれくらいで帰って来るの?」
「二十分くらいです。のんびりしたときでも三十分くらいで戻って来ます。もうそろそろ一時間経ちますよね? 何か不審人物でも見かけたんでしょうか」
「うーん、あいつのことだから迷子になってる可能性もあるな。あいつ、本当にありえないくらいの方向音痴だからなぁ」
 島崎がポケットからスマートフォンを出すと、「チョコは一人でも帰って来られますから、川畑さんが方向音痴でも大丈夫なはずですけど」と詩穂里が首を傾げる。
 その時、ちょうど玄関先でチョコの声がした。島崎と詩穂里は顔を見合わせて安堵の表情を浮かべた。
 詩穂里が玄関を開けに行き、「おかえりなさーい」という声が島崎の元へ届く。
 どうせ迷子になってチョコに連れて来てもらったんだろうな、などと思っているところへ、詩穂里が慌てて駆け込んできた。
「島崎さん、チョコが一人で帰って来たんですけど」
「え? どうなってんだ?」
「さあ……ちょっと連絡とって貰えますか?」
「了解」
 川畑の番号にかけることは滅多にない。いや、初めてではないだろうか。番号を交換してみたものの、それ以来一度もかけたことはなかった。
 あいつどこで何やってんだ、と思った瞬間、部屋の中でスマートフォンの着信音が響いた。振り返ると、なんとそこには川畑のハンドバッグが。
「あのバカ……手ぶらで行ったのか!」
「島崎さん、これ!」
 呼ばれて行ってみると、チョコの首輪の部分に水色のシュシュが挟み込んである。
「これ、さっき川畑さんに貸した私のシュシュです」
「自分でこいつを外して、わざわざチョコの首輪につけて放すか? いや、もしかするとこれは……」
 島崎の中で何かが音を立てて壊れた。ひょっとして俺たちは前提を間違っていたのではないか?
 彼はアートギャラリーナカハシの方に詰めている仲間に連絡を取った。
吉井よしいさん、島崎です。多分ですけど、川畑が犯人に連れ去られました」

 ***

 ギャラリーの方に詰めていた捜査一課の吉井が、中橋邸の方へ回って来た。彼はアラフォーと呼ぶにはまだ少し若すぎるくらいで、川畑の先輩でもある。
「どういうことだ?」
 詩穂里に案内されてクリムトのある部屋に落ち着いた吉井は、開口一番、島崎に説明を求めた。
「中橋さんにとって価値のあるものは、確かにシャガールやモディリアーニじゃなかった。でもクリムトですらなかったんですよ。一番大切なのはお嬢さんの詩穂里さんだったんです」
 眉間に皺を寄せる吉井の横で、詩穂里が口元を両手で押さえる。
「『最も価値のあるものを奪う』というのは『詩穂里さんを誘拐する』という意味だった。それがちょうど展示会と時期が重なって、我々が勝手に美術品だと思ってしまった。自分も川畑も、犯人の裏をかいてクリムトを見張っていたつもりが、完全にポイントのズレたところを監視していたんです。そして近所の様子を偵察に行くと言う川畑があまりにも警察然としていたのを憂慮して、詩穂里さんが服を貸してくださった。詩穂里さんの服で犬の散歩に出かけた川畑を詩穂里さんだと勘違いした犯人が、川畑を連れ去ったのではないかと」
「何故そう思う?」
「これですよ」
 島崎は詩穂里の水色のシュシュを吉井に見せた。
「川畑はいつも使っているバレッタが壊れてしまって、今日はただの黒ゴムで髪をまとめてたんです。それで詩穂里さんがこのシュシュを貸してくれた。ところがこのシュシュが、戻って来た犬の首輪に挟まれていたんです。犯人が『娘を預かった』と意思表示しているように思えるんですが」
「なるほど」
 島崎の話を聞きながら徐々に表情が険しくなっていった吉井は、鼻から息を吐くとゆっくり腕を組んだ。
「ごめんなさい、私が余計な事を言ったばかりに」
 泣きそうになっている詩穂里に「いえ、詩穂里さんが無事で何よりでした」と吉井が返す。
「もちろん心配ではないと言えば嘘になりますが、川畑も訓練を受けた警察官です。恐らく自分でどうにかするでしょう。川畑が詩穂里さんではないことを犯人に気づかれると厄介です。申し訳ないんですが、川畑が解放されるまで詩穂里さんは外出を控えて貰えますか? フォローはさせていただきますので」
「フォローなんてとんでもありません。私に手伝えることがあればおっしゃってください。川畑さんは私の身代わりになったんですから、それくらいさせてください」
「ありがとうございます。とりあえず――」
 吉井は顔を上げると、視線をクリムトへと移した。
「まだ、完全に狙いが詩穂里さんであると確定したわけではないので、はっきりするまではギャラリーの方とこちらのクリムトは引き続き監視させていただきます」
「はい、よろしくお願いします」
 吉井が視線を送って寄越すのに島崎は同じく目だけで答えた。
 吉井の目はこう言っていたのだ。『最も大切なものを奪う』というのは『詩穂里さんを誘拐する』ではなく『詩穂里さんの命を奪う』ということではないか、それは『川畑の命が危険に晒されている』ということではないか、と。

