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三十五年目のラブレター 第18話

 綱島の駅を降りて鶴見川の方へ向かう。この駅で降りるのは初めてだ。東急線の駅はみんな似たり寄ったりで、降りた途端にどこへ来たのか忘れてしまう。とは言え、東京近郊のベッドタウンなど、どこもかしこも似たようなものなのだが。
 朝の九時から一般家庭に押し掛けるのは少々失礼かとも思ったが、先方が年配の方だったせいかその時間でいいと言ってくれたので、島崎は甘えることにした。こちらとしては一刻も早く川畑を救い出したいのだ、なりふり構ってなどいられない。
 真夏の太陽は九時にもなると遠慮という言葉を忘れるらしい。昨日も汗だくで走り回ったというのに、今日もそうなる予感がしてならない。島崎はペットボトルのお茶を片手に、細い小路を歩く。
 さすがに駅から少し離れるとぷっつりと繁華街が消え、いきなりマンションの林立する地域になる。建物に高さがある分だけ、道が日陰になっている場所が増えて助かるというものだ。
 堤防が見えてきたところで横に逸れ、川に平行して歩く。川沿いには五階建て程度のマンションが延々と並んでいる。
 川沿いなら見晴らしもいいし、静かなのだろう。川の方が南向きだから、布団や洗濯物を干すにもいいのかもしれない。結婚したらこんなところに住みたいが、蚊もたくさんいそうだな、などとどうでもいい心配をしてしまう自分に、島崎は内心苦笑いする。
 十分ほど歩くと、一軒家が多くなってくる。そろそろかと、手帳にメモした住所と表札を確認しながら歩いていると、一人の老婦人が「島崎さん……でしょうか」と声を掛けてきた。
 島崎が返事をすると、その老婦人は「宮脇です。お待ちしてました」と門を開けた。どうやら島崎が迷わないように、玄関先で待っていてくれたらしい。この暑い中、メモを片手にウロウロと彷徨うのは何としても避けたかった島崎としては、この上なくありがたい配慮だった。
 宮脇家は老人が二人で住んでいるせいか、とても質素にまとまっていた。六畳の居間の奥にもう一部屋あり、そこには床の間と仏壇が並んでいた。仏壇の中では、古い写真ではあるが、島崎くらいの年齢の女性の写真が笑顔をこちらに向けていた。
 一瞬ドキリとした。その女性が川畑によく似ていたのだ。その瞬間、色々と物騒な妄想が頭の中を巡り、心がざわつくのを感じた。
 ――大丈夫。川畑さんは大丈夫。吉井さんが訓練している、大丈夫。
 何の確証もないのに、ひたすら脳内で呪文のように自分に言い聞かせる。そうしていないと冷静さを欠き、大切な事を見落としてしまうような気になって来るのだ。
 仏壇に線香をあげさせて貰っている間に、宮脇さんのご主人が居間に現れた。
 小さい、というよりは、しぼんだという言葉がピッタリくるような夫婦だった。体が小さいわけではない。恐らく、早くに娘を失って、生きる希望を失くしたのだろう。彼女が生きていればちょうど還暦、この夫婦はもう米寿を迎えようかという年齢だ。
 島崎が挨拶すると、ご主人は扇風機を持って来てくれ、奥さんは冷たい麦茶を出してくれた。手にしたペットボトルのお茶はもう温くなっていて、麦茶が火照った体をいい具合にクールダウンしてくれた。
 島崎は自分の祖父母の家に遊びに来たような感覚にとらわれていた。この夫婦からは深い悲しみと共に、大きな慈愛が感じられる。
「すみませんが最初にいくつか確認させてください。お嬢さんのお名前は恵美さん、二十六歳の時にお亡くなりになった、間違いありませんね」
「はい、間違いありません」
 これにはご主人が答えた。奥さんはご主人の横でちょこんと座っている。リスの隣に小鳥がとまっているような印象を受ける。
「死因はトレッキング中の滑落による事故死で間違いありませんか」
「そうです」
「ありがとうございます。では本題に入りますが。先日のニュースでご覧になっておられるかもしれませんが、川井建設経理部長の阿久津文明さんが、業務上横領容疑で逮捕されました。ご存知ですか」
