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三十五年目のラブレター 第11話

 川畑は玩具の手錠をかけられたままの両手でマグカップを持つと、彼の淹れてくれたコーヒーを飲んだ。いつもインスタントコーヒーを飲んでいる川畑には、飲み慣れた落ち着く味だ。
「おじさん、名前教えてくれませんか?」
 彼は一瞬迷ったが、フッと笑った。
「そうだね、シオリさんにだけ名前を聞いて自分が名乗っていなかった。僕はタケヒコ。桐谷武彦という」
 こんなにあっさりと教えてくれるとは思わなかった。物事を深く考えないタイプの人間には見えない。彼には自分が犯罪を犯しているという自覚がないのだろうか。それとも、もう人生を捨てているのか。
「桐谷さん。武彦さん。どっちで呼んだらいいですか?」
「どちらでも」
 この穏やかな口調からは、年頃の娘を誘拐した人間を想像するのは難しいだろう。川畑自身、この手錠さえなければ、自分が誘拐されたことを忘れてしまいそうだ。
「いや、やっぱり桐谷と呼んで貰おう。お恥ずかしい話だけど、君は僕の最愛の人によく似ていてね。武彦と呼ばれたら彼女がそこにいるような気がしてしまうからね」
「奥様ですか?」
「いや。結婚する前に死んだよ」
 死んだ? 結婚する前ということは婚約中か。
「ごめんなさい……私」
「いや、もう三十五年も昔の話だ。君は生まれてさえいない」
 最愛の人と彼は言った。つまり、それ以来彼はずっと一人で生きているのだろうか。結婚もせず、恋愛もせず。
 おそらく彼は還暦くらいだろう。そう考えると、婚約者を亡くしたのは二十五歳くらいということになる。
 だが、知り合ったばかりでこのことをしつこく聞くのも憚られた。その気になれば桐谷が自ら話してくれるだろう。
 「あの、これからどうするんですか。あの手紙を出したのは桐谷さんですよね。私がいなくなれば父も気づくと思うんですけど」
 彼はそれを聞いてゆっくりとコーヒーを啜った。
「君の写真を撮って、さっきネットカフェからお父さんのところへメールしておいたよ。中橋君は今頃焦っているだろうね」
 中橋君――その呼び方に川畑は違和感を覚えた。まるで親しい間柄のようではないか。
「あの……桐谷さんは父の古い友人か何かなんですか?」
「友達か」
 何故か桐谷がフッと笑った。
「さあね、友達というんだろうか。『友達』の定義は難しいと思わないかい? 『いい人』の定義が『仲のいい人』だったり『都合のいい人』だったりするように、『友達』の定義もまた流動的なものだと思うんだ」
 川畑は言葉を失った。こういう表情をする人を何度か見て来た。彼らに共通しているのは、酷い裏切りにあったということだ。
「同じサークルに入っていたんだよ、大学のときにね。登山サークルだった。と言っても仲間の半分は登山サークルというよりはアウトドアサークルみたいな感じだったし、残りの半分は、まあ僕も中橋君もこっちなんだが、登山なんて本格的なものじゃなくて……所謂トレッキングみたいな感じかな、彼とは何度も一緒にトレッキングを楽しんだんだよ」
 中橋が登山サークル? それは初耳だが、頷ける部分もある。彼は趣味にトレッキングを挙げていたはずだ。
「中橋君のことは友達だと思っていた。つい最近まではね」
「つい最近? 会ったんですか、父に」
「いや、会ってはいないんだ。たまたま見つけてしまったんだ、僕の人生をめちゃめちゃにした人間の一人に彼がいたことをね」
 桐谷はゆっくりとした動作でコーヒーを啜った。とんでもないことを話しているのにこの落ち着きようは何なのだろうか。娘相手に『あんたの親に人生を台無しにされた』と語っている男の表情とは思えないほど穏やかだ。中橋を恨んでいるという感じではなく、今まで知らなかった自分の愚かさを悔いているようにも見える。
「だが、彼ももう君がいなくなって十分驚いたと思う。今晩中には帰してあげるよ。シオリさん、済まないけど、もう少しだけ僕に付き合って貰えないかな」
「わかりました。その代わり、ここにいる間は手錠を外して貰えませんか。どうせ今晩中に帰して貰えるってわかってるんですから逃げませんし、桐谷さんが出かける時はつけて行って構いませんから」
 桐谷は川畑の心の裡《うち》を窺うようにじっと彼女の顔を見つめていたが、ややあって「わかった、そうしよう」と言うと手錠を外そうとした。
「待って。私、お腹減りました。手錠このままでいいですから、お昼ご飯買って来てください」
 一瞬キョトンとした桐谷が、ぷっと噴き出した。
「シオリさんは度胸が据わっているね。とても中橋君のお嬢さんとは思えないよ。サンドイッチでいいかい?」
「ツナサンドとたまごサンドで!」
「了解。少し待っててね」
 そう言うと、彼は大きな買い物用のマイバッグを持って部屋を出て行った。

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