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三十五年目のラブレター 第7話

 展示会当日、アートギャラリーナカハシにはいつもの展示会のときと同じように警備会社から警備員二名が派遣されていた。見た目にはこの二人の警備員だけに見えたであろう、実際は私服の警察官が更に三人ほど配備されている。
 だが、そこに川畑と島崎の姿はない。本命は自宅のクリムトだと踏んだ二人は、中橋邸のクリムトの前で待機しているのである。そしてこちらには詩穂里がついている。
 狙われている名画と一緒に留守番ということで緊張感はあるものの、詩穂里は思いの外落ち着いている。恐らく年齢の近そうな川畑と島崎、それに名犬チョコも一緒だからであろう。
 しかもその川畑が緊張感のない世間話を振って来るのだ。先日のエインズレイのティーカップも素敵だったけど、今日のミントンのカップも華やかで好きだとか。オードトワレは、お揃いのピーチブロッサムを使う前はピオニーを使っていただとか。
 だがそんな一見どうでもいい会話の中に、チラチラと質問が混ざっていることも島崎は感じ取っていた。何か犯人の手掛かりがあるかもしれない。口を挟むことはあまりないが、詩穂里の淹れた紅茶を啜りながらも、二人の話に注意深く耳を傾けていた。
 今日はギャラリーの方には中橋の他に彼の妻である蓉子も一緒に詰めている。詩穂里の話によると、絵画などの芸術品の買い付けはほとんど蓉子がやっているらしい。彼女は美大卒で自身も油絵を描いている。
 二十歳の頃パリに留学し、そこで旅行に来ていた十歳年上の中橋に出会ったようだ。二人はすぐに意気投合し、パリと日本で遠距離恋愛を続け、彼女が日本に戻ってくると同時に結婚、数年後に詩穂里を授かったらしい。
 暫くは中橋が一人で『アートギャラリーナカハシ』を回していたが、中橋の両親に子守りを任せ、蓉子は買い付けの仕事を手伝うようになった。
 これが正解だった。
 中橋は根っからの芸術肌で、自分の好きなものにしか興味を持たない。そのためどうしても似たような作品ばかり集めてしまう。これでは単なる収集家であって、経営は成り立たないのだ。
 その点蓉子はちゃんと心得ていて、様々な作風の画家を集め、絵画だけにとどまらず写真や立体芸術にも関心を示した。
 また、美大を回ってグループ展を打診したり、ギャラリーの一部を展示スペースとして貸し出したりと、将来性のある若手発掘のために大活躍した。
 そのお陰で『アートギャラリーナカハシ』はそこそこ名の売れたギャラリーとなり、ここに展示することをステータスとする人々まで出現するようになった。
 詩穂里の話を聞く限りでは、『単なるアールヌーヴォー好きの男が趣味でやってる画廊を、蓉子がここまで名のあるギャラリーにした』という感じである。そして、それは中橋の口からも聞いているので、本人にも自覚があるのだろう、ということだった。
 そんな両親を見て育った詩穂里は、何故か芸術には興味を示さず、経営に興味を持った。幼心に「母が買い付け、父が商談、私が経営をすればいい」と思い込んでいた。周りの女の子たちが「ケーキ屋さんになりたい」「ドーナツ屋さんになりたい」と言っている頃から「社長になる」と言っていたのだ、筋金入りと言っていい。
 よくまあ、これだけの話を雑談からさりげなく引き出せるもんだと島崎が感心していると、川畑が調査済みのことをまたもや知らん顔で聞いている。
「顧客リスト見せて貰ったけど、凄い顔ぶれだったわね。眼医者さんや歯医者さんなんかの個人医院から大手企業まで選り取り見取り」
「そうですね、病院は人の流れが多いですし、すぐに傷んじゃうんですよ。だからああいうところは有名どころの画家さんじゃなくて、地元の無名の画家さんのものが売れるんです。そんなに値が張りませんから買い替えもさほどハードルは高くありません」
「大手企業は応接室とか社長室とかに飾るのかしら」
「恐らくそうですね。七、八十万くらいのものを数点ずつ。本当にいいものはご自宅で楽しまれるんじゃないかしら、経費で落ちませんし」
「そう言えば、お父様の顧客リストの中に、阿久津あくつ文明ふみあきさん、いらしたわね。ほら、先日会社のお金を使いこんで捕まっちゃった人。あの人もお得意様だったのかしら」
 川畑がいきなり直球をぶち込んで来た。阿久津という男は、建設大手の経理部長をやっていたが、会社の金を使い込んで業務上横領に問われたのだ。
 阿久津はちょこちょこと中橋のところから美術品を買い、その際に帳簿を誤魔化して自分の懐に流していたようだ。そのことを中橋が気付いていたとは思えないが、詩穂里はどうだったのだろうか。島崎が聞きたかったことを世間話のついでのようにさらりと聞いてしまう川畑の話術が、彼には心底羨ましく感じられた。
「阿久津さん、上御得意様でした。何度か一緒に食事したこともあります。父と阿久津さんは大学時代のサークル仲間で、その頃からの付き合いなんだそうです」
 島崎がチラリと川畑に視線を送る。川畑の方はほんの僅かも詩穂里から視線を動かさない。大したタマだ。
「お父様ショックだったでしょうね」
「ええ、信じられなかったみたいです」
 なるほど、中橋も詩穂里も阿久津の件には関与していないようだ。
 そこへチョコがワンワンと尻尾を振りながらやって来た。詩穂里がミニチュアダックスを抱き上げると、一気に場が和んだ。
「あ、そうだ、今日はチョコを散歩に連れて行ってなかったわ」
「じゃあ、俺が近所の偵察がてら、チョコの散歩にでも行って来るか」
「あー、それなら私が行くわ。チョコは人見知りするんでしょ? 島崎君じゃだめよ。私が偵察してくる」
 川畑が言うと、思いがけず詩穂里が「あの……」と割り込んだ。
「そんなかっちりしたスーツで犬の散歩なんて、いかにも怪しいですよ。ここに警察が詰めているって言ってるようなものです。川畑さん、私の服を着て行きませんか? それなら犯人がその辺にいたとしても怪しまれずに偵察できると思いますけど」
「ああ、それいいわね、賛成!」
 それから島崎はクリムトの前に放置され、二人は楽し気に詩穂里の部屋に引っ込んでしまった。
 十分後、詩穂里のフェミニンなブラウスとスカートに身を包んだ川畑が現れた。いつもチャコールグレイだのネイビーだののカチッとしたパンツスーツを着ている川畑からは想像もできないような服装ではあったが、これがなかなかに似合っている。
「どう? 似合う?」
「ん、馬子にも衣裳だな」
 と言いつつも、島崎は速くなってしまった鼓動を落ち着かせるのに苦労していた。彼のストライクど真ん中だったのだ。
「川畑さんにはちょっとバスト周りがきつそうですけど」
 確かにスレンダーな詩穂里に対して、川畑は出るところがしっかり出ている。島崎には少々目の毒だ。
「黒ゴムも色気無いからって、シュシュ貸してくれたの。可愛いでしょ?」
「まあ、靴はどうにもならんけどな」
 目のやり場に困った島崎が慌てて視線を足元に逃がしたことに気付くわけもなく、川畑はミニチュアダックスのリードを握った。
「じゃ、とりあえず行って来るわね。さ、チョコ行くわよ~」
 ワン、と元気よく返事をするチョコを連れて、川畑は堂々と正面から出て行った。そんな川畑の後ろ姿を見ながら、島崎は「お嬢様の歩き方じゃねえな」と呟いた。

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