三十五年目のラブレター 第29話
「あら、いらっしゃい。こんな時間に来たって店なんか開いてないのに、今日は運が良かったわね」
そういえばまだ昼前である。こんな時刻に内藤の店に来て開いていたのは不幸中の幸いだが、そんなことは全く考えもしなかった。
「昼間は裏側にある玄関の方に来てよ。お店は夕方にならないと開かないから」
「はい、ありがとうございます。今日は何をされてるんですか?」
「見ての通り大掃除よ。夏は何を洗ってもすぐに乾くでしょ? だからカーテンとか暖簾とか、そんなものまとめて洗濯すんの。ついでに床もデッキブラシでガシガシ洗っちゃうのよ」
相変わらずニューハーフを思わせるハスキーな低音が耳に残る。
「入んなさいよ。冷たいお茶くらい出すわよ」
デッキブラシの柄のような腕でそれを片付けると、先に立って店内に入って行く。せっかくなのでお言葉に甘えることにして、島崎は彼女の後について入って行った。
「どうぞ。暑かったでしょ」
緑茶。涼しげな緑色と氷の揺れる音が、島崎の体の熱を吸い取って行くようだ。
「ありがとうございます。生き返った心地です」
「で、今日は何?」
桐谷のところまで来たからついでに立ち寄ってみたなどとは、この忙しそうな人には言えないな、と島崎は内心苦笑する。
「例のサークルの件で少しお話を伺いたいと思いまして」
「あなた、モテないでしょ」
「は?」
何を言い出すんだこの人は。
「男前なのにそういうところで損してるわねぇ。そういう時は『あなたの事が忘れられなくて会いに来ました』って言うのよ」
「はぁ……いや、そんな恥ずかしい事言えませんよ」
「バカね、本気で言ってどうすんのよ、ジョークに決まってるでしょ。そんなんじゃいつまで経っても彼女できないわよ」
川畑に「何の用?」と聞かれた時、自分は何と答えていただろうか。
「今、誰のこと考えた?」
「は?」
「やーね、今、誰か女の子のこと考えてたじゃないのよ。わかりやすいんだから、刑事さん」
カラカラとドクロのように笑いながら枯れ枝のような指で煙草に火を点ける。本人も細けりゃタバコも細い。メントール系だろうか、スーッとした匂いが漂ってくる。
「もう、からかわないでくださいよ」
「からかってなんかないわよ」
そう言って、カウンターの下から何かを出してきた。トランプの二回りくらい大きなカードのようだ。
「なんですか、これ」
「タロットカード。あたしのタロットよく当たんのよ」
彼女はカードをよく混ぜると、不思議な形にカードを並べて行く。全く、誰がどんな特技を持っているかわかったもんじゃない。
「ここに『悪魔』出ちゃうか~。あ、でも『戦車』も出てる。悪くないわね」
彼女がブツブツと言いながら一人で満足しているようだが、島崎はとりあえず待つことにしてみた。
「いいじゃない、『運命の輪』も正位置ね。えーっ、『恋人』? あ、そう来るんだ。へ~」
――なんだなんだ、一人で楽しんでないで、早く教えてくれよ。
「えーとね。まず今のあなたの状況は芳しくない」
誰が見たってわかるだろ、と言いたいところだが、そこはじっと我慢して彼女の続きを待った。
「島崎さん、身近な人に騙されてる」
「は?」
「まあ聞いてよ。これね、悪魔なの。身近な……仲間とか彼女とか。あ、彼女いないんだっけ。まあ、そういう親しい人に騙されてる。だけどほら、ここに戦車があるのね。あなたがどんどん動くことで事態は好転するから」
「はぁ……」
「それと、ここに女教皇が正位置で出てる。島崎さんが探している相手は教養の高い人、芸術家かもしれないし、先生かもしれない」
――芸術家? 先生? たまたまにしてはキーワードが揃いすぎだぞ。
「これがよくわかんないのよね。この『恋人』の逆位置。島崎さん、今回の事件に私情挟んでない?」
「そんなわけないじゃないですか」
「そうよねぇ。刑事さんが事件を追うのに、私情の入り込む余地ないし。でも、なんか気になる女性の影と、そこに嫉妬の影が見えるのよね。誰に嫉妬するのかわかんないから、このカードの意味がさっぱり分からないのよねぇ」
――俺にはわかりすぎる。わかりすぎるけど、こんなところで言えるわけがない。川畑とずっと一緒にいる犯人と、誰より頼りになる吉井さんへのジェラシーなんて、口が裂けたって言えない!