「はい。テレビで見ました」
「都議会議員の西川修さんの強制猥褻容疑はご存知でしょうか」
「ワイドショーで今一番騒がれてますから」
 人並みにニュースやワイドショーは見る家庭らしい。
「この二人には共通点がありまして、東都大学の同期で登山サークルの仲間だったんです。それで、二人の人物像について同じサークルの方にお話を伺っているんです。桐谷武彦さんと中橋洋一さん、内藤きよみさんにはお話を伺いまして、あとは宮脇恵美さんだけなんですが、何か恵美さんから西川さんと阿久津さんについて話を聞いたことはありますか?」
 ちょっとこじつけ気味だったかとも思ったが、怪文書についてまで言うのは気が引けた。それに、恋人だった桐谷の話をいきなり振るのも警戒されてしまうのではないかという気もした。
 二人は顔を見合わせて首を傾げると、口々に「その二人の事はほとんど話題に上らなかった」と言った。家で話題に上ったのは専ら桐谷と中橋の事だったらしい。
 今度は三人でどこそこへ行く、その次は三人であっちの山へ行く、そんな話ばかりだったそうだ。そしてそれはだんだんと桐谷の話だけになって行き、恵美が桐谷に想いを寄せていることを夫妻は悟ったようだ。桐谷が茨城から一人で出てきていることもあって、何度も夕食に招待したらしい。
「桐谷君を呼んで一緒に食事をしている時に、お前たちは結婚しないのかと聞いたことがあるんですよ。その時、桐谷君はこう言ったんです。今すぐにでも結婚したいけれど、自分はまだ学生だしこれからどうなるかわからない、ちゃんとした職に就いて恵美を安心して任せられるような男になってから迎えに来たい、だから数年待って欲しい、と。それを聞いて、この人に娘を任せようと思ったんですよ。桐谷君はそれから数年後に正式に求婚してくれましてね、これから結納というときに逝ってしまったんです。桐谷君に申し訳なくてね」
 ――なんてこった、付き合っていただけじゃなくて婚約していたのか。
「桐谷君には、娘の事は忘れて貰って、他の女性と幸せになって欲しくてね。娘もきっとそれを望んでいたと思うんですよ、何度もそう言ったんですけど、彼は誰とも結婚しなかったんです。私も化学の教師をしていましたので、彼が人間的にも教師としても有能であることはよくわかっていました。彼ほどの人ならいくらでもお相手に事欠かなかっただろうに」
 ご主人は桐谷を既に息子のように思っていたのだろう、彼の言葉には微塵の嘘も感じられない。
 そこで奥さんが口を開いた。
「それから毎年命日にうちに線香をあげに来てくれるんです。三十五年間、欠かさずに。月命日にはお墓参りもしてくれていました。だから彼があれからずっと結婚も恋愛もせずに一人でいたことを知っているんです。今年も来てくれました」
「いつですか?」
「命日の七月七日です」
 先月だと? 西川と阿久津の件が大っぴらになる少し前ということか。
「その時、何かいつもと変わったことはありましたか」
「そうですねぇ。桐谷さんはいつもと変わりありませんでした」
 桐谷さん『は』? 桐谷さんは、ということは、彼以外の何かが変わっていたのか? そう聞く間もなく、彼女は言葉を継いだ。
「私たちももう歳なので、動けるうちにいろいろ処分しようということになりましてね。恵美の三十三回忌を機に、必要最小限だけ残して徹底的に処分したんです。恵美の部屋もそのままになっていたので、全部」
 なるほど、それで質素な生活のイメージの家に見えたのか。所謂『終活』を始めたということなのだろう。確かにこれ以上歳をとると、自分たちの力では処分もできなくなってくるに違いない。こうして動けるうちに動こうという気持ちも分からなくはない。
「恵美の部屋もね、片付けたんですよ。そのままにしておいて、私たちが死んでから知らない人に片付けられるのは嫌だったもんですから。そうしたら、カーペットの下から……」
「あれは驚いたねぇ」
 カーペットの下から?
「桐谷君に宛てた手紙が出てきたんですよ」

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