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三十五年目のラブレター 第35話

「彼ら?」
「お父さん」
 すかさず夫人が彼の袖を引っ張る。だが、彼はもう止まらなかった。
「恵美は、恵美は事故なんかで死んだんじゃないんです」
 彼は肩を震わせながら、更に絞り出すように付け加えた。
「殺されたんだ」
 ――殺されただと?
 島崎は半分腰を浮かしていることに自分で気づいていなかった。
「誰にですか」
 宮脇夫妻は口を真一文字に引き結んだまま、微動だにしない。
「手紙にはなんと書かれていたんですか。宮脇さん」
 だが二人はそれ以上は語ろうとしない。
「お願いします、教えてください、宮脇さん」
 夫人が両手で顔を覆った。
「宮脇さん!」
「それを私たちの口から言わなければならないのですか!」
 初めて宮脇氏が声を荒らげた瞬間だった。
 島崎にとってそれは、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
「申し訳ありません」
 夫人が声を上げて泣き崩れた。
「なんとお詫びしたら良いか。桐谷さんに直接伺って、実物を見せていただくことにします」
「いえ、私もつい。すみません」
 再び静寂が訪れた。夫人のすすり泣く声だけが静かに響く。
 ふと耳を澄ますと、外のセミの声にコオロギか何かの声が混じり始めたのが聞こえて来た。
 こうしてまた夜が来てしまうのだろうか。島崎は苛立ちを募らせていた。
 ――川畑さんは誰かのところで三日目の夜を迎えるのか。俺は何をやっているんだ。こんなところで、俺は……畜生!
「川畑さん……」
 ついうっかり声に出てしまった。警察官にあるまじき失態だ。
 だがこの宮脇夫妻と一緒にいると、懐かしい祖父母と一緒にいるような感覚に陥って、なぜか心が無防備に開いてしまう。
「カワバタさんというのはどなたですか?」
 夫人の方が遠慮がちに囁くのへ、島崎は頭を抱えてようやく絞り出した。
「私の……同僚です。実は、誘拐されたのは中橋さんのお嬢さんではないんです。お嬢さんの身代わりとして、川畑が連れ去られてしまったんです。もう三日目だ。彼女は高校時代からの私の友人なんです」
 夫人が「えっ」と言ったまま言葉を失った。
「大切な、俺の相棒なんだ」
 ほとんど独り言のように島崎が呟くのを見て、夫人が宮脇の腕をとった。
「どうしましょう……あなた、もういいでしょう?」
 ――えっ? もういいでしょうとはどういう意味なんだ?
 彼女は宮脇の返事を待たずに島崎に詰め寄った。
「島崎さん、そのカワバタさんを誘拐したのは、恐らく桐谷さんです」
 ――なんだって? しかし、桐谷の家で川畑の名を呼んだ時、何の反応もなかったはずだ。これは一体どういうことだ。
「私たちはそれを心の中にしまっておくことだってできたはずなんです。桐谷さんに見せる必要なんかどこにもなかった。私たちがあの部屋を整理しなかったら、私たちの死後、業者の方がゴミとして処理していたはずなんです……そのまま、気付かなかったことにするべきだったんです。でも私たちはそれを桐谷さんに渡した。宛名が彼だったから、というのは私たちの言い訳です。私たちが彼に見て欲しかったんです。もっと正直に言いましょう、彼に復讐して欲しかったんですよ」
 ――復讐……だと?
 俯いてしまった夫人に代わって、今度は宮脇が言葉を継いだ。
「私たちはこんな年寄りです。何もできません。でも。桐谷君がこれを見たら黙ってはいないだろうと。私たちは中を見ていないふりをして、彼に手紙を渡しました。このあと、彼が復讐しようとしまいと、それは彼の判断です。でも私たちはわかっていた、彼が黙っているわけがないと疑いもしなかった。必ず動き出すとわかっていながら……」
 言葉を詰まらせた宮脇に代わり、再び夫人がその後を続けた。
「桐谷さんは頭の切れる方です。阿久津さんと西川さんを追い込むことなど容易い事だろうと思いました。実際、桐谷さんはきっちりと二人の居場所を失くしてくれました。でも私たちには誤算があったんです」
「誤算?」
「ええ。桐谷さんは中橋さんとは仲が良かった。それに中橋さんだけは娘の死因に関して、あの二人とは少し事情が異なっていたんです。だから桐谷さんが中橋さんにまでその復讐の矛先を向けるとは思っていなかったんです。まさか中橋さんの娘さんを誘拐しているとは思ってもみなかったので、島崎さんが話を聞かせてくれと仰ったときに、少し欲が出てしまったんです」
「欲ですか」
「あの手紙を警察に見せたいと。恵美があの人達に殺されたということを、警察に知らせたくなったんです。娘の無念をどうしても晴らしてやりたかったんです」
 ――それであの時、わざわざ手紙の話を持ち出したのか。桐谷が中橋の娘を誘拐しているとは知らずに。
「私たちは自分の手を汚さずに、桐谷さんに復讐させたんです。自分の口で頼みもせず、自分たちを安全なところに置いて、彼を動かした。裁かれるべきは私たちです。罪を償わなければならないのは桐谷さんじゃない、私たちなんです。彼は何も悪くない」
 そこまで言って彼女は俯いた。膝の上に組んだ手に、ぽたりと涙が一粒落ちた。子リスのような夫と小鳥のような妻が、寄り添って小さな肩を震わせていた。
 島崎はカラカラに乾いた唇を湿らせると、一言ずつゆっくりと言葉を発した。
「わかりました。桐谷さんに会って来ます」
 島崎は言葉も発せずにただ頷く二人に深く頭を下げると、静かに宮脇邸を後にした。

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