それにしてもなんなのだろうか。タロットなどという得体の知れないカードでここまでわかるものなのか。オカルティックな事には全く興味のない島崎ですら、この占いには背筋がぞっとするほどの何かを感じた。
「ま、少しはこれで汗も引いたでしょ?」
「ええ、まあ」
汗が引くどころか寒気すら襲ってきているが、島崎は平静を装った。
「じゃ、用件を聞こうかしらね」
こんなにずばずばと当てられた後だ、頭の中が真っ白で思い出すのに時間がかかる。一体何を聞きに来たのだっただろうか。
そうだ! 桐谷のところ寄ったついでだったのだ。実は用事など無かったが、何でもないお喋りの中から何かのヒントが得られるかもしれないと思って立ち寄ったんじゃないか。
「大学を卒業してから、登山サークルで同窓会をされてますよね」
「え? そうだっけ?」
「中橋さんのギャラリーのオープン記念の祝賀会を兼ねて」
彼女は明後日の方に視点を合わせたかと思うと、暫くして「あ~」と頷いた。
「あれね、あったあった」
「その数日後に宮脇さんが亡くなったんですよね」
「そうだったかもしれない」
「その時、宮脇さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「ないない。中橋君と盛り上がってたわね。宮脇さんより桐谷さんの方が意外だったなぁ」
え? 桐谷?
「中橋君がナントカっていう美術の宗派みたいなのが好きでね、それを集めるんだとか言って」
「アールヌーヴォーじゃないですか?」
「あ、それそれ。アールなんとかだった」
どうやら彼女の美術の知識も島崎と大差ないようだ。
「彼のお祝いだったんだけど、誰も芸術の話なんかわかんないから、ぽかーんって感じだったのね。でも、中橋君って勝手に喋って勝手に満足するタイプだから、みんなテキトーにうんうんって話合わせてたのよ。本当は一つもわかんないんだけどね。だけどあの中で、桐谷さんだけがしっかりとその話について行ってたの。桐谷さんは『睡蓮』だっけ、あれを描いた人が好きだって言ってたわね」
睡蓮くらいなら島崎でも知っている。モネだ。だが、そのモネが何派なのかまではわからない。
「かなり詳しかったみたいよ。そのアールなんとかの画家の名前、すらすら~って十人分くらい出て来たもん。そのうちに日本画の話になって葛飾北斎《かつしかほくさい》がどうのとか、ウタマロヒロシゲ? 違うか、なんかそんなのの話になって、もうアタシらついて行けないから勝手にこっちで飲んでたわ」
恐らく歌川広重《うたがわひろしげ》だろうとは思うが、代表作すらわからない島崎はそこは突っ込まないでおくことにした。わざわざ自ら墓穴を掘りに行くこともないだろう。
それにしてもだ。桐谷が美術に精通しているとは思いもよらなかった。
とすると、例の西川の強制猥褻を最初に告発した匿名投稿者が桐谷である可能性も、濃厚になって来たということになりはしないか?
「ありがとうございます、また、きっと来ます」
「今度は仕事じゃなくてあたしに会いに来てね」
「え?」
「だからジョークだって。頑張りなさいよ、非モテ刑事さん」
ぐぬぬぬ……余計なお世話だ。
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