 ***

 遅い。川畑が連れ去られてかれこれ二時間が経過している。普通に考えたら犯人から何らかのアクションがある筈だ。
 ところが、電話の一本もかかってこない。ギャラリーの方にも自宅の方にもだ。もちろん、中橋のスマートフォンにも何の反応もない。
 川畑が連れ去られたというのは自分たちの勘違いなのか。単に川畑が迷子になっているのか。いや、いくら方向音痴でも住宅街で三時間も迷子になるとは考えにくいし、もしそうならシュシュをチョコの首輪に挟む理由が見つからない。島崎はただ、成す術もなく苛立ちを募らせていた。
「もしかしたらメールが来てるかもしれません」
 詩穂里が小型のノートパソコンを持ってきて、アートギャラリーナカハシのホームページを開く。このホームページも機械音痴の父に代わって、彼女が作成したものだ。中橋の趣味に合わせてか、全体的にアールヌーヴォーの様式美が漂うホームページとなっている。
 いくつかメッセージを確認したところで、詩穂里が「あっ」と声を上げた。島崎と吉井が身を乗り出す。
「ありました!」
 何もメッセージは書かれていない。ただ、あざ笑うかのように、後ろ手に拘束された川畑の写真が添付されていた。
「島崎さん、川畑さんです! 私がさっき貸した服を着てる、間違いありません」
 くそっ、俺がついていながら――島崎は奥歯をギリギリと噛んだ。写真の中の川畑は半分うつ伏せになったような状態で表情がよくわからない。まさか死んだということはないだろう。殺す気ならこんなふうに拘束したりしない筈だ。
「詩穂里さんでなくて良かった。彼女なら大丈夫。俺が保証する」
 島崎は自分に言い聞かせるように言った。が、詩穂里は動揺してチョコを抱いて泣き出してしまった。
「良くなんかないですよ! 川畑さん、私の身代わりになったんですよ! どうしよう、どうしよう、チョコ」
 とは言え、これで犯人の狙いも明確になった。ギャラリーの方もここ中橋邸ももう狙われることはないだろう。島崎はざわつく気持ちを必死で抑え、冷静を装った。
「幸い川畑はハンドバッグを持って行かなかった。警察手帳や手袋、スマートフォンなどもハンドバッグに入ったまま。完全な手ぶらだったのが幸いして、詩穂里さんと勘違いされてますね。犯人にはこのまま勘違いしておいて貰おう」
「川畑さんが私じゃないってバレたらどうなっちゃうんですか」
 その質問には吉井が応えた。
「それはわかりません。とにかくバレないようにするしかない。エコール・ド・パリは中止していただきましょう。娘が誘拐されたのに、両親が何事もなく展示会を続けるのは不自然すぎる。あれが詩穂里さんの替え玉だと言っているようなものです。ご両親にも不要な外出は控えていただくことにしましょう。詩穂里さんは完全に外出禁止です。万が一にもあれが詩穂里さんでは無いことが犯人にバレたら、本物の詩穂里さんを探しに来るかもしれません」
「それより川畑さんがどんな目に遭わされるか。私、川畑さんに何かあったら、一生かけても償いきれません。私、どうしたらいいですか? できることがあれば何でもしますから言ってください」
 必死に縋りつく詩穂里を「落ち着いて」と島崎が宥める。半腰になった詩穂里をもう一度ソファに座らせると、吉井が身を乗り出し、噛んで含めるように一つ一つゆっくりと言った。
「とにかく川畑が無事に解放されるまで、詩穂里さんはここを一歩も出ないでください。電話もメールもSNSも一切しないように。外界とのつながりは完全に遮断してください。我々との連絡用にあとで電話をお渡しします」
「はい、わかりました」
「では、私はギャラリーの方に話をして来ます。ついでに電話も取って来ますので、詩穂里さんはここで島崎と待機していてください」
 吉井は苦々しい顔で席を立った。

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